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 佐伯弘貢は自転車のふたり乗りをしたことがなかった。だから乗りながら慣れるしかなかった。さいわい学校からショッピングモールへいく道は住宅街や田畑の広がる一帯を抜けていくので、自動車の交通量がおおいわけではなかったし、一〇分も乗って麻倉名美の家のある通りにさしかかるころには慣れてきていた。

 麻倉家のまえをとおったとき、彼女の部屋の窓が見え、カーテンが開けられているのが確認できた。やはり窓辺にはちいさな花瓶にオレンジ色の花が活けられていた。

「あれって、なんの花?」

「あれ?」

 すこし間があってから角野潤はああ、あれねと呟くとヒメユリだと答えた。

「窓辺のはドライフラワーなんだけれどね。ナミの家の庭に初夏のころ咲くの」話を聞くうちに麻倉名美の家のまえをすぎる。角野潤はため息をついて続けた。「ナミが言うには、私はヒメユリに似ているそうよ」

「どんなところが似ているって?」

「ヒメユリって花びらのおおきさの割に、茎って細長くて華奢でしょ。いつも冷静でしっかり者に見えるけれど、ちゃんと中身は意地っ張りだったり不安だったりする普通の女の子なんだよねっていうことみたい」

 角野潤がその評を気に入っているのかどうか口ぶりからは判断できなかった。

「でもそう言うなら、ヒメユリはナミのほうが似合うとおもうの」

「どんなところが?」

「華奢に見えて立派な花を咲かす。気がちいさくて遠慮しいに見えるけれど、あの子にはしっかりとした芯がある。信念があって、実は心のつよい子なの」

 同じものをどう見るのかの違いなのだろう。ルビンの壺みたいなもので、どちらで見るのが正しいとかではない。角野潤には華麗がつよく、麻倉名美には華奢がつよく見えるのかもしれない。

 道路にできたくぼんだ割れ目を避ける。ゆられて、佐伯弘貢の腹部のシャツをつかむ角野潤の右手に力がこもる。背中に添えている左手もおしつけるように力がこめられた。

 ぐっと角野潤が身を寄せた。佐伯弘貢は、また角野潤が麻倉名美に連絡をとろうとしているのだと判断した。なんどか麻倉名美の携帯電話に彼女は電話をかけていた。だがいちどもつながっていない。暮木ミゾノの携帯電話にしても同じだった。佐伯弘貢がいちど試し、電源が切られているとわかってからは運転に集中している。

 電話をかけるために片手でバランスをとらなければならないから、角野潤は佐伯弘貢の背に肩をつけて、より身体を安定させなければならなかった。そのための動作だと佐伯弘貢はおもった。

 だが推測は外れ、ふいに耳もとに囁きかけられた。

「きみは私の別称を知っている?」

 佐伯弘貢はおしだまって道の先を見やった。しばらく続いていた住宅街が終わり、稲刈りを月頭に終え、今では秋起しもすんで黒々としている田が延々と広がる。左手の一面分はなれたところがスギ林になっていて、道と並行してずっと続いている。

「深窓の令嬢のこと?」

「意味も知っているでしょう」

「噂ぐらいは」

 どんな噂話と聞かれ、角野潤は小学生のとき不登校児童だったことがあるという噂だと答えた。

 あまり気持ちの良くない噂だった。

 深窓の令嬢という言葉を聞いたとき、古風で慎ましく気品ある呼び名だと佐伯弘貢はおもった。だが呼び手のおおくは言葉の意味と印象とを脱臼させた。「深窓」の意味は引きこもりだったし、角野潤は良家の子女でもない。お嬢様でもない角野潤がわがままを言って学校へこない――それを彼女のクラスメイトたちは揶揄したのだという。

「私が不登校だった時期があったのは事実よ。ズル休みをしていたと言われて反論はできないし、ズルにたいして腹をたてるのは正常よね。だから別称は受け入れてる」

 不本意であることは口ぶりから容易にうかがい知れた。

「キャッチ―ではないよね」

「広まらなさそうなのに広がっていったところに、広げていった人たちのつよい意志を感じるわ」

 シンソーのレイジョーって語呂はわるくないけれどとおもったが、佐伯弘貢は話がそれるだけだと自重した。

「噂、だれから聞いたの」と角野潤は問うた。彼女はだれから聞いたのかわかっていて聞くのだと、佐伯弘貢には確信できた。

「ミゾから聞いたよ」と白状する。すぐさま「角野さんはミゾがその話をしているのを聞いていたんでしょう?」と問い返した。

「そのとおりよ。あの日、きみにボディーガードを依頼した日の放課後、暮木さんは私の別称の謂れをきみたちに話していたのよね。それを聞いてきみは怒ってた。よく知りもしない人の内面を憶測で批判するのはみっともない、だったかしら?」

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