カイルの居場所
「獣人街……?」
二人が声を揃えると、カイルはビクッと肩を揺らし、困惑したように視線を泳がせた。
「え……? 知らなかったんですか? 街の人はみんな知ってる……あ、そうか、旅の方でしたね。でも、ここに来るまで、誰とも会わなかったんですか?」
「会ったといえば会ったよ。真っ黒い大きな獣と、獅子の暑苦しいヒーロー様とかね」
ライムは、困ったような、それでいて柔和な笑みを浮かべて肩をすくめた。
「……なるほど。言われてみれば、獣人しかいなかったな」
魔女がその横で、毒を含んだ笑みをこぼす。
「訂正しておいてあげるわ。あの黒い獣は『獣人』というより、ただの『獣』だったわよ」
「あはは……。黒い獣に、ベイルマン……。この街の『有名人』に、真っ先に会っちゃったんですね」
カイルは力なく、自嘲気味に笑った。その細い指先が、落ち着かなげに服の裾をいじっている。
「……あ、あの。立ち話もなんですし、行きましょう。案内、しますから」
カイルが先に立って歩き出す。ライムも「おっと」と笑いながらその後を追った。
宿の入り口で見送る魔女は、遠ざかるカイルの、今にも折れそうな細い背中をじっと見つめ、誰にともなく呟いた。
「……あの子、獣人街の住人のくせに。なんであんなに、ただの『人間』に見えるのかしらね」
その疑問を追求するほど、彼女の興味は長くなかった。
「まあ、どうでもいいわ。行ってらっしゃい。せいぜい、食べられないようにね」
魔女はひらひらと手を振り、ひんやりとした宿の影へと消えていった。
一歩外へ踏み出したライムを待っていたのは、むせ返るような「生活の匂い」だった。
中央区のあの無機質な白さとは無縁の、煤けた茶色と灰色が支配する世界。鼻をつくのは、濡れた獣の毛の匂い、安っぽい脂が焼ける煙、そして古い木材が腐りかけたような、湿った空気。
「……すごいな。本当に、どこを見ても獣人ばかりだ」
ライムは笑顔を崩さず、興味深そうに周囲を見渡す。
路地の隅でうずくまる、耳の垂れた子供たち。荷車を引く、逞しいがどこか生気のない牛頭の男。洗濯物を干す、年老いた猫人の老婆。
彼らはライムと目が合うと、一様に怯えたように視線を逸らし、逃げるように家の中へ引っ込んでしまう。
「あはは、そんなにジロジロ見ちゃダメだよ、ライムさん。……僕たちの方が、ここでは『異物』なんだから」
カイルが、消え入りそうな声で、たしなめるように言う。
「お互いがお互いを化け物だと思ってる、ってことかな。……でもカイル、君はここに住んでるんだよね? 顔見知りとかはいないの?」
「……知っては、いると思うけど……。この街の人はみんな、すごく臆病なんだ。僕とか、冒険者みたいなのが近くにいるだけで、怖いんだと思う……。でも、今から行くところは大丈夫だから」
カイルの瞳に、ふと暗い影がよぎった。
「そりゃ楽しみだ。できれば、ちゃんと毒が入ってないまともな食事が食べたいな」
ライムがいつもの柔らかな笑顔で冗談を言うと、カイルは一瞬立ち止まり、路地裏にひっそりと佇む一軒の建物を指差した。
「……ここ。メイン通りからは外れてるけど、味は街で一番なんだ」
そこは、お世辞にも「レストラン」とは呼びがたい、煤け腐りかけた木造の古家だった。看板は傾き、窓ガラスは汚れで曇っている。
「……ええ? せっかくなら、もっとこう、表通りの綺麗な店がいいんだけどな」
ライムが少しだけ眉を下げて困ったように言うと、カイルは「大丈夫だから……!」と、ライムの腕を掴んだ。
「さあ、入って。……ほら!」
「おわっ……!?」
ぐい、と引き寄せられた。
そのか細い腕からは想像もつかない、暴力的なまでの力強さ。ライムは笑顔のまま、その腕の感触に一瞬だけ眼光を鋭くした。
(……意外と、力強いんだな。この子)
扉を開けると、チリン、と錆びついた鈴の音が鳴った。
中は薄暗く、カウンターには長年の油と埃が層を成している。奥から現れたのは、顔半分を灰色の毛で覆った、老齢の犬獣人だった。
「いらっしゃい。……ああ、カイルのお友達かい。汚いとこだが、適当に座ってくれ」
主人のガラガラと掠れた声に、カイルは顔を赤くして、小さく肩をすくめた。
「……もう、おじさん。これから食べるんだから、汚いなんて言わないでよ……」
カイルの消え入りそうなツッコミに、老店主は鼻を鳴らして笑い、汚れた布巾でカウンターを拭き始めた。ライムは、その「汚さ」さえも楽しむように、相変わらず穏やかな笑みを浮かべたまま、飴色に光る椅子に腰を下ろした。
店主は穏やかな顔で鍋の火を弱めながら振り返った。
「カイルは、いつもの料理でいいかい? ……そちらのお友達も、同じのでいいのかな?」
白い湯気の向こうから、ライムの方をちらりと見る。
「うん、ここで一番美味しい料理を出してあげてよ。メイン通りにも負けないやつをさ」
カイルは、いつもより少しだけ明るい声で言った。誰かを連れてきたことが、どこか誇らしいようでもある。
「あいよ。うちの自慢を出してやるさ……おっと、いけねえ」
店主は思い出したように棚から水差しを取り出した。
「ほらカイル、隣町の水だ。……まったく、お前は昔からここの水を飲まねえからな」
透明な水がコップに注がれ、かすかな音を立てる。
「まあ、体に合う合わないってのはあるもんだ。……あんたも、ここの水よりこっちの方がいいかい?」
ライムにもコップを差し出す。
「ああ、いいよ。ありがとう。……でも、僕は違いわからないし」
ライムは軽く笑って水を口に含む。冷たい水が喉を滑り落ちる。
「へえ……普通に飲めるんだ。じゃあ、水が問題なのは僕だけか……残念だけど」
カイルは小さく呟き、少し俯いた。
「ああ、変なこと言っちまったな。すぐ作るから待ってな」
店主は気まずさを払うように厨房へ戻り、すぐに油の弾ける音と、焼ける肉の香ばしい匂いが店内に広がり始めた。
カイルは額を押さえ、時折こめかみを揉みながら、黙って席に座っている。息もわずかに浅い。
ライムは窓の外に目を向けた。遠く、中央通りの方から歓声が風に乗って流れてくる。
「……あっちは賑やかだな」
そう声をかけると、カイルは顔をしかめながら立ち上がった。
「ごめん……ちょっと具合悪くて……外の空気、吸ってくるね。料理、来たら先に食べてて……」
椅子を押す音を残し、ふらつく足取りで外へ出ていく。
入れ替わるように店主が湯気立つ皿を運んできた。
「ああ、いつものことだよ。あの子は体が弱くてな。ちょっとしたことで頭痛を起こす」
皿を置きながら、ぽつりと続ける。
「……まあ、すぐ戻ってくるさ。冷める前に食べといてくれ」
テーブルに置かれたのは、香辛料の匂いが立ち上る濃い色のスープと、表面をこんがり焼いた巨大な肉の塊だった。肉汁が皿にじわりと滲んでいる。
「ああ、さすが獣人街だな。かぶりつくんだな!」
ライムは楽しそうに肉を両手で持ち上げ、そのまま豪快に齧りついた。香ばしい皮と柔らかな肉が裂け、熱い肉汁が口いっぱいに広がる。
その様子を見て、店主が戻ってきて笑う。
「おお、随分ワイルドに食べるな」
そして何気ない手つきで、フォークとナイフをテーブルにそっと置いた。
「あ……ちゃんと道具あったんだ……」
ライムは口いっぱいに肉を頬張ったまま、少しだけ気まずそうに笑った。
店を出て、よろめきながら路地を抜けたカイルの視界に、眩しすぎるほどの「光」が飛び込んできた。
中央通りの喧騒。その中心には、黄金のたてがみを揺らす獅子の姿――ベイルマンがいた。
彼は幼い子供を軽々と肩車し、集まった住人たちに白い歯を見せて、眩いばかりの愛想を振りまいている。
その完璧な『ヒーロー』の姿を目にした瞬間、カイルの視界が歪んだ。
肌を粟立たせるような、どろりとした悪寒。それは心臓を冷たい手で掴まれるような生理的な拒絶反応だった。
「……っ、あ……」
カイルは喉の奥で短い悲鳴を漏らし、逃げ場のない吐き気に抗えず、その場に崩れ落ちた。
一方、店内の薄暗がりでは、ライムが熱い肉の塊を咀嚼しながら、店主へ言葉を投げかけていた。
「……カイルとは長いの? 随分と、あの子のことを気にかけているみたいだけど」
「ああ、長い付き合いさ……」
店主は鍋の火を落とし、湿った布巾で手を拭いながら遠くを見る目をた。
「ある日、あの子がふらりと店に入ってきてね。真っ青な顔で、『ここのじゃない水はありますか』って、今にも死にそうな声で聞くんだ。……ちょうど隣町から仕入れてきた水があったから飲ませてやったら、まるで砂漠で遭難した奴みたいに、ごくごく飲み干してさ。……かわいそうに、ここの――『獣人の水』が、あの子の身体には合わなかったんだな、と思ったよ」
「へぇ。確かに、種族によって水の合う合わないはあるかもしれないけど」
ライムはどこか他人事のように擁護したが、店主は首を横に振った。
「いや、あんたは知らないのかい? あの子は獣人だよ。……ただ、半分は『人間』の血が混ざったハーフだがな」
その言葉を聞いても、ライムは驚かなかった。
「あはは。やっぱり、ハーフなんだ」
想定していた答えが返ってきた、と言わんばかりの、柔らかな、けれど温度のない笑み。
ライムはコップに残った水を飲み干した。喉を滑り落ちる透明な液体。彼はその「違い」を理解しながらも、何も知らないふりをして、再び飴色の椅子に深く腰を下ろした。




