七十九話 悪夢
獣のおたけびが聞こえた。
みれば木陰から身をのりだす黒いかげがある。
するどい爪に、おおきな歯。
まっくろな体毛におおわれた体は、俺の身長の倍はあるだろうか。
コイツはブラックベアーだ!
目があった瞬間、こちらへ猛然と駆けてくる。
ふん、しゃらくせえ。
「火よ」
鬼火を手に灯そうとする。
――が、灯らない。鬼火どころか、ちっぽけな魔法の火すらあらわれない。
「な!!」
ブラックベアーはみるみる距離をつめてくる。
このままではやられる! すぐさま風のシールドをはろうとする。
――が、シールドもあらわれない。
風の精霊が俺のよびかけに反応しないのだ!!
クソ! なんでだ、どうしてだ!!
そんな疑問などかんがえてるヒマはなかった。
気づけば目前にブラックベアーのするどい爪がせまっていた。
メキリ。
嫌な音。視界が反転すると、目の前がまっくらになる。
…………
……
ボリンボリンとなにかを噛み砕く音で目を覚ます。
みればブラックベアーが、ひとのちぎれた脚を食べていた。
――あれは俺の脚。
おのれのからだを確認すれば、脚だけでなく左腕もなかった。
おまけに腹からは、腸がはみだしていた。
……くそう。
死ぬのか。
俺はこんなところで……
「……ター…」
とおくで誰かが呼ぶ声がきこえる。
だれだ? やけに聞き覚えのある……
「マスター!」
ガバリと飛び起きた。
目の前には、心配そうなルディーの顔がある。
あわてて、おのれのからだを確認する。腕もある、脚もある、腸もはみだしていない。
――夢か?
周囲をみまわすとブラックベアーの影もかたちもなく、宿舎のそとには、ただ夜明け前の青みがかった星空が天にひろがっていた。
「だいじょうぶ? すっごいうなされていたけど」
そうか。そうなんだろうな。
汗びっしょりで息づかいはあらく、安眠とはほど遠い自分のありさまだ。
「だいじょうぶだよ」と、ぎこちない笑いをかえすことしかできない。
「ほんとにだいじょうぶ? ならいいけど……」
「ああ、ちょっとイヤな夢をみただけだ」
「そっか、夢か。じゃ、とりあえず顔でも洗ったら?」
あら、そっけない。
だが、ルディーのことばの裏からは、「心配したんだからね」との気持ちが感じられるのだった。
……ありがとな。ルディー。
「水よ」
俺の呼びかけに応じ、両手のひらに水がわく。
よかった。精霊はどこにも行ってやしない。
バシャバシャと顔を洗うと、気持ちがおちついてきた。
高まっていた鼓動もおさまる。
「マスター、おチビちゃんが何か持って帰ってきたよ」
ルディーの指さすほうをみる。
すると、クイックシルバーのひとりが、両手になにかを抱えてこちらにむかってきていた。
なんだ? あれは。
ひとのあたまふたつぶんぐらいだろうか、つるりとした肌の物体。
よくみれば小さいながらも手足のようなものがある。
……赤ん坊か?
「うげ~、きもちわるい」
近づくにつれ形があきらかになった。
クイックシルバーのかかえるその物体は、赤ん坊のようなすがたをしているものの、目はとびだし、鼻はゾウのようにながい。そしてなにより、背中にコウモリの羽らしきものがはえていた。
たしかに気持ちわるい。
魔物だろうか? ニュロリと伸びる目、鼻、耳、口からながれるのは血だ。
おそらくクイックシルバーがしとめたときに出血したのだろうが、こんな魔物はみたことがない。
場所がかわれば魔物もかわるってことだろうか?
冒険者ギルドに持っていくけばわかるかもしれない。が、そう思った瞬間、きみょうな物体はドロリと溶けはじめた。
「うわっ! キモッ!!」
みるみるうちに形は崩れていく。やがて液体となり地面におちると、そのまま染みこんで消えてしまった。
なんだこれ?
「新種だ~。キモキモ怪物ドロリンチョ。倒しても消えちゃうからタダ働きだよ♪」
うるせえなルディー。かってに名前つけるんじゃないよ。
だがまあ、たしかに倒しても消えるとなればタダ働きだ。
素材もとれなきゃ討伐の証明もできない。金にかわる要素はまるでない。
しかも、他人に話しても信じてもらえなさそうだ。
これじゃあ冒険者ギルドの記録にものこりにくいか。
う~ん、冒険者は命がかかってるから、伝聞だけでもまわってそうだが……
やっぱ帰ったら、フィリップや部下の冒険者なりに聞いてみっか。
それでわかればよし、わからなかっても注意をうながすぐらいはできるだろう。
じゃあ、フォミール砦むかうとすっか。
クイックシルバーは引き続き周囲の警戒をよろしく!
しゅっぱつしんこう!!