僕と星の君
妖精という不思議な生き物が、この世界には存在する。
その身はまるで羽毛のように重みがなく、背にある羽根は絹布のように柔らかく、血肉は美酒佳肴として振舞われ、心臓は万病を癒す薬となった。欲深き人間たちは、妖精から得られる羽根を、血肉を、命を欲して狩り始めた。その身を守るための爪を持たない妖精たちは、どんどんその数を減らしていった。このままでは妖精という種は無くなってしまうだろう、人の王は一計を案じた。妖精から得られる糧は捨てがたい、しかしこれから先得られなくなるのはそれ以上に惜しい。王は言った。「これより先、妖精を無断で狩ることは許されぬ。国によって決められた者だけが妖精を狩る権利を有することとする。決してその種を無くすことなきように務めることを義務付ける。」一定数の妖精だけを狩り、それ以上は手を出させないことを誓わせた。国王に選ばれた妖精狩りを行う者たちは、それから少なくない妖精を殺し、羽根を奪い、血肉を解して人々に分け与えた。人々は彼らを“狩人”と呼んだ。
◇ ◇ ◇
妖精とは人々から搾取される存在だ。そのことを今まで事実として疑ったこともなかったし、罪悪に感じることも無かった。人が家畜を飼い、殺し、その肉を喰らうことと同義だと思っていた。……しかし、今目の前の光景を目にすれば、それらはなんて浅ましい考えだったのかと思い知らされるようだった。
生まれて初めて見る妖精は薄暗い夜闇の中、薄く発光する身体を抱えて警戒するように鋭い眼つきで僕を睨みつける、美麗な少女の姿だった。妖精は人間と同じ姿をしていると聞いたことがあったが、初めて見る実際の妖精は、到底自分たちと同じ姿をしているとは思えなかった。
美しい、と思ったのだ。透き通るような肌も、宝石のように煌く瞳も、流れるような細い白い髪も。背中から生えている羽根はまるで、天上からの使者のように神々しく輝いている。その容姿を見て、どうして自分たちと同じだと言えるのか。
「……君が……妖精……?」
訊ねる声に答えは返ってこない。怯えたように身体を震わせ、敵意を滲ませた瞳で睨み返してくるだけだ。……それも、そうかもしれない。狩人である父が捕らえ、このように狭い座敷牢の中に閉じ込めたのだから。人間は敵だ、と思われているのかもしれない。
「怖くないよ……君と話がしたいだけなんだ」
言いながら、説得力のない言葉だなと思う。どこが怖くない? 人間に怖い思いをさせられたからこそ、彼女は人間である僕を恐れ警戒しているのだから。
父親が夕餉の席で「今回の獲物は上玉だ!」と誇らしそうに狩りについて話してくれていたのを思い出す。話に聞くだけで、実際には妖精を見たことのなかった僕は、その話を聞いて好奇心を抑えきれなくなって夜にこっそりと覗きに来てしまった。話しかける気なんてなく、遠目でその姿を一目だけでも見ることができたらそれでよかった。……けれど、現実にはこうして声をかけ、更には会話のキャッチボールまで望んでしまっている。
「僕はセイだよ。君の名前を……教えて、くれない?」
妖精は僕を睨み続けるだけで、決して口を開こうとしない。仕方なく、その日は諦めて家に戻ることにした。最初は一目見るだけでいいと考えていたけれど、妖精を閉じ込めている座敷牢から離れる頃には、明日の夜もまた来ようと考えていた。……白い光を纏った、小さな星のような妖精に逢いに。
次の日も、同じように星の光が瞬く夜に訪れた。警戒して身体を堅くさせる妖精の少女を刺激しないように距離を開け、小さな声で話をする。
「こんばんは、妖精さん」
妖精の身体は、夜になると薄く発光をする。その光は自分たちでは止められないらしく、人間に見つかると狩られると知っている妖精たちは、夜は隠れて決して表に出てこない。彼らの活動時間は明るい昼間なのだ。だからこそ、昼間はこの座敷牢も見張りが何人か付いているが、夜になると引き上げていく。妖精は夜には絶対にやってこないことを知っているからだ。もし危険を承知で来たとしても、外からの侵入者には周囲に張ってある罠が襲うようになっている。だからこそ彼らは例え人がいないとしても夜にやってこない。そして僕はそのことに感謝しないといけない。夜に見張りがいなくなるからこそ、僕はこうして美しい妖精の元へと訪れることができるのだから。
僕はその日もたくさんのことを一方的に喋り続けた。他愛のないことを、日常的なことを。何の反応もせずに、ただただ話し続ける僕を睨み続ける妖精に対して。
そして次の日、更に次の日も、僕は父の捕らえた妖精に会いに行った。相変わらず何の反応もせず、一言も言葉を返さなかったけれど、僕が会いに行くのに慣れてしまったのか睨むことはしなくなった。ぼんやりと、喋り続ける僕を見つめるようになっていた。
「……それでね、最近は退屈しのぎに空を見上げるようにしたんだ。雲の動きとか、よく見てみると面白いよね」
不思議と話の種は尽きなかった。仲のいい友人にだってこんなにも長く話し続けたことなんてない。
「僕はね、父の跡を継いで狩人にならないといけないんだけど……本当は、天文学者になりたいんだ」
夜空に浮かぶ星を見る仕事。星の動き、瞬き、空に描かれる幾万の絵。星は方角から吉凶など、様々なことを人に知らせてくれるから面白い。
「……“ホシ”って、何?」
「……え?」
星について語っていると、不意に鈴の音が転がるような声が聞こえてきた。僕はその声が、今まで長く口を閉ざしていた妖精の少女が発したものだということに、中々気付くことができなかった。呆然と少女を見つめていると、彼女はこてんと首を傾げている。
「ねぇ、“ホシ”って……なぁに?」
「……え、あ……星って、いうのは……」
答える言葉に涙が混じりそうになる。……そうか、嬉しいのだ。自分の言葉に、彼女が反応してくれたのが。
その時から、僕と彼女は少しずつ言葉を交わすようになった。……なったといっても、今でも僕が十を話し、彼女が一を返すような会話しかしていないけれど、以前よりもずっと彼女のことを知ることができるようになった。そして話すようになって分かったことがある。どうやら彼女は“星”をしらないようだ。その他にも“月”や“夜空”も何も。考えてみれば当たり前だ、彼ら妖精の体は夜になると薄く発光し、人間はそれを目印にしている。狩人を怖れる妖精たちは絶対に夜は出歩かない、だからこそ彼らは夜の世界を知らないのだ。
「……じゃあ、いつか見せてあげるよ。夜空に輝く小さな煌めきを」
父さんにお願いをしてみよう、この妖精の少女を外に出してくれと。こっそり忍び込んでいたことを知られると怒られるかもしれないが、息子に甘いあの父ならば、きっと許してくれるだろう。
「一緒に、星を見ようよ」
僕の言葉に、彼女は儚げな面立ちのまま見つめる。
「……うん。……セイと一緒に……見たい、な」
そう言って、彼女はふんわりとした微笑みを浮かべる。僕は初めて見る彼女の笑顔と、名前を覚えていてくれたことに加えて初めて呼んでくれたことに喜び……気付くことが、できなかった。……最期の時まで……彼女の笑顔を覆う、影の存在に。
少女と約束をした次の日、僕は夕餉の席で父さんに話してみようと思っていた。
「セイ、ご飯よー」
「はーい、今下りるよー」
階段を下りて台所に入ると、そこにはもう既に父さんがお酒を一瓶飲み干して上機嫌に笑っていた。機嫌の良さそうな様子を見て、これなら大丈夫かなと思って口を開く。
「……あのさ、父さん。父さんが以前捕まえていた妖精のことなんだけど……」
座敷牢の、と続ける言葉を聞き、父さんは「……ああ、あれか」と返しながら手元のコップに酒を注ぐ。
「あれは久しぶりに若くて活きがよかったよなぁ。……なんだ、お前も楽しみにしていたのか?」
「……え? 楽しみ?」
何のことか分からなくて目を白黒させていると、父さんは軽く首を傾げるようにして僕を見ていた。
そんな僕と父さんの前に、どんと大きな鍋が置かれる。母さんは疲れた、とでも言うように肩を大きく回す。
「お、母さん。できたのか?」
「ええ、久しぶりだから張り切って捌いたわよ」
「そうかそうか。……セイ、今日はご馳走だぞ!」
「……ご馳走?」
両親の機嫌の良さに、初めて疑問が浮かぶ。……そういえば、父さんが夕餉の前からお酒を飲んでいる姿を見るのは、今日が初めてだ。普段は飲みすぎてはいけないからと、ご飯の後で飲んでいるのに。
僕は目の前に置かれた鍋を見る。……分からないけれど、何故だか背中に冷たい汗が流れてくるのを感じる。
「滅多にないぞ……妖精鍋だ!」
言葉と共に蓋が開けられ、鍋の中に浮かぶ薄桃の塊を目にし、くらりと目眩を起こしてしまう。……妖精、なべ……? ……何故だろう、父さんの話す言葉の意味が理解できない。
「……父、さん。……まさか……それって……」
捕らえていた妖精の少女を?
目を見開いて呆然と訊ねる僕の様子に、父さんは全く気付いた風もなく答えを返す。
「そうだぞ、父さんが解体したんだ」
自慢げに紡がれる言葉を理解した途端、込み上げてくる吐き気を抑えるために、咄嗟に口元を押さえる。解体? 誰を? ……どうしたって……?
もう一度机の上にある鍋の中の物体に視線を移す。
見知った野菜と一緒に煮込まれた、理解することのできない物体を見る。……不意に、昨夜初めて目にした彼女の儚げな微笑みが浮かんだ。
「う……うわあああああー」
口からは絶叫が迸り、足が縺れながら、家を飛び出した。
ぐるぐる、ぐるぐる。
何も考えることができない。僕は無我夢中で走り続け、気が付くと彼女が閉じ込められていた座敷牢のある離れに来ていた。扉を開くと、以前は彼女の姿をすぐに見つけることができていた。けれど今はもう、牢の中はからっぽだ。何もない、誰もいない。牢の中はほとんど何もない場所のまま変わらず、彼女の姿だけが消えていた。彼女がいた痕跡も、証も何もない。……本当に、彼女はここにいたのだろうか。自分が見せた幻だったのだろうか。……そんなことを考えてしまい、自嘲するように首を振る。……そうであったら、どれだけ良かったのだろうか。
「……そんなはず……ないじゃ、ないか……」
彼女は確かにここにいた。最初は警戒し続けて、でも次第に柔らかくなって、笑顔まで見せてくれた。名前も呼んでくれた。……それなのに、僕自身が、彼女の存在を無くしていいはずがない。
「……僕はまだ……君の名前を……教えて貰って、ない……よ」
星を見ようと僕が言った時、彼女は寂しそうな……諦めているような微笑みを浮かべていた。どうして気付かなかったのだろう、彼女の持つ影の存在に。
今の自分なら、分かる。……彼女は諦めていたのかもしれない、自由になることを。星を見ることなんて、できないだろうことを。……それなのに、僕は一人、ヘラヘラとありもしない未来を語っていたんだ。――なんて、愚か……。
「……う……あ……うぅ……うああぁぁ……ああ……」
溢れる涙を抑える術など知らない。
自身の体を抱き、無力に震えながら……星の面影を持った少女を想い、泣き、叫んだ。
十年後、妖精たちの間で不思議な狩人の噂が流れていた。
それまで妖精にとっての“狩人”とは、自分たちを狩り殺す非情な人間であり、恐怖の対象だった。だが、その狩人は人間と妖精の共存を一人謳っていた。命を奪うこと以上に、自分たちは多くのモノを与えられ、彼らに返すことができるのだと。……欲深な人間達は、彼の言葉に耳を貸そうともしなかった。……しかし、少ない数の賛同者は確かに存在し、訴えかける彼を懸命に支え続けた。
そして更に六十年後、彼の生涯に渡る改革運動によって、一つの“法”が定められた。
曰く『国に奉仕する妖精を、傷つけることを禁ずる』と。
これによって、妖精が無残に狩られる数は、劇的に減ったという。妖精たちは変わり者の狩人に感謝をし、多くの妖精が彼の下へ集った。
その後、狩人は亡くなり、星の見える丘に彼の墓が建てられた。人間も妖精も関係なく、皆彼を悼んだ。残された者たちは彼の愛した花を墓の周りに植えた。その花は星空の下で咲き誇る、清く可憐な白い花。……夜に輝く星の花。
彼の墓を彩る星の花の姿はまるで、その面影を持つ少女が、そっと彼に寄り添っているようであったという――……。