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声は聞こえていた。しかし明瞭としない断片的で雑然とした声が反響している。群衆のたてる音だが、垂れ流される雑音は対話を拒絶する意思そのものに感じられ、電話のむこうにいるはずの暮木ミゾノはいつだってそれらの音もろともきえてしまえる覚悟をもっているようでもあった。
ミゾ。
言葉にできる感情のいずれもが、彼女をこの場にとどめておく力をもちえないとおもった。たったふたつの音を口にすることだけがすべてであり限界だった。
注意をうながすかろやかな電子音が無遠慮に吹き抜けだらけでどこも隔離されないいびつな空間に反響する。一拍の間があってから受話口のかなたから雑音にまぎれて輪唱される音に、無個性なしかしたしかにひとりの固有性をもつはずの女性の声もかさなりあって両の耳朶をふるわせた。
ミゾ。
来館者へむけられたメッセージは終わり、やはり無遠慮でかろやかな電子音が両耳にずれてとどく。その余韻に指さきをこすりあわせたていどの微音で息遣いが聞こえた。走りだすまえに吸いこむ息みたいだった。佐伯弘貢は覚悟した。ふたりのつながりを絶つ言葉がつかれ、修復しようのない痛みを感じるのにそなえた。
しかし無言はやぶられなかった。腐乱して表皮のはがれた果肉みたいにやわらかくもろい沈黙だった。佐伯弘貢はその表面にふれることができなかった。ふれれば溶けるか破裂して腐臭と腐肉にまみれるにきまっていた。それでも揮発性の感情を触発しない言葉をさがした。おもいうかんでは否定される言葉たちのはてに残ったのは、やはりたった二音の彼女の名だけだった。
沈黙がやぶられた。もうむりだとかすれた声が聞こえてきた。ゆるされないときえかかる声はつづける。その声は間違いなく暮木ミゾノのものだった。
破裂した沈黙の中心に本性がしずかに残ってうめいていた。彼女はそこにふれたのだ。だれだって発狂せずにはいられないみずからの本性と接して、伝えずにはいられないおもいが生まれた。ただ、なにを伝えたいのかは、暮木ミゾノ本人ですら理解できてはいないようだった。佐伯弘貢を困惑させ、理解さえ拒絶する言葉が、しかし発露せずにはいられないはげしい衝動につきうごかされて口にされていた。
「ミゾ」
佐伯弘貢にかけられる言葉などそれ以外になかった。
断線したようにふたたび沈黙がおりた。受話口を耳におしあてて待っていると、鉄塊同士がこすれあったような怪音が背後から降りかかってきた。つづいて空間を引き裂いたような轟音が耳もとでして、佐伯弘貢は携帯電話を遠のけた。
ショッピングモールの喧騒に異変が生じた。人々は天井を見上げ、一部は恐慌を目に宿して逃げ惑いはじめた。
吹き抜けの空中を光が落ちていった。水面みたく黒く白く明滅するひとひらの点がまばたきをためらううつくしい速度で人混みのなかへ落ち、心のふちをひっかく乾いた音がたかく響いた。
フロアの人だかりは円形に空間を空けた。円のふちにまっぷたつにわれた携帯電話が転がっていた。コードがむきだしになり、ディスプレイはひび入っている。ひろいあげると部品だったものたちがこぼれおちていく。不通を知らせる音を、佐伯弘貢の手のなかで彼の携帯電話は鳴らしつづけていた。
ぎりぎりとうねる音は頭上からやまない。フロアの床におちた影が刻々とうつろう。名も知らない花がばさりと佐伯弘貢の足さきに落ちてきた。
吹き抜けに吊るされた樹形図のようなオブジェが、のたうつ人影みたいにバスケットをゆらしていた。上下左右にふられたバスケットからはらはらと花びらが剥がれ落ちていく。群衆のなかからスマートフォンをもつ手がいくつもさしのべられて、花びら降る様を私的に記録しようとした。
一個のバスケットがひっくり返り、敷きつめられていた土もろとも花をふるい落とした。悲鳴とも歓声とも聞き分けのつかないどよめきが起こった。均衡のくずれたオブジェはさらにうねり、群衆の発する緊迫にあわせるのを拒むような緩慢さで上下すると、次からつぎへとバスケットの中身をフロアへまきちらした。花火の燃えかすみたいにぱらぱらと土と小石が降り、幾何学模様の描かれたフロアに黒々としてぐちゃぐちゃな模様を上塗りする。人々はおびえながらスマートフォンかかげつづけた。
鉄棒と鎖とがぶつかりあいながらからまっていく。破れたクモの巣にひっかかる枯れ葉みたくバスケットもまとわりついた。
がちゃがちゃと乱れるオブジェの奥、三階の柵ぎわに携帯電話を片手にもちながら身じろぎもしない角野潤がいた。見ひらかれた瞳はオブジェを見ているようでも、そのさきにいる佐伯弘貢を見ているようでもあった。しかし実際はなにも見てはいなかった。もちろん角野潤は突如ふれだしたオブジェの初動から一部始終を目のあたりにしていた。だが彼女の意思はいっさい情報の処理をなそうと働かなかった。
角野潤はいちど目をつむり深く息を吐いて吸った。ゆっくり目を開けると、遠巻きに吹き抜けの周囲へ蝟集する人々の軽薄に戸惑う無表情が飛びこんできた。形状の破綻したオブジェと階下とのどちらかが注目されるなか、角野潤にむけられている眼がひとり分ある。オブジェを宙に挟んだむかいにいるのは悲壮な表情をうかべる麻倉名美だった。




