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『百億の欠落者(ロスト)』  作者: 紅月ヨルカ


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あるべき姿へ

ベイルマンから逃げ切り、どうにか宿へ辿り着くと、ライムはカイルをベッドに寝かせ、自分はふらつく足取りのまま洗面台へ向かった。


喉が焼けるように乾いている。


蛇口をひねると、古びた配管がゴボゴボと鳴り、冷たい水が勢いよく流れ出した。

ライムは顔を近づけ、そのまま蛇口に口をつける。


ゴク、ゴク、ゴク……。


冷たい水が喉を通り、焼けつくような肺の奥まで落ちていく。鉄と石の匂いが混ざった水だったが、今はそれが妙にありがたかった。


「はぁ……やっぱ普通の水だよな……?」


口元を拭いながら振り返ると、ベッドで眠るカイルの姿が目に入る。

その顔を見て、ふと思い出したように口を開く。


「あ……そういえばアイツはどうなった?」


部屋の奥で窓にもたれかかっていた魔女が、退屈そうに肩をすくめる。


「ああ、ヒーローさんのこと? 見てないわよ。それどころじゃなかったでしょ?」


朝焼け前の薄暗い光が、彼女の横顔をぼんやりと照らしている。


「でも追ってこないところを見ると、その場で生き絶えたか、まだ片膝ついてるか、応援でも呼びに行ったんじゃない?」


あまりにもあっさりした物言いに、ライムは苦笑する。


「それって勝ちってことでいいのかな……いや、死体を見るまでは油断できないか」


自然と表情が引き締まる。


魔女はくすりと笑った。


「随分と警戒心が強いのね。色んな経験してきたの?」


ライムは頭をかきながら答える。


「ああ……前に副団長っていう、よくわからん奴に追われてさ。倒したと思ったら壁ぶち破ってまた出てくるし……今思い出しても恐ろしい奴だったよ」


「ふ〜ん。まあ、どうでもいいんだけどね」


興味を失ったように言い残し、魔女は階段を上っていった。

木の階段が、ギシ、ギシ、と軋む音を立てる。


(じゃあ聞くなよ……)


小さくため息をつきながら、ライムはカイルの横に腰を下ろす。


静かな時間が流れる。

外では遠くで早起きの商人の声がかすかに響き、窓の隙間から冷たい朝の空気が入り込んでくる。


やがて、空が白み始めた頃。


カイルのまぶたが、ゆっくりと震えた。


「あ……ここは……宿か?」


まだ夢と現実の境目にいるような声で呟き、部屋を見回す。


「それに……ライムさん……」


起こさないように、そっと体を起こす。

その瞬間、全身に走る鈍い痛みに顔をしかめる。


(僕は……また迷惑をかけたのかな……)


腕や体に残る無数の傷を見て、小さく俯く。


(だって……傷だらけだもんな……)


喉の渇きを覚え、ふらつきながら飲み物を探そうとしたその時。


「あら、起きたの?」


背後から声がかかる。


振り向くと、寝起きらしく髪を軽く乱した魔女が立っていた。


「大丈夫? これ、多分大丈夫だから飲みなさい」


そう言って差し出されたのは、見覚えのある金属製の容器だった。


それを見た瞬間、カイルの目がわずかに見開かれる。


「あ……その容器は……」


震える手で受け取り、少しだけ迷ってから、静かに言う。


「……ありがとう」


そして一気に飲み干した。

「あっ……いつもの水だ……」


容器を握ったカイルの表情が、ほっと緩む。

乾ききった喉に水を流し込むたび、緊張で強張っていた肩から力が抜けていく。


「もしかして……隣町の水を店主さんからもらって来てくれたんですか? ありがとうございます……! 僕なんかのために」


弱々しいながらも、久しぶりの笑顔だった。


だが、その言葉に魔女の眉がぴくりと動く。


窓から差し込む朝の白い光が、彼女の険しい表情をくっきり浮かび上がらせた。


「正確に言うと、隣町の水じゃないの。それに、あなたのためでもない」


声は冷たく、早口になる。


「ただの好奇心。それと、獣人が暴走する理由を調べたかっただけ」


そう言い放ったあと、鋭い視線をカイルに突き刺す。


「それより聞きたいの。この街はどういう理屈でこんな状況になってるの? 獣人たちは、見えない檻に閉じ込められてるようなものじゃない」


空気がぴり、と張り詰める。


カイルはきょとんとした顔で魔女を見る。


「あの……なんでそんなに怒ってるんですか? 関係ないじゃないですか、他所から来たあなたには……!」


思わず言い返してしまう。


その瞬間、魔女の目がさらに細くなる。


「関係ない? あの子は、あのヒーローからアンタを守ったのよ。それでも“他人だから関係ない”って切り捨てるわけ?」


空気が冷え込む。


カイルは自分の腕を見る。傷だらけの肌、滲んだ血の跡。


「ええ、そうですよ……僕なんか死んじゃっても良かったんだ……人と違う、こんな体の僕なんか……」


声が震え、視界が滲む。


魔女は小さく息を吐く。


「死ぬのは自由よ。好きにすればいい。でもね――」


口元だけ、わずかに笑った。


「調べてみて分かったことがあるの。アンタが“ハーフ”で良かったってこと」


カイルの肩がびくりと跳ねる。


「……気づいてたんですか。だったらなおさら、あの場で殺してくれたら良かったのに……」


俯く声はかすれている。


魔女は淡々と続ける。


「黒い獣になって暴れる。でも、あなた自身にその気はない。そして、この街の水は飲めない。さらに――」


床に置かれた容器を指差す。


「倒壊した店の近くに落ちてた、この容器。それで――」


言い終える前に、カイルが詰め寄った。


「ちょっと待ってください! 倒壊したって……! おじさんは!? 無事なんですか!? 答えて……答えろよ!」


呼吸が荒くなり、目が赤く染まる。


部屋の隅で壁にもたれていたライムが、視線も向けずにぽつりと言う。


「……もう死んだよ」


静かな声だった。


余計な感情も、同情もない。ただ事実だけを置くように。


カイルの顔が歪む。


「なんなんだよ、それ……なんでそんなあっさり言うんだよ……おかしいだろ……!」


声が裏返る。


ライムは淡々と続ける。


「最後まで、お前のこと気にしてた。崩れかけの店で、水を汲んで持っていこうとしてた」


短い沈黙。


魔女が冷たく言い放つ。


「もう教えてあげたら? アンタが力を受け入れないから、暴れて倒壊させたって」


カイルの体から力が抜け、その場にしゃがみ込む。


(……ああ)


乾いた笑いが漏れる。


「あはは……そうか……僕が……」


拳を握る。


「僕が殺したんですね……この力のせいで……」


魔女は肩をすくめる。


「正確には“獅子”がやったことよ」


そして話を戻すように言う。


「で、さっきの続きなんだけど――」と言いかけると

カイルはその場で崩れ落ち、嗚咽を漏らした。

床が涙で湿り、肩が小刻みに震えている。


部屋の空気は重く、窓の外から聞こえる朝の雑踏だけがやけに遠く感じられた。


そんな空気を気にする様子もなく、魔女は淡々と口を開く。


「慰める気はないけど、聞いてくれる?」


研究結果を報告する時と同じ声色だった。


「血まみれのアンタを抱えて走ってたあの子の横を、獣人が通り過ぎたでしょ? そしたら急に凶暴化して、隣にいた仲間に噛みついたの。その瞬間、ピンと来たのよ。アンタがハーフで良かったって意味、そこにあるの」


「あはは……もう少し分かりやすく頼むよ」


ライムが頭を掻きながら言う。


魔女は少しだけ苛立ったようにため息をついた。


「……つまりね。水道水を飲んでみたら違和感があったの。そこでアンタの血を少し採取して、水に一滴混ぜてみた。そしたら成分が変化したのよ」


彼女の目がわずかに輝く。


「だから成分を分析して――って、ちゃんと聞いてる?」


普段の冷静さとは違う研究者としての熱量に、ライムが少し引き気味に聞き返す。


「つまり水道水がおかしいの? それともカイルの血が特殊?」


「どっちもよ。ハーフだからこの水が合わない。獣人は本来もっと凶暴なのよ。つまり、水道水には獣人を抑制する何かが混ぜられている」


そこまで言ったところで、床に座り込んだままのカイルがかすれた声で続ける。


「……そうです。水道水には抑制成分が含まれてます……。僕はハーフだから、逆に本能が優って暴走してしまう……」


「そういうこと。で、アンタの血がその抑制を打ち消した」


魔女は腕を組み、確認するように言う。


「これで説明は大丈夫?」


「さすがに分かったよ。ありがとう。……もしかして、ずっと寝ずに調べてたの?」


ライムが軽く笑う。


「まあね。気になると止まらない性格なの。それで精製まではできたんだけど……」


魔女は窓の外へ目を向ける。


朝日が街並みを白く照らしていた。


「私たち他所者だし、このまま帰りましょうか? 関係ないもの」


「あはは、それもそうだね。僕も別にこの街がどうなってもいいし。また獅子みたいなのが出てきても困るし、次の世界に行こうかな」


ライムが立ち上がる。


その時だった。


「あの……」


震える声が背後から響く。


二人が振り向くと、カイルが赤く腫れた目でこちらを見ていた。


「力を……貸してくれませんか……。獣人達が……街が……元に戻るなら……。薬を混ぜてる医療施設がなくなるなら……僕は……嬉しいです……」


魔女が首をかしげる。


「でもあなた、この街の人に嫌われてたじゃない。それでも助けたいの?」


カイルは少しだけ沈黙し、拳を握りしめた。


「……どこにも、居場所なんてありませんから……。それに……おじさんの無念も……」


声が震える。


その言葉に、ライムの表情がわずかに変わった。


そして次の瞬間、いつもの笑顔で言った。


「――依頼ってことでいい?」


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