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カミーユの申し出は、凍え切ったサラの心に灯った小さな種火のようだった。
彼はそのまま御者の制止を振り切り、サラを抱え上げるようにして馬車へと運び入れた。
「汚れてしまいます」
というサラの掠れた声は、カミーユの分厚く温かい胸に吸い込まれた。
「女性一人くらい運べなかったら、侯爵家の名折れだよ」
と、カミーユはにこりと微笑んだ。
決して美青年というわけではない、どちらかというとふくよかで豊かに育った貴族らしい貴族といった風貌なのに、サラにはカミーユの背後にきらきらと星が見えるようだった。
なんて頼もしい人だろう。
*
ベルモン侯爵家の屋敷は、ヴァレリアン公爵家のような威圧感も、ラルエット家のような成金趣味な華美さもなかった。
ただ、主人の心を映したように静かで、どこか寂寥感が漂っていた。
数日間、サラは熱に浮かされた。
背中の傷を丁寧に手当てし、薬を塗ってくれたのは、同部屋のアデルという少女だった。
「うわあ、ひどい」
アデルは顔をしかめて言った。
「半袖のブラウスを着ても隠れる場所ばっかりじゃん。陰険なやつだなあ、この鞭打った女主人って」
熱が引いたサラは、こうしてカミーユとアデルへの感謝の念を抱きながら、無事にベルマン侯爵家のメイドとして雇われたのだった。
穏やかな主人。
古いながらもよく手入れをされた立派な屋敷。
同部屋の気心の知れた同僚。
親切な使用人たち。
環境は完璧に思えた。
しかし、問題が生じていた。
サラが目にしたのは、主人のカミーユのあまりに不摂生で、無頓着な生活だった。
朝から晩まで書類に埋もれ、食事は不規則。
疲れからか、甘い菓子とバターたっぷりの重い料理ばかりを好んで口にし、その体はパンパンに膨らんでいる。
しかも、誰もそれを注意しない。
使用人たちは皆親切にしてくれたが、カミーユに面と向かって不摂生をとがめるようなことはしなかった。
「最近、疲れがとれないんだよねえ」
と言いながら、白砂糖の塊のような揚げ菓子を頬張るカミーユを見て、サラは決意した。
おせっかいが過ぎるとまた追い出されてもいい。
この優しい恩人を、このまま朽ち果てさせるわけにはいかない。
「カミーユ様、今日からお食事は私が管理いたします」
サラのおせっかいが始まった。
まずはバターを一切断ち、代わりに領地で細々と作られていたオリーブから絞った油を使わせた。
「あれ?今日の味付けは少し違うんだね。コックが変わったのかな」
「いいえ。カミーユ様、コックが変わったわけではありません。油が変わったのですわ。動物から取れるバターはしばらくの間禁止です」
「え、バターがないなら一体何を食べればいいんだい。バターケーキは? バターのソテーは? ムニエルは?」
サラはまっすぐな目でカミーユを見た。
ここで譲ってはいけない。
「ま、まあいいじゃないですか、サラ」
年嵩なメイド長のドロテアがとがめた。
「カミーユ様は食事を何よりもの楽しみにされているのですよ。前の奥様が出て行かれたときも、領民が他の領地ともめて暴動を起こしそうになったときも、こうして乗り切ってこられたのです」
「これからは違うようにするべきですわ」
サラははっきり言った。
ドロテアがもごもごしているのを全く無視して、サラはさっとカミーユの隣まで歩いていった。
「バターがなければオリヴィエのオイルを食べればいいのですわ」
「オリヴィエ? なんか木から取れるサラサラした液体みたいなやつかい。あんなの?」
「ええ。今召し上がっているそのムニエルにも使われています」
「えっ、これ?」
「いかがですか?」
「美味しい……バターとは違うけど、かなり行けるね」
「そうなのです。いいですか? 差し出がましいことを申し上げるようですがカミーユ様はもう少しお痩せになった方がよろしいです」
周りの使用人たちが息を呑んだ。カミーユは仮にも侯爵である。貴族相手に身分不足そうな申し出をするだなんて――。
何という頭のおかしい女だろうという目で、その場の全員がサラのことを見ていた
しかし、サラは全く気にしなかった。
ここまで来たら失うものなどない。
唯一失って怖いのは、カミーユの健康だけだ。




