ゲーセン
他の人にとってどうかは分からないけど、あの頃のぼくにとっては特別の場所だった。
唯一、自分が自分でいられる場所だった。
ゲーセンと聞いてどういうイメージをもつかは人によってさまざまだと思う。
ぼくより上の世代のひとにとってはゲーセンは不良の溜まり場だろうし、ぼくより下の世代にとってはカラオケやボーリング場などと同じアミューズメント施設のうちのひとつにすぎないだろう。ぼくにとってゲーセンはそのどちらでもない。
ぼくが十代の頃に通っていたゲーセンはそのどちらでもなかった。
もちろん、当時のゲーセン全てがそうだったわけじゃあない。
相変わらず、不良の溜まり場になっているゲーセンもあったし、カップルやファミリーをターゲットにした健全なゲーセンもいっぱいあった。
むしろ、そっちの方が主流だったんだと思う。
ただ、そのどっちにも当てはまらないゲーセンが、数少ないながらも、確かに存在したんだ。
ぼくが通っていたジョイスタがそうだったし、他にも何軒か知っている。
多分、日本中どこにでもあったんだと思う。
ちょうど時代の変わり目だったんだろう。
家庭用ゲーム機が普及したおかげでゲームをやるのが当たり前になって、プライズゲームやプリクラが流行り出した頃だ。
若者にとって、敷居が下がったんだろう。
まだ校則で禁じられている学校が多かったと思うが、ぼくたち中高生も制服のまま出入りするようになり、ゲームをやらないような普通の女子高生も見かけられるようになっていた。
ぼくたちにとって、もうゲーセンは大人たちが言うような怖い場所ではなかった。
かと言って、健全な子供の遊び場だったわけじゃない。相変わらず不良もいたし、あからさまにカタギじゃない風体をした大人もいた。
それに、制服姿でタバコをふかしていても誰も咎めない。そんな場所だった。
中学生だったぼくは、いい年した大人が昼間からゲーセンでブラブラしているのが不思議だった。
その頃はまだ、大学生が暇なことも、フリーターという生き方があることも、サラリーマンが勤務時間中にサボる事も知らなかった。
大人になったら、うちの両親みたいに朝から晩まで働き詰めなのが当たり前だと思っていた。
衝撃だった――。
『学生時代は一生懸命に勉強して、良い大学に合格し、良い会社に就職して、家庭を持ち、家族を養うために休みなく働く』
それが当たり前だと教えられていた。
だけど実際は、そんなのちっとも当たり前じゃなかった。
そんな現実をゲーセンが教えてくれた。
スーツ姿で筐体に向かうサラリーマンの背中を見てこんな空想をしたことを覚えている。
家では「くだらん」とゲームを否定している堅物の父がゲーセンでプレイしている所にばったり出くわし、決まり悪そうに「母さんには内緒にしてくれ」ってなったら面白いなって。
残念ながら、そんなことは起こらなかったけど。
今の若い子たちは、家にいても同じゲームがオンライン対戦できるのにわざわざゲーセンに行ってお金を払ってゲームをするっていう行為が理解できないかもしれない。
今はゲームするのに、わざわざゲーム機を引っぱり出さなくても、パソコンでもスマホでも、指先ひとつですぐにゲームが始められる。
それに、ゲーム以外の娯楽も色々増えた。そんな時代にわざわざゲーセンに行く理由なんか少ないのかもしれない。
実際、ゲーセンの数は年々減少しているっていう話も聞くし、ボクが十代の頃に通っていたジョイスタも潰れて百均になった。
ゲーセンという場所は、すでに役目を終えてしまったのかもしれない。
今の時代にはもう必要ないのかもしれない。
だけど、ゲーセンでの対戦はネット対戦とは違う。
すぐ目の前にいる相手との対戦だ。
相手の感情が伝わってくる。
対戦を通して、その相手とのコミュニケーションが取れる。
十代のぼくには――それだけがリアルな人生だった。
ゲーセンがなくなって、今の若い子たちが可哀相だ、などと言うつもりはない。
若いときに大人が眉をひそめるものに熱中することはとても健全だと思う。
そういう抵抗を通じて子どもは大人になっていくし、それによって新しいものが生まれてくるんだと思う。
その手段はバイクだったりロックだったり、今のネット文化だったり、時代や人によってさまざまだと思う。
ぼくにとってのそれはゲーセンだった。それだけの話だ。
十代のぼくが、子どもでも大人でもなかったぼくが、子どもの世界を離れて大人の社会に適応する方法を身につけた場所がゲーセンだったってだけ。
あいにく、大人になったぼくは今の若い子たちにとって、なにがその手段になってるのかは実感できない。
だけど、きっと若者は若者なりの居場所を見つけるんだろう。
大人が眉をひそめる、刺激的でとっておきの場所。
生きていると実感できるそんな場所を――。