8話(会社員5)
落ち着いて今後のことを考えながら、火事現場から離れる。
エレベーターに閉じ込められたり、事務所が火事になったりと、事件が立て続けにあったためか、いつにない人の流れが出来上がっている。
その流れから外れると、自然と人気のない場所へとたどり着く。先ほどの事故現場の喧騒とは打って変わっての静けさが、妙な不安感を抱かせた。
あたりは住宅街のようだが昼間だからか事件の為か人の気配はない。
スマホを確認するがまだ同僚からの連絡などは来ていないようだ。火事の状況がどうなっているか確認するべく検索をかけるが、大した情報は出ていない。ニュース動画を確認するも報じられているのは、一週間後に迫った選挙に関する話題ばかりだ。
スマホを仕舞おうとしたとき――突如、殴られたような衝撃が背中を襲う。
いや、殴られたようなではなく殴られたのだ。苦痛に地面へ膝をついたところを再び衝撃が襲う。
「ぐはっ。な、んだ……?」
「おいおいおいおい。いくら気になるからって放火現場に戻ってくるってのは、ありきたりすぎだろ?」
背中から全身へ伝う苦痛に顔をしかめながら見上げると、スーツ姿の男が二人立っていた。
そのうちの一人、小太りの男が周囲を気にしながら言う。
「仁良さん。こんな住宅街じゃ不味いっすよ」
「あん? 俺はやらなきゃいけねえことはどんな時でもさぼらずにやるんだよ。場所やタイミングを言い訳にしてたら、子供たちの見本にならねえだろうが」
答えたもう一人の男は辺りを気にする素振りもない。地面に倒れ伏した状態の私の目の前にしゃがみこんで顔を覗き込んでくる。
年齢は私よりも一回りほど上だろうか、細身ながらも肩幅は広く、私を殴りつけたのであろう金属バットを肩に担いでいる。薄黒い汚れと不自然な凹み痕が、金属バットに異様な威圧感を持たせている。
「子供にぼくらの仕事見せていいんすかねえ?」
まだ周囲に人がいないか気になるのか、気もそぞろに小太りの男が零す。
「……仕事?」
「ああ、そうなんだよ。仕事なんだよ。俺もこんなことはしたくないんだがな、こうしてあくせく働くことが社会人としての義務だからなあ。お前さんもそう思うだろ?」
肺に響く痛みに耐えつつ呈した疑問に、仁良が悪びれもなく応える。
それこそ子供なら恐怖で失神しかねない恫喝を孕んだ視線が、スモークグラスの眼鏡を通して私に向けられる。同僚たちもガラの悪い連中ばかりだったが、この男を前にすれば所詮は街のチンピラどまりだったのだと思い知らされる。
「この近くで火事があっただろう。それがなんでも誰かが火をつけたせいらしくてな。酷いだろ? それでな、とある怖―いおじさんがその犯人を捜せってめちゃくちゃ怒っててな。まったく、俺にまでとばっちりが――んいや、命令がきてな。とんだ迷惑だよなあ」
「それが……、私と、何の関係が……?」
「おいおいおいおい。何の関係が――ってそりゃあお前さん、あの火事現場の会社で働いてるだろ? そういうのは関係者って言うんじゃないのか? そうだよな牛田ぁ」
「はい? 何すか仁良さん。それより誰か来ないうちに終わらせましょう」
小太りの男――牛田がとぼけたように応える。
明らかに危ない雰囲気を漂わせる仁良相手に、よくそんな受け答えができるものだ。よほど豪胆なのか稀に見る天然なのか。
そんな牛田の態度に、仁良に気分を害した様子が無いのも意外だが。
「牛田は相変わらず人の話を聞かないよなあ。お前さんはどう思う?」
「確かに私はあの会社の人間だけど。私だって昼飯から帰ってきたらあんなことになっていて、何が何だかわからないんだ」
「わからないって、お前さんが火ぃつけたんだろ?」
「違う。私は火なんかつけてない」
そんなわけがあるはずない。私だって昼飯から帰ってきたらこんなことになって驚いているのだ。そのうえ、訳も分からず知らない二人組に襲われている。
大体火を放ったのが私なら、こんな場所でぶらぶらしているわけがないじゃないか。
「牛田ぁ。お前が犯人は現場に戻るとか、こいつが怪しいとか言ったんだろ?」
「そうでしたっけ? まあでも、他に怪しい人もいないっすから」
話を振られた牛田がとぼけた風に返す。
これはダメだ。このままでは牛田のせいで私が犯人にされかねない。
あの会社がやっていることを考えれば、恨みを買う人間は多いはずだ。しかしながら、明らかに反社会的な連中を相手に本気で仕返しをしようと思う人間がどれだけいるだろう。
会社のある一帯は他よりも寂れていて、そこかしこに監視の目があるこのご時世のなかでも、おそらく犯人の特定はおろか怪しい人物を確認することすら難しい。
普段から人通りが全くないというわけではないが、火事のあったのは昼時だ。平日のそんな時間に飯屋の一つもない場所を歩いている人もいないだろう。
――いや、すぐに思考の中でかぶりを振るう。今日に限っては多くの人がビルの前にいたはずだ。
まさに私が巻き込まれたエレベータ事故。その騒ぎのせいで、野次馬という少なくない人間の目があのビルを向いていたはずだし、消防も警察さえもその場にいたのだ。
そんな騒ぎの中、誰にも見られずに放火を行うなんてこと本当にできるのだろうか?
いや、そもそもそんな事態になっていたら、仮に放火をしようと考えていた犯人だって普通なら日を改めるはずだ。
しかしながら実際には放火が起きて、その容疑者として見知らぬ男たちに掴まっている。
この男たちは私の他には怪しい人はいなかったと言っている。彼らのその言葉がどれほど信憑性のあるものかはわからないが、少なくとも火事の騒ぎの後に現れた私を疑うぐらいだから、犯人が逃げ去る姿などは誰も見ていないのだろう。
どうやってあの騒ぎの中で放火を行ったのか。そしてどうすればその騒ぎから誰にも気取られずに逃げ出せるのか。
わざわざ騒ぎが起きていて警察まで集まっていた場所を放火するなんて――いや、エレベーター事故の騒ぎがある前に放火していたんじゃないか。
さすがに実際に火が放たれたわけじゃないだろうが、時限装置のようなものを取り付けたんじゃないだろうか。
そうすればエレベーター事件の騒ぎとは関係なく、すでに現場を離れた後で放火を成し遂げることができるだろう。
ただ放火の方法に目星をつけたとしても、どちらにしろ怪しい人物が誰にも見られていないのなら同じことだ。
そう思考が振り出しに戻りかけたところで、私はあることを思い出す。
確かに誰も怪しい人物を見ていなかったのかもしれない。そう、私以外は誰も怪しい人物を見ていなかったのかもしれない。
私はつい先ほど、エレベーター事故の際に一緒に巻き込まれた変わった少年のことを思い出していた。
「そ、そうだ。あの時、怪しい少年がビルにいたんだ」