7話(会社員4)
カランコロンと子気味良いベルを鳴らしながら扉を開くと、一瞬顔をしかめてしまうほどの不快な臭気が鼻を襲った。
昔ながらの、と言えば聞こえの良いこの喫茶店では、このご時世でも変わらず喫煙フリーを貫いている。
ヤニ臭さに蹂躙された店内には、昼時だというのに相変わらず客がほとんどいない。
私自身はタバコを嗜むことはないが、むせ返るようなタバコ臭は仕事場で慣れている。
一般的には好まれない環境であろうと、それで客入りが少ないのは私にとっては居心地が良い。
あまり明るいことを生業としていないからか、人の多いところにいるのは妙に落ち着かない。同僚たちはそんなこと気にも留めていないので、これは私の性分なのだろう。
美味しいとも不味いとも言えない味気ないチャーハンを食べ終え、苦みばかりが目立つ珈琲で一息ついているとやけに外が騒がしいことに気づいた。
普段なら工場の製造ラインよろしくよどみなく行きかう人々が、立ち止まって空を見上げている。
外に様子を見にいっていたらしい店主が戻ってきたところで、会計のついでに尋ねてみる。
「なんだか騒がしいですが、何かあったんでしょうか?」
「ああ、この近くのビルで火事があったらしい」
まさしく対岸の火事と言ったところか、店主にはそれ以上の興味はないらしくそっけなくそう答えるだけで淡々と会計を済ませる。
外に出ると想像よりも喧騒が大きかった。立ち止まって空を見上げている者もいれば、火事現場だろう方向に走って行く者もいる。
店内からは見えなかったが、外へ出て見上げれば毒々しい黒煙が勢いよく立ち上っているのが見える。
しかもそれが、先ほどまで自分が居た事務所があるあたりのようだった。
(あの煙の位置、うちの事務所のあたりだけど。まさかな――)
エレベーター事故の件で少しネガティブになっているのかもしれない。そう胸に芽生えた不安を鼻で笑って事務所へと向かった。
事務所に近づくほど野次馬の数が増えていく。
そして、とうとうその現場が見えるとこをまで近づいたところで、思わず足が止まってしまった。
目の前に広がるのは野次馬の群れ。その先にごうごうと黒煙を吐きだすビルの姿があった。
毒々しい煙を纏うようにして、その合間を縫って猛獣のように焔色が踊り狂う。その渦中――ビルの四階である事務所は絶望的な色に染まっている。
その景色を目の当たりにして、胃から心臓にかけてが氷水に浸したように縮こまり息が詰まる。
事件に直面した驚きも、先ほどまで自分が居た場所の変わり果てた姿に対するショックもあったが、何とか理性を振るい起こして少しずつ現場へと近づいていく。
すぐに駆け付けたいという気持ちが無いわけでは無いが、あの事務所――自分たちの仕事が真っ当ではないことが判断を鈍らせる。
念のため事務所の関係者とばれないように、そっと野次馬に紛れ込んで様子を確認する。
エレベーター事故で警察や消防がすでに現場にいたためか、すでに黄色いテープが見物人を現場に近づけまいと阻んでいた。
事務所の中や同僚のことが気がかりだ。
この惨状を見る限り皆無事というわけにはいかないだろう。それに逃げようにもエレベーターは故障して使えないと来ている。
階段なら下の階に降りられるかもしれないが、普段誰も使わない廃ビル同然の階段の状態がどうだったかは記憶にない。
「にしてもすごい火事だな。あそこ廃ビルじゃなかったのか?」
「いや、そうでもないらしい。昼前にエレベーターに閉じ込められたやつもいたそうだしな」
近くにいた男たちが火事について話している。
「それは災難だな。中にいた人が無事だと良いんだがな」
「いや大きな声では言えないが、どうもまっとうな連中がいたわけではなさそうでな。どうせあの火事も連中がなにか仕出かしたんだろうよ」
「なら自業自得か」
「むしろ連中が無事でない方が世間にはありがたいな」
「言えてら」
勝手なことを言って男たちが失笑を漏らす。
まあ私たちは男たちが言うようなまっとうな連中を食い物にしているので、そちらからしたらそういう感情を持たれるのは理解している。
「それにしても中々鎮火しないものなのね」
「ここからだとあまり見えないけど、中はもっと火が強いみたいよ」
火に惹き寄せられる虫のように、野次馬はどんどん増えていく。
その野次馬たちがどこから仕入れたかわからない情報を交換し合っている。
「あのビルってほとんどコンクリートじゃないの?」
「聞いた話だとガソリンか何かが燃えてるらしいわよ」
「保管してあったガソリンに引火したってこと?」
「それが……放火じゃないかって噂なのよ」
奥様方の情報網は凄まじいな。火事が起きてからほとんど時間も経ってないだろうに、どこからそんな情報を仕入れてくるのだろう。
しかし放火か……。正直だれに恨まれているのかと言えば、どこからからも恨まれている可能性がある。
放火犯は現場を見に来るという。この野次馬の誰かがその放火犯なのかもしれないのか。
視線で見まわしてみても素人の私に分かるはずもなく、誰も疑わしくなくもあるし皆が疑わしいようにも思える。
むしろ実は関係者である私がこの中で一番疑わしいのではないだろうか。そう考えると、あまりここに長居しない方が良いのかもしれない。
同僚の安否は気になるが、エレベーター事故の現場検証からも逃げた手前、警察に直接確認しに行くわけにもいかない。
事務所を調べられていて、いろいろと犯罪の証拠が見つかっているかもしれないしな。
とりあえず、ほとぼりが冷めるまでは離れているのが良さそうだ。それに無事なら同僚から連絡があるだろう。
野次馬の数人が現場から離れるのを待って、それに追従するようにその場を離れた。