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オブジェがゆれるのを、群衆のだれよりもおののきながら凝視する人がいた。吹き抜けへむけられた彼女の目は見ひらかれ、崩壊の一部始終を見守らせた。
慣性によってバランスを失調したオブジェがバスケットをふりあげて土くれや花々を撒き散らす様は狂気のようだった。禁じられているまじないを興味本位で試し、ありえない現象が続々と迫ってくるような恐怖に彼女は襲われていた。最後のバスケットが高々とふりあげられた瞬間、走りだしたいのをこらえて、しかし意識は困惑したままに彼女は歩きだした。
フードコートに迷いこみ、そこの喧騒にたえがたく、いくあてもなく人波を縫っていくと、細い通路が目に留まり、すぐにその隙間に身をねじりこんだ。飛びこんだ通路の右手には手洗いがあった。そして左手には薄暗い階段があった。彼女は瞬時に階段をおりることを選択した。
買い物客のおおくは、メインストリートにあるエスカレーターやエレベーターを使う。通路をはいりこんだところにあるちいさな階段でわざわざ移動するものは皆無だった。彼女はひとり階段を駆けおりた。三階から二階へおり、さらに一階へおりかかるが、その途中で彼女の足は空を切った。手摺に抱きついて転落は免れたが、段に足や腰を打ちつけ、かたちをもたない鈍い痛みがからだじゅうを刺激した。
彼女は段にしゃがみこんだまま、痛みが引いていくのを待った。頭は思考を邪魔するなにかでこんがらがっていた。痛む膝をかかえて、なにを探すでもなく視線をあちこちへむけた。ふと彼女の目は踊り場の壁面に設置された照明に留まった。
彼女は必死になにかをおもいだそうとした。ふたたび視線をめぐらして、自分がいまいる場所を確認した。そして唐突によみがえる記憶の断片が過去の居場所をしめした。彼女は、記憶のしめした場所へむかうためにたちあがった。
一階へ至り、細い通路を抜けると、目のまえにシュークリーム専門店があらわれた。ショッピングモールの正面玄関といえる中央出入り口の近くにある店舗で、モールを訪れる人と帰る人とでもっとも混雑する通路に面していた。いたるところで交わされる言葉のなかに、彼女の耳が否応なくとらえた会話があった。
――さっきのなんだったんだろうね?
――やばくない。怪我人でなかったからよかったけれど、あんな不安定なやつ飾るとか、ギョームジョーカシツチシだよね?
――いや、だれも死んでねーし。
ベビーカーをおす若い母親たちが、彼女のまえを通過して、駐車場へつづく出入り口へむかっていく。彼女は母親たちを目で追ってから、そちらへ足をむけた。しかし、意識が逆側に引っぱられた。抗う意識も起こらないまま、メインストリートのほうへ、彼女はいちど目をむけた。
行き交う人々のなかに、携帯電話を耳もとにあてたまま、呆然として立ち尽くすブレザーの男がいた。彼の口はあともえともいいそうな中途半端さにひらき、まばたきを忘れた目は彼女を凝視している。
電話口から聞こえてくる角野潤の言葉が意識から間遠になった佐伯弘貢は、ただただ無意味な相槌をうっていた。目にとらえた人物の存在が、よろこびとも不安ともおそれともわからない感情を生んで彼のなかから言葉を奪っていた。
角野潤は麻倉名美と合流したことを伝えてきた。そしてオブジェを壊した人物と、彼女がむかうさきについても伝えてきていた。なぜそうおもうのかという佐伯弘貢の問いには、彼女は小学生のころそこに住んでいたからだという答えが返ってきた。
「わかった? 暮木はきっと団地へむかう。あいつにほかにいくあてなんてないわ。私もナミとすぐにむかうから――聞いてないでしょ」
「いた」
角野潤のいぶかしげな声には応じず、佐伯弘貢は一方的に通話を終えた。途端に、ようやく見つけた彼女は出入り口へむかって駆けだした。佐伯弘貢もすぐに走りだすが、人混みにはばまれなんども左右に避けたり立ち止まったりしなければならなかった。表へでたときには彼女の姿を見失っていた。だが迷うことはなかった。駐車場を横切る歩道に沿っていけば、県道と合流するT字路にでる。T字路をわたるとバス停がある。そのすぐ近くに団地へつづく畦道もある。
T字路では歩行者用の信号が青に点灯していた。横断歩道をわたる人影が、停車する車の前照灯にうかびあがっている。ひとりだけ、走って横断歩道をわたる影があった。
「ミゾ!」と佐伯弘貢は叫んでいた。広い駐車場のなかほどから、はたしてその声がとどいたのかはわからない。しかし人影は走るのをやめてふり返った。
歩行者用の信号が点滅をはじめる。佐伯弘貢は繰り返し彼女を呼んだ。そうすればわたりかけている横断歩道を引き返してきてくれると願っていた。
不意に横手からつよい光で照らされると、同時にけたたましいクラクションが佐伯弘貢の耳朶を打った。顔をむけるとヘッドライトがすぐそばに迫っていた。立ち止まろうとするからだと、そのまま駆け抜けようとする意識とが衝突した。佐伯弘貢はバランスを崩し、前転するように倒れこんだ。
全身をくまなくうったように感じたが、痛みはまったく感じなかった。倒れたままふり返ると、黒い車がさきほどまで彼のいた場所に停まっていた。すぐに乱暴なエンジン音をたてながら動きだすと、むやみにスピードをだして駐車場を横切り、T字路ですすめの信号を左折していった。
T字路の横断歩道にはもう、ふり返る人の影はなくなっていた。




