逃走
石畳を蹴る足音が、湿った路地裏に虚しく響く。肩に担いだカイルの重みは、まるで自分の罪そのものを背負っているかのようだ。喉は焼けた鉄の味がし、肺は煤と油の混じった空気を吸い込むたびに、悲鳴のような喘鳴を上げた。
「……カイル……お前、本当に……」
視線を落とせば、そこには青白い顔をした「ただの青年」がいた。さっきまで、暴虐の限りを尽くした『黒い獣』だったなどと、誰が信じるだろう。肩に伝わる一定の鼓動と、少しだけ温かい体温。その「人間らしさ」が、ライムの脳裏に焼き付いた獣の咆哮とぶつかり合い、不快な摩擦音を立てる。
「あら、まだ動揺してるの? 私は最初からわかってたわよ。これだけ獣人がひしめく街で、ただの『人間』が一人、何の守りもなく生きている違和感にね」
隣を併走する魔女の声は、夜風のように鋭く、そして冷たい。
「宿の盗賊たちは、本当の主だった獣人を殺して居座っていただけの寄生虫。……でも、この子だけは違う。最初からこの街の『闇』そのものに根を張っていたのよ」
「あはは……。わかってるよ、この目で見たんだから。でも……こんな細っこい奴があんな化け物になるなんて、どういう理屈だよ」
ライムは引きつった笑いを浮かべ、担ぎ直したカイルの重みに顔をしかめた。
「そうね。説明すれば長くなるわ。……それより、これを受け取りなさい」
魔女が差し出したのは、鈍い光を放つ一発の弾丸。受け取った瞬間、ライムの指先にジリジリとした**『拍動』**が伝わった。金属の塊のはずなのに、まるで生きている心臓を握っているかのように熱い。
「何これ。……熱い。生きているみたいだ」
「火の魔力を凝縮した種火よ。……いざという時に使いなさい」
その直後、背後の路地から大気を引き裂くようなが力が溢れた。
――ガチッ、ガギィィィンッ!
重厚な足音が壁に反響し、物理的な圧力となってライムの背中を押しつぶそうとする。
「彼を落とさないでね。……死なせたら、あんたが今抱えてる『謎』も全部消えてなくなるわよ!」
魔女の指先から放たれた紅蓮の火玉が闇を裂くが、ベイルマンは、その爆炎を羽虫でも払うかのように突き抜けてくる。
二人は路地を抜け、大通りへと躍り出た。煤けた街灯の下、うつろな瞳で徘徊する大勢の獣人たち。ライムたちがその脇を駆け抜けた瞬間、変化が起きた。ライムの横にいた獣人達が徐々に頭を抱え、獣じみた咆哮を上げながら、隣り合う者の肉を食らい、殺し始めたのだ。
「……っ、こいつら!」
その惨状を冷徹な目で見つめていた魔女が、短く指示を飛ばす。
「ねえ? もう一度こっちの路地裏に入って!」
ライムは黙って頷き、霧のように立ち込める蒸気の奥へと飛び込んだ。
「ここは蒸気が噴出してる……意味わかる?」
魔女の問いに、ライムは答えず立ち止まる。背後から迫る、地響きのような重低音。
ベイルマンが壁を粉砕しながら姿を現した。
「良い度胸だ……待っていたのか?」
怒りに満ちた声と共に、鋼鉄の巨躯がゆっくりと近づく。
「ああ。もう……こいつを抱えて逃げるのは疲れたんだ……」
ライムは付近の配管二箇所を、正確に撃ち抜いた。
プシュゥゥゥッ!!
高圧の蒸気が爆音と共に周囲を白く染め上げる。その瞬間、ベイルマンが微かに「ビクッ」と体を震わせるのを、ライムは見逃さなかった。
(……今だ)
ライムは残弾を捨て、あの『拍動する弾丸』をシリンダーに叩き込む。
視界はゼロ。だが、音と気配だけで「黒い影」の位置を特定する。
(たった一発……どこでもいい、当たってくれ)
引き金を引く。
衝撃。炎。爆発音。
真っ赤な閃光が蒸気を吹き飛ばし、周囲の壁を粉々に粉砕した。
霧が晴れた先で、巨躯が片膝を突いているのが見えた。
「行きましょう……」
魔女は結果を確信したように、背を向けて宿へと歩き出す。ライムもまた、銃身が歪み、再起不能となった愛銃をその場に捨て、彼女の後に続いた。
「……グッ……!」
ベイルマンの左胸、鋼鉄の装甲に穿たれた無残な穴。そこから溢れ出す鮮血が、熱で溶けた鋼鉄と混ざり合い、ドロドロとした黒い浮腫となって滴り落ちる。
「頑丈で……良かった……次は……殺す……」
ベイルマンは血を吐きながら傷口を抑え、遠ざかる二人の背中を、憎悪の籠もった瞳で見つめ続けていた。




