黒い獣
ライムが肉を噛みしめるのを再開した、その時だった。 遠くで響いていた賑やかな歓声が、まるで鋭利な刃物で喉をかき切られたような、短い悲鳴へと一変する。
「……あはは。賑やかだね。おじさん、あのポスターのベイルマンって、そんなに人気……」
言いかけた言葉は、地響きのような不快な重低音にかき消された。 ズン、と椅子の脚から這い上がってきた微振動が、ライムの胃袋を直接揺らす。街のどこかで、巨大な鉄塊が建物をなぎ倒しながら、猛烈な勢いでこちらへ突き進んできている。
「なんだ、何の騒ぎだ!」 店主が脂ぎった手で窓の曇りを拭い、身を乗り出した瞬間――。
霧の向こうから、質量を持った「闇」が弾丸のような速度で肉薄してきた。
――ドガァァァァンッ!!!
窓ではない。その横の頑強なレンガ壁が、内側に向けて爆発した。 凄まじい衝撃波が店内の空気を圧縮し、飛散した瓦礫が食器を粉砕する。長年積み重なった油まみれの埃が、瞬時に視界を真っ白に塗り潰した。
ライムは瞬きもせず、ただ手に持った肉の骨を見つめていた。埃のベールを突き破り、カウンターを粉砕しながら転がり込んできたのは、どす黒い霧を吐き出す「巨大な獣の塊」
「……あはは。困ったな。せっかくのソースが、煤だらけだ」
ライムが笑っていると、崩れた壁の穴――その向こうの闇から、鈍い鉄光を放つ黒い獅子が姿を現した。ベイルマンだ。重装甲が擦れる不快な金属音を響かせ、逃げた獲物を冷酷に追い詰めるその姿は、ヒーローというよりは「処刑人」に近い。
次の瞬間、黒い獣は目を見開いて起き上がると、折れた骨を無理やり繋ぎ合わせるような嫌な音を立て、周りを巻き込みながら左右に体を回転させてベイルマンへと突撃した。
「ここにいたら危ないよ。外に行こう」
ライムに促され、店主は外へ飛び出す。 「ああ……アイツのせいで店がボロボロだよ。ベイルマンには頑張って倒してもらいたいもんだ。ああいう、街の平和を乱す『反乱分子』はさ……」
瓦礫の山となった店を振り返り、店主はカイルの身を案じる。 「そういえばカイルの奴は……。ああ、良かった、あっちにはいない。」
「……あはは、外にいたんだから僕たちよりも異変にはすぐに気付いただろうし、今頃離れたとこで隠れてるよ」
ライムの軽い言葉に、店主は少しだけ表情を緩めたが、すぐに何かを思い出して顔色を変えた。 「ああしまった! カイルの水を持ってこねえと! あの崩れた店内に戻った時、飲み物がないとアイツ、また倒れちまう……。すぐ戻るから、ここで待っててくれるか?」
「うんもちろんだよ。でも急いでね、崩れたら大変だからさ」
ライムは冗談っぽく見送り、店主の背中が消えるのを待ってから、ゆっくりと「黒い獅子」の方へ向き直った。
視線の先では、黒い獅子の装甲が獣の爪を弾き、火花を散らしている。 ライムは腰の十手に指をかけ、その冷たい感触で己の熱を冷ますように呟いた。
(……こっちに来るなよ。今は、ね)
その瞳には、先ほどまでの「あはは」という光は微塵も残っていなかった。
メインストリートは、鋼鉄と肉が激突する不快な音に支配されていた。
ライムは店主の帰りを待っていたが、通りから響くあまりに生々しい打撃音に耐えきれず、吸い寄せられるように観衆の後ろまで走り寄った。
人垣の隙間から見えたのは、人ならざる「正義」の蹂躙だ。 黒い獅子――ベイルマンは、突進を繰り返す黒い獣の鋭い爪を、装甲の表面で冷酷に弾き飛ばし続けている。相手を嘲笑い、甚振るような冷たい挑発。彼は再び牙を剥こうとした獣の首を、事もなげに左手で掴み上げた。
次の瞬間、剥き出しの暴力が炸裂した。
ベイルマンは獣の顔面を、骨が砕ける感触を確かめるように何度も殴りつけた。そのままの勢いで、獣の頭部を石畳に叩きつける。 「ベチャッ、ゴキッ」という湿った破壊音が響くたび、周囲を囲む群衆からは「早くその悪を倒せ」と言わんばかりの、熱病じみた歓声が沸き起こった。
「ははは! フィナーレだ!」
ベイルマンが獣を両手で高く掲げ、自身の装甲を軋ませながら猛烈な速度で回転し始める。 その投擲線が向かう先を直感した瞬間、ライムの心臓が警鐘を鳴らした。
「待て……やりすぎだ……!」
ライムは呟き、弾かれたように店の方へ向かって走り出した。
背後で、遠心力を乗せた巨大な質量が一気に放たれる。 ライムが肩越しに見た視線の先で、獣の塊は砲弾と化し、逃げ場のない速度で先ほどの飯屋へと激突した。
メキメキと柱が折れ、レンガが悲鳴を上げる凄まじい轟音。 ギリギリで保っていた均衡が、圧倒的な重力によって無慈悲に粉砕される。飯屋の一階は、粉塵と巨大な砂煙を巻き上げ、倒壊する。
ライムは一瞬だけ呆然と立ち尽くしたが、すぐに表情を消し、瓦礫の山となった裏口へと駆け寄った。 舞い上がる埃、焼き付いた油の匂い。その無惨な残骸の合間に、一つの容器が転がっていた。
カイルのための、澄み切った水。
容器からは、主人の必死な願いをあざ笑うように、微かな水が溢れ出し、煤けた土へと吸い込まれていく。
ライムはその冷たい容器を、何も言わずに拾い上げた。 指先に伝わる水の湿り気が、ひどく現実味を欠いているように感じる。
「……あはは。肉、おかわりしたかったな……」
吐き捨てた言葉は、自分でも驚くほど空虚だった。 ライムは十手を抜き放ち、冷たい鋼の感触を確かめると、まだ瓦礫の下で蠢いているであろう「黒い獣」の気配を探るべく、崩落現場へと足を踏み入れた。 その瞬間死事人モードに切り替わっていた。
視界を埋め尽くすのは、舞い上がる灰色の粉塵と、焼き付いた機械油の匂い。 ライムは瓦礫の山を這い、あの「黒い獣」の行方を探っていた。道の向こうからは、重装甲を軋ませる不快な金属音と共に、黒い獅子――ベイルマンがゆっくりと死神のような足取りで近づいてくる。
(……アイツも、トドメを刺しに来たのか)
殺気を含んだ思考を巡らせた、その時。
「十手なんて持ち出して、一体何をしてるの?」
背後から届いた不意の声に、ライムの身体が豹のように反応した。振り向きざま、十手の先端を声の主の喉元へ突き出す。
「あら……。目が怖いわよ、ライム。向ける相手を間違えていないかしら?」
そこにいたのは、いつものように冷静な、けれどどこか悲しげな瞳をした魔女だった。 「あはは……。ごめんね。ちょっと、探し物をしててさ」
ライムが武器を引くと、魔女は無言で裏路地の先、ひしゃげた鉄骨の下を指差した。 「探し物はあそこよ。……でもね、冷静になりなさい。いいわね?」
彼女の声音に含まれた微かな慈愛に、ライムは一瞬だけ表情を強張らせた。だがすぐに乾いた笑いでそれを塗り潰し、瓦礫の下でぐったりと横たわる黒い獣を見つけ出す。 止めを刺そうと一歩踏み出した瞬間、魔女の指先から淡い光が溢れ、獣の傷口を包み込んだ。
「……何をしてるんだ? 今が仕留めるチャンスだよ」
ライムの瞳から温度が消え、鋭い殺気が魔女を射抜く。だが彼女は、背後で瓦礫を蹴散らしながら迫る黒い獅子の音を聞きながら、静かに告げた。
「訳は後で話すわ。その獣を連れて、ここを離れましょう」 「あはは……。何故? 理解できないよ、そんなの」
困惑するライムの袖を、魔女が強く引く。 「……お願い」
その一言に、ライムは溜息をついて十手を収めた。 「……まいったな。そこまで言われたら、仕方ないか」
ライムは、鉄錆と血の混じった重い獣の体を抱え上げ、走り出した。 「おい、止まれッ!」
背後から、空気を震わせるベイルマンの怒号が飛ぶ。 「その獣をどこへ運ぶ気だ? 治安維持の邪魔をするな。黙ってこちらへ引き渡せ!」
「あはは……。慌てなくても、引き渡すつもりだったよ。『ヒーロー』さん」
ライムが皮肉を込めて振り返ろうとした、その刹那。 魔女の手のひらから、劫火の渦が放たれた。火炎放射器のごとき猛烈な熱波がベイルマンを直撃し、周囲の霧を一気に蒸発させる。
「さっさと走りなさい!」 「あはは……! 相変わらず、荒いなあ」
爆風を背に受け、ライムは路地を疾走する。 ベイルマンは怯むことなく、燃え盛る炎を片手でなぎ払いながら、重装甲の脚で石畳を抉り、猛追してくる。魔女が放つ火の玉を、鬱陶しい羽虫を払うように弾き飛ばしながら、その距離は刻一刻と縮まっていく。
その時だ。 腕の中にあった、あんなに重く、硬い毛に覆われていた獣の感触が、劇的に変化し始めた。
どす黒いオーラが霧のように霧散し、巨大な肉体が、骨を軋ませながらみるみるうちに縮んでいく。 獣の荒々しい体温は引き、代わりに伝わってきたのは、今にも消え入りそうな、弱々しい人間の鼓動。
腕の中に残ったのは、アッシュグレーの長髪を血に染め、病的なまでに白い肌を晒した一人の青年だった。
「……カイル……?」
腕の中の体温が、弱く脈打った。




