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お隣さん

作者: 三塚日月

 街灯に庭のハナミズキが白く浮かぶ。その角を左へ。ブロック塀に貼られた政党ポスターを三枚数えて、Y字路を歯科医院のほうへ。このあたりで駅に向かう学生の流れとは完全に分かれる。柴犬、アジサイ、郵便ポストと過ぎてやっと大通り。左に出てヘッドライトを横目にしばらく歩き、青色のコンビニからふたつめのビル。そこが、青木愛華まなかが四月から暮らすマンションだ。

 大学に入るまで五人家族で育った愛華だから、ひとりの家に帰るのはどれだけ心細いかと思っていた。けれども、こうしてマンションを仰ぐと毎晩ほっとした。知らない誰かの窓の灯り。それも自分を待つ家の灯りに見えたから。愛華の目にはマンションはひとつの大きな家に映った。

 狭いエントランスでエレベーターを待ちながら、いつもの癖で鍵を確かめる。弟が「ねーちゃんそっくり」とよこした頬が膨れたウサギのチャームが揺れた。似てないのに、とエレベーターの窓に視線を移した。黒髪のミディアムヘアが丸顔を強調しているように見えた。せっかく親元を離れたのだから色を抜こうかな。そんなことを考えているうちにドアが開いた。セロリの青い匂いが残っていた。また住人の誰かと入れ違ったのかもしれない。

 六階建てのマンションは古さのわりに賑わっている。だが、さすが都会というべきか、住人の生活リズムはばらばらだ。暮らし始めて一か月とちょっと、ひとと会ったのは数えるほどで、いまだに両隣とは会ったことがない。

――どんなひとが住んでいるのかなあ。

 エレベーターから降りると、夜気がひんやりと頬を撫でた。もういちど鍵を握りなおす。ウサギの頭についた鈴がちりんと鳴った。廊下には男がひとり。階段を上がってきたのだろうと思った。階段の前で息を整えるように立ち止まっていたから。三階。愛華自身も運動のために階段を上がろうと考えたものだ。……最初の三日間は。

 愛華の部屋は三〇八号室。男もそちらのほうらしかった。鍵を持ちなおしながらちらちらと窺えば、ちょうど隣、三〇七号室。

――お隣さん、こんなひとなんだ。

 三十代ぐらいか。中背、やや太め。真面目そうな短髪に紺のスーツ。サラリーマンに違いない。

 ――夜騒いだりして、迷惑かけないようにしなくっちゃ。

 そんなことを思いながらドアを開いた。どんっと足許が揺れた。地震! 身構えた躯が熱く湿っていた。男が躯をぴったりと寄せて、愛華ごと部屋に入ろうとしている。揺れだと思ったのはぶつかられた衝撃だ。

「…………!」

 驚きが声を奪う。男は強張った表情で愛華を見据えながら、もういちど太い肩を入れ愛華に体重をかけた。靴底が滑ってドアの内側に躯が崩れる。リン、と鈴。冷たい床から仰ぐ男の影が黒く広がったように見えた、瞬間。

「なにしてんだ! おらぁっ!」

 低い声が薙ぎ払うように響いた。次の瞬間、身がふっと軽くなる。小柄な影が後ろから男を引き剥がしていた。廊下に投げられた男は低く呻いたが、すぐに転がるように階段へと駆けていった。

 だ、だだ、と不規則な靴音が遠ざかる。スニーカーのようなやわらかな足音だった。スーツを着ていたのに――。

「……だいじょうぶだった?」

 一転して、高い声が囁いた。床にへたりこんだ愛華が顔をあげると、黒と赤の女が膝に手をつき、こちらを覗きこんでいた。黒に赤メッシュのボブカット。黒地のバンドTシャツに黒のショートパンツ。顔は市松人形のようにあどけないが、唇は堂々と赤い。

 空っぽになった頭に女の赤と黒だけがばらばらに入ってくる。

「え、え、いま……い、まの…………」

 鈍いのは思考だけではなかった。口もからからになって動きが鈍い。

 女は幼い顔をパグのように顰めてみせた。

「犯罪者! ああやってご近所さんのふりをして、あんたがドアを開くのを待ち構えてたの。部屋に入りこむためにね!」

「…………つまり、……どろ、ぼう?」

「……そーね、泥棒ならまだマシ?」

 のろのろ動きだった頭が、不意に油を差されたように回転しだした。

 押し入り。

 窃盗。

 性犯罪。

 証拠隠滅の殺人――……。

 一拍遅れて、手と足ががたがたと震えだす。

「結構あるらしいよ。横から滑りこむだけじゃなくって、後ろから押しこもうとしてきたり。手にした鍵を奪おうとしたりさ」

 投げだした足、靴の先にウサギのチャームのついたキーが転がっていた。

 女は愛華の前に膝をつき、薄化粧の顔を近づけた。

「だから、家のドアを開く前に周りに誰もいないかを必ず確かめて! ドアは細く開いてサッと入ってパッと閉じる! で、即、がちゃんとロック!」

「だ、誰もいないかを確かめて、細く開いたドアから」

「サッと入ってパッと閉じてがちゃんっ」

「が、がちゃん」

 女は真剣な表情で頷いた。愛華も頷いた。先にくすっと笑ったのは女のほうだった。愛華もほんの少し唇を緩めることができた。

「良かったよ。間にあって」

 深い息を吐いて、細い肩をへなりと落とす。

 愛華は床に手をつくようにして深々と頭を下げた。

「ありがとうございます。本当に助かりました」

「いーよ、そんなの。ご近所さん同士、助け合わなきゃ!」

 立てるかな、と首を傾げると、女は愛華に手を貸した。小さな手はひんやりとして良い香りがした。ハッカの甘さ。

「あ、警察……呼んだほうがいいんでしょうか」

「そのほうがいーんじゃない? ここ、いちおう防犯カメラもあるから。とっとと捕まればいーんだよ、あんなの」

 女は階段室のほうを振りかえった。と、ばんっ、と音が鳴った。

「…………?」

 上からだろうか。愛華は天井を仰ぐ。

「あー、ここ、古いから。古いとね、いろいろ」

 実家もこんなふうに音が鳴った。家鳴り。建材が収縮したり動いたりしたときの音だという。鉄骨であろうマンションでも鳴るのだと、少し驚く。

 手を借りて立ち上がり、間近の女の顔を覗く。愛華も小柄だが、女もかなり小柄だ。

「ええっと」

「あ、私、隣、三〇九号室」

 女は顔は目を細めて笑った。愛嬌のあるコケシのような笑顔だった。

「すいません、私、引っ越しの挨拶もしていなくって……」

「いーよいーよ、私も昼間いないしさ。最近、そういう挨拶するひとのほうが少ないでしょ」

 女は大きな口を開けて笑い、狭い肩をくんと窄めてみせた。

「今度、今度お礼に伺います」

「やめてー、そういう仰々しいの苦手ー」

「だったら、今度うちでお茶……ううん、ごはんでも、よかったら」

「わ、いいの!?  じゃ、また今度! 図々しくお邪魔しちゃうね!」

 女は軽く飛び跳ねるようにして愛華の手を握った。その仕草に今度こそ、くすりと笑いが落ちた。女も満面の笑みを浮かべた。

 警察に通報しているうちに、女は姿を消していた。少々心細かったが、彼女にも用事があるのだろう。あの恰好からして、どこかライブにでも出かけたのかもしれない。その軽やかさも都会に出てきたのだと感じさせた。

 十五分もしないうちに、制服警官と女性を含む私服の警官――おそらくは刑事が早足で現れた。彼らは愛華が無事な様子に安堵したようだった。男の警官は管理人室のほうへと向かい、女の警官が愛華の話を聞こうとした。ひとりは四十がらみの私服、もうひとりは若い制服。クリーム色のサマーセーターを着た女刑事は、まずは何度も愛華の身の安全を念押したのちに話を促した。さっき笑えたのだから、話せると思った。だが、口を開くと唇が震えた。彼女に手を握ってもらって、やっと話しだすことができた。

「…………それで、お隣のかたが助けてくれたんです」

「隣?」

 女刑事は手を止めた。おかっぱの制服警官が首を傾げた。

「両隣、三〇七号室、三一〇号室ともに空き部屋だと聞いていますが……」

「えっ?」

 明るい笑顔が思い出された。

《私、隣、三〇九号室の》

「とな、隣は、三一〇号室なんですか。三〇九じゃなくって……?」

 制服の若い女は手許のノートを見た。そして、もう一度確認してきます、と玄関に向かった。女刑事が静かに言った。

「入るときに扉を見ましたが、隣は三一〇でしたよ。四、九、十三は嫌がるかたがいるので、飛ばすことが多いみたいですね」

「そんな、でも」

 言葉を探すうちに、制服の彼女が息を切らせて戻ってきた。

「やはり、両隣は半年ほど空き部屋だそうです。それから、防犯カメラ! 映ってましたよ! 青木さんと犯人のふたりがばっちり――!」

 ふたり?

 興奮気味の若い彼女を諫めるように女刑事がなにか話している。だが、涼やかな声を拾えたのは途中までだった。

 赤と黒の女の声がよみがえる。

《ああやって近所のひとのふりをして》――。

 ああやって。

 最初から見ていなければ、男がお隣さんを装ったことなんてわかりはしない。

 女はどこから、その様子を見ていた……?

 エレベーターを降りたとき、廊下には愛華とあの男しかいなかったはず。

 それに、女は小柄だった。愛華と同じぐらいに小柄で華奢だった。なのに、彼女は中背の男を軽々と投げ飛ばした。


 映っていない彼女。

 存在しない三〇九号室。存在しないお隣さん。

 彼女は明るく笑って言った。

 

《じゃ、また今度! 図々しくお邪魔しちゃうね!》


**


「ねーちゃーん、これこっち?」

「もー、服は私がやるから! あんたは靴でも詰めててー!」

 いくら姉とはいえ異性の衣装ケースを勝手に開けるなんて、まったくデリカシーがないんだから。愛華はダンボール箱にタオルを詰めつつ、弟の坊主頭を睨みつけた。彼は最近急に伸びた手足を持てあますように立ち上がって、すぐにまたしゃがんで声を落とした。

「やっぱ俺、来年から一緒に住むよ」

「やだ。あんた散らかすもん」

「じゃ、隣」

 お隣さん――三〇九号室の彼女は、結局部屋を訪ねてこなかった。なぜなら、愛華がその後一度も部屋に帰らなかったからだ。事件の報せをうけた母親がすぐに飛んできて、翌日と翌々日はふたりでビジネスホテル。三日後から大学まで一時間の親戚宅へ。そのまま下宿という流れをなんとか振り切って、オートロックの女性専用マンションへの引っ越しが決まったのが二週間後だった。

 荷物の整理に戻った部屋は、二週間の間を挟んでもはや他人の部屋のようだった。特に押し込まれかけた玄関は寒々しく、家族五人の靴がぎゅうぎゅうに並んでようやく人心地ついた。

 部屋に入る前にもういちど確認したが、隣はやはり三一〇号室だ。

 機械的にダンボール箱に荷物を詰めながら、愛華は事件後を反芻した。

 男はすぐに捕まった。防犯カメラの映像と一階の住人の証言が決め手だった。その時間、階段室から大きな音と悲鳴が聞こえたそうだ。階段から落ちた男は手首と足首を折っていた。もしかすれば、あれは――。

《夜間、コンビニから通りを見て女性を物色していたそうです。愛華さんのことは、以前一度尾けて住所を調べていたと言っています》

 だいたいの帰宅時間もコンビニから監視され、確認されていた。あの日、男は一時間ほど前から愛華を待ち構えていたらしい。それを聞いた親の希望で転居先はコンビニから離された。不便だが仕方がなかった。

 男は『愛華に』突き飛ばされたと言った。愛華も防犯カメラの映像を確認したが、赤黒の女は映っていなかった。『助けてくれたお隣さん』はショックによる記憶の混乱として片づけられたが、愛華には別の考えがあった。

 彼女は、昔でいう座敷童かなにかだったのではないか。マンションはひとつの大きな家のよう。だったらひとりぐらい、そんな子がいたっていい。座敷童が暮らすような古いお屋敷なんて年々減っているのだから。愛嬌のあるコケシのような笑顔が思い出される。着物だって似合いそうな顔だった。 ダンボール箱に封をして、愛華は立ちあがる。靴を包みながらなおもぶちぶちと続ける弟の坊主頭を、ガムテープでひとつぽんと叩く。

「まずは大学受かりな。ねーちゃんはねーちゃんでちゃんとやってくからさ」

 引越し業者が荷を運びだす。廊下に誰もいないのを見計らって、愛華は三〇八号室と三一〇号室との狭間に立った。三〇九号室があるならこのあたり。こっそり頭を下げ、小さなメモを壁に押しあてた。

 ――これ、新住所です! 今度遊びに来てください!


 ねーちゃんはねーちゃんでちゃんとやっていける。

 ご近所さんたちと助けあっていくから。


 愛華はダンボール箱を抱えあげ、歩きはじめた。六月の陽が明るく廊下を照らしていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 怖い話かと身構えて居たらあったかい話でほっこりしました。勝気な座敷童、いいですね。情景描写も丁寧で、読みやすかったです。
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