とあるラジオリスナーの日常
「……が、9時をお知らせします」
「みなさん、こんばんはー。いかがお過ごしでしょうか?私は今朝、梅雨空で憂鬱だなぁと思ってでかけましたが、仕事先の途中に、小さい神社があって、その境内に綺麗な紫陽花が咲いているのを見かけました。その瞬間、すごくハッピーな気持ちになりました。今夜も最後までよろしくおねがいしまーす」
夜ご飯を食べながら、いつものラジオ番組が始まった。ラジオから聴こえてくる明るいの声。
「では、引き続きこちらのラジオ局をお聞き下さい。今日も最後までお付き合いくださりありがとうございました。明日もよい一日で。おやすみなさい」
先程のラジオ番組が終わり、合間にラジオ局のジングルが流れる。そして次のラジオ番組がはじまる。俺はSNSで番組ハッシュタグを検索し、一言つぶやいた。食べ終えた食器をキッチンで片付けをし、お風呂の準備をする。洗濯乾燥機の中から、乾いたタオルや下着を取り出し、今日着たものをドラムの中に入れる。
「ふーっ」
湯船につかりながら、防水バックにいれたスマホでラジオをつけながら、会社からのメールのチェックをする。仕事の時間とプライベートの時間を分けたいのだが、仕事のメールもスマホで見られるようにしているので、すぐに対処できるものについては、できるだけ終わらせたいと思ってしまうのだ。
「今日は、特に急ぎの案件はなしっと」
お風呂から上がり、水分をとって、少し部屋の掃除をして就寝する。明日はたしかゴミの日だ。朝はバタバタしたくないので、夜のうちにできることをしてから布団に入ることにしている。
先週末、実家の母の具合があまり良くないと姉から連絡があり、実家とはあまり穏やかな関係ではなかった俺はここ数日、憂鬱な気持ちのまま眠りにつく。
スマホの目覚ましの音が遠くから近づいてくる。
「んー、もう朝か……」
寝ぼけ眼でスマホをタップし、のろのろ起き上がる。テーブルの上にあるノートパソコンを開き、立ち上げた。打ち間違えないようパスワードを入力し、ブックマークしているradikoをクリック。その日の気分で好きなラジオ局を選んで再生ボタンをクリックする。
「おはようございます。6月10日、金曜日。現在の時刻は6時5分、今朝の天気は曇りです。今朝入ってきているニュースをニュースキャスターの関さん、お願いします」
ラジオパーソナリティーの人から、アナウンサーの丁寧な声に変わり、ニュースが読まれる。テレビを見ていると画面も見てしまうため、朝の支度が止まってしまうので、ラジオはとても便利だ。
「それでは交通情報、交通管制センターの藤さん、お願いします」
「お伝えします。東京外環道外回りは……事故の影響で4キロの渋滞。その他の渋滞の情報は入ってきていません……」
通勤や仕事で運転するドライバーにとって、渋滞情報、事故、工事の情報などはとても助かる情報だ。天井に手を伸ばす仕草をしてのびをした。足をキッチンへ運び、コーヒーを入れるためのお湯を沸かす。顔を洗って歯を磨いて、お湯が沸騰したら、ドリップコーヒーをセットしたマグカップに少しずつ注ぐ。コーヒーの香りで頭がゆっくりと目覚めていく。
ご飯は、食パンを焼いてバターを塗って食べるか、冷凍保存している白米をレンジで解凍して、佃煮やお茶漬けで食べるか、その日の気分次第だ。
「さて、メールを一通。ラジオネーム甘酒さん。おはようございます。先日、出張でキャリーケースと傘とカバン背負い電車に乗り、カバンを座席の上の網に置いたまま、キャリーケースと傘のみ持って最寄り駅を降りてしまい、気付いた時には電車は発車していました。携帯も財布もカバンの中。一瞬にして青ざめて、すぐに駅員さんに伝えましたが、どの車両に乗っていたかもうろ覚え、大きな駅でしか停車して車両確認できないということで、警察にも連絡したり、最悪の事態しか考えられませんでしたが、結局、終点駅まで誰にも触られずに棚の上にあったそうです。無事見つかって本当に良かったです」
隣の部屋で着替えながら、俺の投稿したメールだと気付いた。だいぶ前に投稿したメールだが、採用されたんだな。あの時はパニックだったな。
「あー、これは本当に青ざめる出来事でしたね。見つかってよかったですねー。ホッとしたでしょう。ご時世的に、他人のカバンを触ったりしなかったのかもしれませんね。みなさんも忘れ物にはお気をつけください。さて、ここで気分を変えて1曲、先週リリースした夏にぴったりの曲です。リクエストはラジオネームしまねこさんから」
流行りのグループの明るい音楽が流れ始めた。リクエスト曲がかかるとそろそろ家をでる時間だ。パソコンを閉じて、仕事用のカバンと家の鍵を持って玄関で靴を履く。出勤時間までラジオをかけっぱなしにしている。時間があれば、番組にお便りを電子メールで送るときもある。平日はほぼ聞き専だ。家を出る時にはパソコンの電源をきり仕事に出かける。
学生の頃は、学校から帰ってきてから、自分の部屋でラジオを聞きながら勉強する生活をしていたが、社会人になって、家を出て一人暮らしをはじめてからは、自分の好きなペースでラジオを聞いていた。それも今月まで。来月からは7年付き合った前の職場の先輩と二人暮らしになる予定だ。
「おはよう。これから仕事に行ってきますっと」
スマホで先輩に短文メールを送信して、俺は玄関の鍵を締めた。
ラジオリスナーからのお便りは、一昔前は葉書投稿だったりFAXをラジオ局へ送ったりしていたが、現在は電子メールや、SNSで番組のハッシュタグをつけてつぶやいているものを、番組スタッフやパーソナリティーが拾い、採用され読まれたりしている。採用されてパーソナリティーに読まれると、番組オリジナルステッカーというシールがもらえたり、番組オリジナルグッズがもらえる番組もある。
俺がラジオリスナーになったきっかけは、ある女の子との出会いだった。当時中学生になったばかりの掃除の時間、同じクラスになったさとうさんという女の子が、廊下で雑巾を掛けながら俺に話しかけてきた。
「ねぇ、ラジオって聞いたりする?結構面白いんだよー」
これがきっかけで、俺のラジオ人生がはじまった。
さとうさんは小学校からとても優秀な生徒で有名だった。男子も女子も別け隔てなく話せる雰囲気をもっていた。だから、存在感のない俺に気さくに話しかけてくれたのも、たまたま同じクラスになり、たまたま同じ班になっただけのただの偶然でしかなかった。
生まれてから13年、ニュースやエンタメといえば、テレビと新聞と漫画だけだった自分にとっては、ラジオの存在はかなり衝撃的だった。俺の通っていた中学校は、朝から掃除をする時間があり、給食を食べてから再び掃除の時間がある。廊下や教室は綺麗な学校だと思う。そこまで汚くない廊下を雑巾で掃除しながら、小声でラジオ番組について話しかけてくるさとうさん。返事もろくにできない俺のことなどお構いなしに、マシンガントークをしてきていた。
「昨日のラジオ面白かったよー、ゲストが豪華でさ。お酒飲みながら、酔っ払ってトークしてて……」
俺が返せる言葉は一言。
「へー、そうなんだ」
別の日の掃除の時間。
「聞いて!深夜ラジオを聞きすぎて寝不足で、やばいかなって思ってさ、逆に早朝のラジオ聞き始めたの。そしたら、体にもいいかなって。あ、でもこの前のラジオドラマがさ、いいところで終わって、続きが気になるんだよねー」
「そうなんだ。ラジオドラマって……?」
このときの俺は、さとうさんをうざったいと思ったことはなく、こんなにいろいろ話しかけてくれるのに、対等に話せている感じが全くせず、面白い事一つ返せない自分が恥ずかしいやら悔しい気持ちが強かった。さとうさんと対等に話すには、もっと知識や教養が必要だと実感していた。しかし、それを埋める術が俺にはなかった。さとうさんと俺は住む世界が違いすぎる。そう感じながら話を聞いていた。
俺が子供の頃は、インターネットの普及もしていなかった。俺の住んでいる地域は鉄塔も電線も少なく、田畑が広がる田舎だった。近所も農家の家が多く、毎日、近所の子どもたちと日が暮れるまで野山をかけまわっていた。
家にあったラジカセは、カセットテープを聞くだけの機械だった。ラジオのスイッチがあるのは知っていたものの、一度もオンにして、ラジオを聞いたことはなかった。唯一聞いていたというならば、夏休みのラジオ体操くらいだ。
そんな野生の猿のように遊んでいた俺が、優等生なさとうさんと出会ってしまったのだ。一体どうすればさとうさんと、もっと楽しく会話ができるのだろうか。
ふと、「ラジオって面白いよね」というさとうさんの言葉が頭をよぎり、ラジオのスイッチをオンにして聞いてみることにした。ザーザーと砂の音しか聞こえない。どうすればラジオが聴けるのか知らなかったのだ。
「何も聞こえない」
仕事から帰ってきた父親に聞いて、電源の横にあるつまみで声が聞こえるところに合わせるということを教えてもらった。父親は若い頃、手術や入院をしたいた時期があり、ラジオを聴いていたことを晩酌をしながら自慢げに話していた。
「ほら、入院中はテレビを見るのもお金がかかるだろ。その分ラジオはバレなければずっと聞いていられたから、片耳のイヤホンをしてベッドの中でずっと聞いていたもんだ」
酔っ払って得意気に話す父親にそこまで興味がなく、自分の部屋にこもった。ラジカセのボツボツ穴が空いているスピーカーに耳を押し当てると、何やら話し声や音楽が聞こえてきた。しかしすぐに砂の音になる。ラジカセのアンテナを伸ばしたりすると、話し声が長く聞こえるようになった。
アンテナを持ちながら、部屋中をうろうろして、音がクリアに聴こえる場所を探す日々がはじまった。
ラジオの向こう側の人は俺を知らない。けれど、励ましてくれたり、リスナーの悩み相談に答えてくれたり。それが俺の中でとても心地よく耳に残り、葉書を通じて俺という人間がいることを知ってほしいと思うようになった。そして、葉書が読まれたときは、飛び跳ねるほど嬉しくて、次の日さとうさんに報告したり、昨日のラジオは面白かったなどと話ができるようになっていった。掃除の時間だけでなく、休み時間だったり廊下で少しすれ違ったりした時、ほんの少しでも話せる時間が楽しかった。今ならわかる。俺はさとうさんとラジオに恋をしていた。
さとうさんに教えてもらったラジオ番組の一つで、音楽番組を聴き始めた。テレビでも見るミュージシャンたちがラジオDJの女性と新曲やプライベートについて話していた。机の上のラジカセの前で、音楽や話し声を聴いているだけなのにとても楽しかった。ラジオを流しながら勉強をする。音楽や家族以外の人の笑い声や歌声が聴こえる。テレビの中の人とはまた違う、姿なき声。
リクエスト曲が流れたり、お悩み相談に答えたり、ラジオ番組に寄って様々だった。文章力がない俺だけど、読まれているリスナーの葉書を見習って、ノートや机に書いていた。葉書サイズに紙を切り取り、下書きを何度もしていた。
郵便番号とラジオ局名。ラジオ番組と係、御中を書いて、自分の住所とラジオネームを書く。葉書をひっくり返して、読んでもらうネタを書いた。
悩み相談はしたことがないが、ふつうの何気ない日常のお便りを葉書で送ったりしていた。ときには作り話も送っていた。毎日がそんなに楽しいものでもないし、田舎で面白いことが起きるはずもない。俺が学生時代だった当時の官製はがきは50円。コンビニもない時代だったので、駅前の郵便局で葉書1枚を買っては文章をぎっちり書いてポストに投函していた。
今思えばなんて読みにくい葉書だっただろう。採用されないのも当たり前だ。文章を簡潔に書けなかったし、ネタを探しては面白おかしく書いて投稿したり。13歳の未熟さだったこともあり、ほとんど読まれることはなかった。でも、何通かは読んでもらって、ステッカーが届くと宝箱にしまっておいて、一人でにやにやすることもあった。それからは番組におくるネタを考えたり、葉書を書いている時間がとても楽しかった。
中学生の思春期時代をラジオとともに過ごせて本当にラッキーだったと思う。両親の不仲からくる家の居心地の悪さは地獄だったこともあり、ラジオという存在を教えてくれたさとうさんは、俺の命の恩人だった。大げさかもしれないが本当だからしかたない。だが、当時の俺は、意気地なしだった。面と向かってさとうさんに告白することもなければ、ありがとうも言えずに卒業してしまったのだ。連絡先を交換することもできないまま、俺の片思いと青春はあっという間に幕を閉じた。
さとうさんと会うことはなくなっても、俺のラジオリスナー生活は続いた。街中でとあるラジオ番組の象徴の物をキーホルダーとしてカバンにぶらさげていた時、知らない女子高生に声をかけられたこともあったし、通っていた高校のお気に入りの教師がいる準備室に、数人の友人と放課後遊びに行って、ラジカセを借りてオーディオドラマを聴かせてもらったこともあった。若いのにラジオが好きなんてめずらしいと教師や友人から冷ややかな目で言われたが、俺は全く気にならなかった。
そして、ラジオリスナー歴は25年、四半世紀となった。
現在、俺は人生に追われていた。職場で知り合った先輩に告白して、付き合って数年。先輩の妊娠がわかり、急いで両親の顔合わせや婚姻届を出し、来月から引っ越す予定だった。仕事とプライベードも充実していたが、睡眠時間が少なく、終電でついた最寄り駅前のコンビニに疲れ果てた顔で立ち寄っていた。努めていた派遣先の会社が急に民事再生手続きをすることになり、次の日から新しい職場に変わった。県をまたぐほど遠く、車の運転はせず、電車通勤となったのだ。そして毎日始発と終電に揺られる生活を繰り返していた。
「ありがとうございましたー」
コンビニの店員も深夜ともなればテンションが高いはずもなく。コンビニを出たすぐ目の前がタクシー乗り場だった。いつくるかもわからないタクシーを俺は一人待つことにした。今から帰ろうとしている実家は歩いて帰るには遠すぎた。
「あれ?たっくん?たっくんじゃない?」
背中から聞こえてきた声が耳に届いた瞬間、俺は思考回路が停止した。この声を俺は知っている。ゆっくり振り向いたその先にいたさとうさんの懐かしい顔とともに、別の意味で驚きを隠せなかった。なぜなら、彼女は、深夜のコンビニの外ベンチに座り、タバコを吸っていたからだ。
「久しぶりー。元気?こんな遅い時間まで仕事?」
変わっていない……明るくハキハキしたさとうさんの声。俺を何度も助けてくれたあのころのままの笑顔と声だった。俺は泣きそうになった。
「さとうさん……ひさしぶりだね。うん、仕事」
疲れ果てた顔を見られた恥ずかしさよりも、彼女は変わらぬ笑顔と声への驚きが上回った。一体どうしてここにいるのか驚きしかなかったのだ。
「さとうさんこそ、どうしてこんな時間に……。それに、たばこまで……」
俺の素直な感想をさとうさんはどう思ったのだろうか。
「あー、まー、色々あってさ。ちょっと疲れちゃったんだよね」
さとうさんは、変わらぬあっけらかんとした声で話していたが、顔に影ができたことを俺は見逃さなかった。ずっと会いたかった俺の恩人。このままにして帰るわけにはいかないと頭の中で警鐘を鳴らしている。俺はさとうさんが座るボロボロのベンチに腰掛けた。駅前だが各駅停車の駅ということもあり、個人経営の店やスーパーもすでに閉まっている。歩いている人もなく、少し先に国道が走っているため、車は数台通ったりするが、背にしているコンビニの明かりだけが無駄に眩しい駅前だ。俺たちの話し声が響く。
「たっくんは今も実家?」
「いや、隣の駅のアパートに住んでる。でも、今月は実家にいる予定なんだ。母の具合があまりよくなくて。でもちょっと仕事も忙しくて今日もこんな時間に……」
久しぶりに会えたというのに、いい報告よりも疲れから弱音をはいてしまった。
「そうなんだ。親の病気って結構精神的にくるよね」
さとうさんはフォローしてくれると同時に、俺の左手の指輪をみて、察知してくれたようだった。
「あ、もしかして彼女いるんだ、それとももう結婚してる?奥さんはどんな人?」
「会社で知り合った先輩なんだ。今、妊娠7ヶ月」
「うそ!もう大きいじゃん。おめでとう!あ、たばこ!だめじゃんね。ごめんね!」
さとうさんは、ベンチの横においてある古びたたばこの吸い殻入れに短くなっていたタバコを捨てたが、俺は気にしなくてもいいよと言った。
「別に大丈夫だよ。会社でもまわりはたばこ吸っている人多いし。俺は吸わないけど。彼女ともまだ一緒に住んでいないから。そういう、さとうさんは?」
失礼なことを聞いてしまったのかもしれない。でも、さとうさんはあの頃と変わらぬ雰囲気で話してくれた。
「私?私は……まだだけど、結婚しようって思っている人はいるんだ」
下を向きながら少し照れくさそうに、でも迷っているような、そんな感じで話し始めた。
「なんとなく一緒にいるっていうか」
「そうなんだ」
あの頃よりも大人になって、それなりに話だって上手になったというのに、目の前にいるさとうさんを見たら、一瞬であの頃の自分に戻ってしまったみたいだ。
「私の話はいいんだ。それより、たっくんの話がききたい」
「そんな、別に、俺はあいかわらずだよ」
「そう?でも幸せそうな顔してる」
「幸せ…か。うん、先輩と出会ってから俺は幸せだよ。最初はちょっととっつきにくかったけど、一緒にいて楽しいし、自分でもびっくりしてる」
一呼吸置いて俺は、なけなしの勇気をだした。
「でも、中学時代、さとうさんとラジオの話をしているとき、すごく楽しかったんだよ。感謝してもしきれないくらい」
「ラジオかー、懐かしいね。そんなときもあったねー。あの頃、お互いすごくラジオ聴いてたよね」
懐かしい、か。さとうさんは、今はラジオは聞いいないのかな。俺は今でも聴いているよって、なんとなく言いづらくて、少し胸がきゅっとなった。
「さとうさんは彼氏とは結婚とか考えてるの?」
「うーん、どうだろう。一緒にいて楽といえば楽なんだけど」
「けど?」
「なんだろう、うまく説明できないや。このままずるずる一緒にいる感じかもしれないし。先のことはわかんないな」
「そっか」
さとうさんは話を変えたかったのか、仕事の話になった。
「たっくんは大学とか行ったの?高卒で就職?」
「俺は高卒で就職したよ。専門的な学校ってこともあって、けっこういろんな検定とか受けてたし、車の免許もなんとかとったし。でも高校から結構バイトしていたんだ。家もそんなにお金なかったしね。最初に就職した会社は、製造業の現場作業で給料も良かったんだけど、まぁいろいろあって退職したんだ。んで、IT関係の会社に就職して、派遣みたいな形で出向していた会社が倒産。別の会社へ出向してるんだ。給料もまぁまぁよくて。ただ、通勤時間が2時間もかかってるのがつらいかな」
静かに聴いてくれるさとうさん、あの頃と変わっていないようなやっぱり少し違うような。
「なんか、いいね。高校でバイトして社会勉強とかになったんじゃない?」
「そうかもしれない。さとうさんは?頭も良かったし、進学高だったから、大学に行ったんじゃないの?今は?」
「私の進学した高校、バイト禁止だったから、勉強してたな。それで大学も行ったけど、普通に勉強して、普通に卒業した。それだけ。それが就職や仕事に役立つかは別かな。専門的な何かを身につけていなかったからさ。就職活動とか難しかったな。今はね、バイトとかしてるよ」
「そうなのか…」
俺が今、出向している会社は、外資系の企業の本社ということもあり、外国人や派遣の人間も少なからずいて、休憩中の世間話で、どこの大学出たの?は一般的な会話の一つだったりする。俺が高卒だと言うと結構驚かれたりする。どういう意味かは考えないようにしている。
「うーん、人によるんだろうけどね。私の場合、難しかったな」
最近の話から、昔の懐かしい話まで、気づけば深夜の2時近くなっていた。タクシーは来る気配がまったくなかった。
「そろそろ、帰ろっか。ごめんね。こんな遅くまで話しちゃって。たっくんは実家まで近いの?」
「俺の実家、さとうさんの家から、もうちょっと先。歩くけど、大丈夫。道路整備されて広がったし。まぁ、俺の家の近くはまだ田んぼ道ばっかりだけど。さとうさんの家の方向から帰るよ」
俺とさとうさんは、ベンチから立ち上がり、歩き始めた。あの頃より背も年も大きくなった俺。大人になって、俺はさとうさんと対等に話せただろうか。
「私こっち、じゃあね。ありがとうね。家まで気をつけるんだよ」
「おう。そっちも」
さとうさんは笑顔で手を振って家の方向へ歩いていった。俺はさとうさんが見えなくなるまで手を降っていた。途中、さとうさんが振り返った。
「たっくん。今日、会えて良かったよ!ありがとうね!なんだか元気出た。そうだ、ラジオ!たまにだけど聴いているよ!」
俺はさとうさんがラジオを聴いていると知り嬉しかった。真夜中の住宅街なのに、大きな声で返事をした。
「俺も!ありがとう!」
俺は何十年越しに、ついにさとうさんにお礼を言うことができた。そして、たまにでもラジオを聞いていることを知り、素直に嬉しかった。あの頃のさとうさんがどこにもいなくなったわけではなかった。中学を卒業してから、さとうさんに何があったのかはわからない。ただ、俺はさとうさんの幸せを願った。
そして、なぜだか無性に先輩の声が聞きたくなった。中学時代の俺はさとうさんが癒やしの存在がだったが、今は結婚してくれた先輩が俺の癒やしなのだ。スマホをとりだしたが、すでに2時半をすぎていた。先輩にはまた明日メールしよう。そして明日の仕事帰りに先輩の家に寄ろう。俺は不思議と心が軽くなるのを感じた。さとうさんにお礼を言えてよかった。また前を向いて生きていこう。明日も頑張ろう。正確に言うと、俺はあと2時間後には再び会社へ行くのだ。
「みなさん、おはようございます。現在時刻は6時8分、ラジオ局のスタジオから見える天気は、雲ひとつない青空です!今朝入ってきているニュースを……」
令和となった今は、番組ホームページや、電子メールでお便りを送る時代になった。あらかじめお題が出されていれば、それについて送ったり、何気ない日常だったり、お祝いのメッセージとリクエスト曲を送ったり、パーソナリティーへの質問だったり。メールが採用されることは少ないが、それでもラジオは俺の一部となっている。
「たくー、おはよう」
「おはよう」
引っ越しをしてまだ数日。身の回りの物は、ダンボールから取り出したが、まだ引っ越しのダンボールが部屋の隅に積まれている。仕事から帰ってきたら少しずつ片付けるから、絶対無理はしないことと、臨月の先輩に言い聞かせ、数日が経過していた。
「それでは次のおたよりを。ラジオネーム、甘酒さんからいただきました。おはようございます。いつも楽しく拝聴しております。先日、引っ越ししました。ダンボールがまだ積まれたままですが、再来月、出産予定の奥さんと一緒に、今週末は部屋の片付けをする予定です。今、とっても幸せです。おー!おめでとうございます!」
「たく、今のラジオ聞いた?うちと同じだねぇ」
「うん、そうだね。ふふっ」
「何笑っているの?」
「別に」
とぼけてみたが、心の中はほっこりしていた。後でステッカーが届くのを楽しみに、俺はまたラジオ投稿をする。今日起きた出来事、良いことも良くなかったことも、なにもなかったとしても、ラジオネタとなって僕の中で文章化されていく。天気や体調、ご飯や仕事のこと、すれ違う犬の散歩の人、自分のこと。
そうして今日も俺はラジオに耳を傾ける。先輩からコーヒーを入れてもらい、朝ごはんを食べ始めたところで、一枚の葉書が目の前に差し出された。
「そういえば、たく宛に葉書が届いていたわよ。旧姓さとうさんって、中学の同級生?」
俺は、テーブルに置かれた葉書を見て箸を止めた。今度は驚きはなく、ほっとした気持ちだった。
「ありがとう。うん、俺の恩人なんだ。さとうさん、結婚したんだ……良かった」
今日のお昼休みに郵便局に葉書を買いに行こう。さとうさんに結婚祝いの返事を書こう。そして、リクエスト曲と一緒に、お祝いのメッセージをラジオ番組に送ろうと思ったのだった。
「さて、どんな曲をリクエストしようかな」