噂と真実
アイアンベイルの朝は、ひどく静かだった。 窓から差し込む光は明るいのに、どこか病院の廊下を思わせるような、清潔すぎて落ち着かない白さがある。
ライムは、宿に備え付けられた「味の薄い」パンを咀嚼していた。栄養バランスは完璧なのだろうが、どこか砂を噛んでいるような食感だ。
「これからどうするつもり? あの黒い獣でも探す? それとも、街の『ヒーロー』でも見に行く?」
向かいの席で、魔女が楽しげに首をかしげる。 ライムはうーん、と少しだけ眉を下げて悩む仕草を見せた。 「……別に、どうでもいいよ。正直、獣人になる者がいようがいまいが、僕たちが首を突っ込む理由もないし。せっかく屋根のあるところで休めるんだから、しばらくはのんびりしたいかな」
困ったように笑うライムに、魔女はわざとらしく肩をすくめる。 「本当につまらない男ね。せっかくの力が泣いてるわよ。……じゃあ、私から指示を出してあげる。あの青年と一緒に街を歩いて、情報を集めてきてよ。例えば、冒険者ギルドがどれだけ必死にあなたを捜しているのかとか、住民が『百億』の正体に気づいているのか……とかね」
「やだよ……」 ライムは呆れたように息を吐いた。 「どこの世界に、自分を追ってる連中に『見に来たよー』なんて挨拶しに行くやつがいるんだ。……そんなに気になるなら、魔女さんが一人で行ってきてよ」
そんなやり取りをしていると、ギイ、と階段が弱々しく鳴り、青年が降りてきた。
「……あ、おはよう、ございます……」
蚊の鳴くような、消え入りそうな声。 昨夜の暗闇ではよく見えなかったが、青年の姿はどこか儚く、今にも壊れてしまいそうな繊細さに満ちていた。背は高いが、体つきは驚くほど細い。 伏せられた大きな瞳を隠すように、ボサボサのアッシュグレーの長髪が垂れ下がっている。その肌は、一度も陽の光を浴びていないかのように病的に白かった。
「ああ、おはよう。よく休めた? 昨日は……災難だったね。黒い獣に襲われでもしたの?」
ライムができるだけ柔らかいトーンで尋ねると、青年はビクッと肩を跳ねさせ、落ち着かない様子で自分の指先をいじり始めた。 「ごめんなさい……心配、かけて。でも、その、黒い獣に襲われたっていうか……。あの、獅子に、攻撃されて……」
「あら?」 魔女が少しだけ目を見開く。 「あなた、そんな大人しそうな顔をして何をしたの? 獅子と言えば、この街の象徴、誰もが憧れるヒーローじゃない。ポスターだってあんなに格好良く飾ってあるのに」
「……何も、知らないから……」
青年の声が、わずかに震えた。 彼は逃げるように視線を床へ落とし、喉の奥に詰まった言葉を絞り出す。
「……あの獅子は、ヒーローなんかじゃない。……少なくとも、僕たちにとっては……。この街の獣人たち、みんなにとっても……」
握りしめられた彼の細い拳が、白くなるほど震えていた。
魔女は、逃げ道を探す獲物を追い詰めるように、青年へ身を乗り出した。
「へぇ……『ヒーロー』の呼び声高いあのお方が、実は偽物だって言うの? あなたが個人的に襲われたから、根に持っているだけじゃなくて?」
艶然とした笑みを向けられ、青年は居心地悪そうに身を縮めた。細い指先が、テーブルの隅を何度もなぞる。
「あ……あの、そういうわけじゃ、なくて。……この街には、中心部と言われている巨大な医療施設があるんです」
青年は、震える指で窓の外を指差した。 抜けるような青空の下、滑らかな曲線を描く純白の建築物が、街を見下ろす墓標のようにそびえ立っている。
「ほら、あの白い建物です」 「ああ、あれか……。妙に鼻につく白さだね」
ライムは、カップの中の無味乾燥な液体を眺めながら、興味なさそうに相槌を打った。
「ええ、そうです。……でも、あそこは変なんです。ベイルマンはあそこに所属していて、街で少しでも『乱れ』を見せる者がいたら、容赦なく叩きのめす。……そのまま、二度と動かなくなるまで。……噂では、医療施設に連れ帰った後、治療なんてせずに実験体にしているって話もあって……」
「でも、実際に治療は行われているんでしょ?」 魔女が、楽しそうに首を傾げて問いを重ねる。
「ええ……そのはず、です。具合が悪かった人が、すっかり元気になって戻ってきた例もありますし。……でも、戻らない人がいるのも、事実なんです」
「誰だっていつかは死ぬ。みんな助かるなんて、そんな都合いい話あるわけないだろ」
ライムが、どこか遠い目をして茶化すように言う。それは彼なりの、残酷な現実に対する慣れのようなものだった。だが、青年の顔が、屈辱に耐えるように真っ赤に染まる。
青年の唇が震える。
次の瞬間――
「……何も、おかしくないですよ!」
椅子が大きな音を立てて後ろに下がった。 青年は立ち上がり、喉を震わせて叫ぶ。その瞳には、恐怖を上書きするような切実な怒りが宿っていた。
「昨日まで、隣で普通に笑っていた人が、入院したまま一度も帰ってこない。……それが普通だなんて、絶対に、おかしいですよ……!!」
静まり返った宿屋の食堂に、青年の荒い呼吸と、どこかで一定のリズムを刻む水道の雫の音だけが響いた。
重い空気を振り払うように、ライムは立ち上がった。
「……まあ、噂だけで判断するのもよくないか。実際に街を見てみようかな」
魔女は口元に笑みを浮かべたまま、ひらひらと手を振る。
「行ってらっしゃい。私はここで待ってるわ。朝から長距離を歩く気分じゃないの」
そこで青年が、おずおずと顔を上げた。
「あ……よかったら、僕も一緒に行きましょうか……?」
「街のこと、少しは案内できますし……」
ライムは嬉しそうに笑った。
「そっか、ありがとう。正直、一人で探索か〜って落ち込んでたんだ。改めて、僕はライム。よろしく」
「僕は……カイルです。……よろしくお願いします」
頭を下げる青年。
魔女はぶっきらぼうに笑った。
「私は魔女でいいわ。名前なんて覚えるの面倒でしょ?」
「えっと……魔女さん……ですね。よろしくお願いします」
軽く会釈。
「それじゃあ……ライムさん、行きましょうか。獣人街、案内します」
カイルはドアを開けて外に出た。
二人は顔を見合い、驚いたように声を揃える。
「獣人街?」




