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暗闇に呪詛がつぶやかれる。積もり積もった恨み言が、笑顔みたいにもれでてくる。
「おもいこみで他人の悪口をいうべきじゃないとか、人を傷つける言葉はジョークにならないとか。まじめかよ。そこにいる人たちで笑えればそれでいいじゃない。いつだってツグの顔色うかがって、機嫌とるため愛想よくして――」
あまりにも攻撃的な言葉ばかりが暮木ミゾノの声となって響いてくる。佐伯弘貢は口をはさむ隙がなかった。そもそもなにをいうべきなのかもわからなかった。それどころかいったいなにが起こっているのかさえ把握できていなかった。なぜミゾは、こんなことをいうんだ?
ずっとずっと、ツグのことがうっとうしかった。
叫び声にはほど遠い。夜風にめくれる本のページよりもかすかな声だった。聞き落してしまいかねない声はしかし、はっきりと佐伯弘貢の耳朶をえぐって心をゆさぶった。
暮木ミゾノが他人をけなすような言葉を口にするのが、佐伯弘貢にはつらかった。彼女の言葉はときに無責任に発せられる。それでその場にいる人間が傷つくことはなかった。むしろ笑い声が起こることのほうがおおかった。だが佐伯弘貢にはそういう場自体にいたたまれなさを感じた。言葉が田川隆嗣や金杉聡美を傷つけることはなかった。でも代わりにだれかを身勝手に傷つけるものだった。暮木ミゾノには、だれも傷つけてほしくなかった。
「僕がわるかったなら、あやまる。ミゾとは、もっとあかるい話がしていたかったんだ。だれかの悪口をいったり、ままならないことにかなしんだりするよりも、前向きになれるようなことを」
「知らないの、ツグ? 陰口や文句のほうが、前向きな言葉よりも気分がよくなるのよ。それに前向きなことっていったって、つまりは臭い感情をごまかしてるだけじゃない。ツグだって、いやな気持ちになることはあるでしょ。アタシが暮木の悪口いえば不愉快なんでしょ? 人が傷つくことをいうなっていうツグは、そうやってアタシを傷つけるようなことをいうんだ」
傷ついたといわれて、いい返せる言葉も説明のための言葉も佐伯弘貢はもたなかった。彼女が口をひらくたびに違うんだと叫びだしたくなる。でもなにが違うというのか。
暮木ミゾノ自身が苦しみを感じたという。それ以上に重要な事実なんてなかった。彼女を傷つけていたということ、その自覚がなかったこと――それがずっとつづいていたこと。
「ツグは気づかなかった。ツグがどれだけひどいことをしているのかって。もうこれ以上、ツグといっしょにいたくない」
暗がりの踊り場で身じろぐ音がする。
「ツグのそばにいるのはもう、たくさんだ」
同じたかさに聞こえていた声の位置がかわった。佐伯弘貢はその差を埋めようとするように階段をあがりかけたが、だんと床を打つ音に制された。近づかないでとかすかな声がする。なにかいわなければならないと感じた。でなければ、彼女の足をとめるきっかけがなければ、もう二度と会うことも声を聞くこともない予感がしていた。
「じゃあね、ツグ。麻倉と仲良くするんだよ」
とめなければ。これ以上、彼女に言葉をつづけさせてはいけないと佐伯弘貢の本能がうったえた。でも、聞きたくもないことを引きだす言葉しか、佐伯弘貢にはおもいうかばなかった。なんで、麻倉名美の名まえがここででてくるのか。
「ツグはきっと気づかない。ツグのことを好きなのは、アタシじゃないよ。アタシはべつに、ツグのことなんてどうでもよかった。アタシはただ、麻倉を苦しめたかっただけ。だれだって、好きな人に恋人ができればつらいでしょ?」
そうだったでしょ、麻倉?
声は佐伯弘貢を越えて放たれた。
手摺に右手を添えながら、階段を駆けあがってきた麻倉名美が、息を切らしてふたりを見あげていた。いや、彼女の位置からは暗くて踊り場の暮木ミゾノは見えていないだろうし、佐伯弘貢にしたって足もとしかわからないだろう。しかし雨にうたれて濡れそぼつのも気にせず、厳しい眼差しを暗がりへむけていた。奇妙な表情だった。目もとには厳しさをたたえているのに、眉や口もとには異なる感情を隠しきれていない。
「つらかったでしょ? でももうかなしまないでいいわ。ツグはきっと麻倉を大切にしてくれる」
「嘘。やっぱり暮木さんは、ただ親切がへたなだけなんだ」
麻倉名美はそういいながら階段をあがっていった。佐伯弘貢の脇を抜けたとき、暮木ミゾノの息をのむ気配が伝わった。踊り場まであがったとき、蛍光灯がちっと灯る。目つきは鋭く、しかし腰をじゃっかん引き、両手も胸のまえに握る暮木ミゾノがいた。麻倉名美はその両手をとって、ぐっと身を寄せると、ただ親切がへたなだけとくり返した。




