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 手洗いにいくという麻倉名美に、佐伯弘貢は近くまでついていくと提案していた。だが、そばだから平気だという麻倉名美の言ももっともだったのでやめた。彼女が部屋をでてから五分ほどしたときに角野潤からメールがきた。麻倉名美との対話はどうだったかというもので、彼女の言うことを信じ、きみの考えに協力すると返事をだした。すぐに今どこにいるのかと返事があり、麻倉名美とともに図書準備室で奥村司書教諭に会っていると返す。そしてふと、いまだ戻らない麻倉名美のことを不思議におもう。

 今からむかうと返事を受け、文面を眺めながら、麻倉名美が戻ってこないことを話題にした。奥村司書教諭は作業台にのっている新刊本を手にとり、挟まっている売上スリップや折り込みチラシを外してブッカーをかけられるよう準備していた。作業を中断して壁にかかっている時計を見あげると、たしかにすこし遅いねとつぶやく。

 作業台の上に麻倉名美のカバンと紙袋と、それから飲みかけのマグカップがある。もはや残されているものと見えはじめ、そう認識した途端、佐伯弘貢は自分がおおきな過ちを犯してしまったのではないかという恐れに見舞われた。

 通路につながるドアがノックされる。奥村司書教諭がどうぞと声をかけると角野潤が入室してくる。はいってきてすぐ角野潤は麻倉名美の不在を指摘した。佐伯弘貢が手洗いにいったと答えると、来るまえトイレに寄ったがだれもいなかったと彼女は言う。

 携帯電話が着信を告げる。佐伯弘貢は手にしたままのそれへと目を落とす。ディスプレイには綾瀬一美の名が表示されていた。

 おもいも寄らない人物から、おもいも寄らないタイミングでかかってきた電話に、佐伯弘貢はすぐに出ることができなかった。ほとんど事故のようだった。予期しない出来事の連続だった。綾瀬一美から電話がかかってきた理由を、なぜか推測しようとしていた。

 出ないのかいと奥村司書教諭に言われ、図書準備室を退室しながら通話ボタンをおした。

「さっさと出ろ、馬鹿者」

 辛辣な綾瀬一美の第一声は、しかし苛立ちよりももっと深刻な彼女の感情を佐伯弘貢に伝えた。

「なにかあったんですか?」

「暮木ミゾノだ。あいつと麻倉名美がいっしょにいた」

 綾瀬一美の声量はおおきく、ともに廊下にでていた角野潤の目が見開かれた。佐伯弘貢も同じものだった。

「くわしく教えてください」

「ついさっきだ。学校そばのバス停あるだろう。あそこからふたりが下りのバスに乗っていた。きみは今日、麻倉と会うんじゃなかったのか? なぜ暮木がいっしょにいる? いったいきみはなにをしていたんだ!」

 ぐっと携帯電話をもつ手を引かれた。角野潤が佐伯弘貢から携帯電話をもぎとって話しはじめた。突然話者がかわったことにおどろいたのか、綾瀬一美の声は漏れ聞こえない平常の声量になった。

 角野潤は名乗り、ふたりを目撃したときのくわしい状況を聞き、もう一度バスのむかったさきについても尋ねた。最後に礼を述べて通話を終えた。

「佐伯くん。お願いがあるの」角野潤は携帯電話を返しながら言った。「自転車を貸して。ふたりを追いかける」

 角野潤は覚悟を決めた顔をしている。極限でなければ踏み切れない類いの覚悟をしたときの、自棄っぱちで他をかえりみない――かえりみてしまうと覚悟できなくなってしまうことがわかっている、不安でしかたないおびえた目をしていた。

「ふたりがむかったさきに、あてがあるの?」

「むしろきみのほうがわかりそうね」

「でも目星はついているんだろう?」

 じっと角野潤に目を覗きこまれる。慣れることがない。だが逸らすこともできない。いつだって角野潤は眼差しになにか突きつけるような意味をこめてくる。佐伯弘貢はおもいついている場所を述べた。

「ええ、きっとそこね」

 彼女の推測は佐伯弘貢と一致した。

「じゃあ、いっしょにいこう」

 佐伯弘貢は図書準備室へ戻って自分と麻倉名美の荷物とをとると、奥村司書教諭に礼を言って別れを告げた。

「なにかあったのかい?」

 部屋をでかけに奥村司書教諭に問われ、協力を仰ぐべきなのではないかと佐伯弘貢は逡巡した。だが、そうするべきではないとも感じていた。自分たちの問題だった。たいしたことではないですと言って、佐伯弘貢は図書準備室を辞した。

 駐輪場へ急いでむかうと、ひと足さきにきていた角野潤が携帯電話を耳におしつけていた。だがすぐに耳もとからはなし、打撃音が聞こえそうなほど乱暴に通話停止ボタンをおした。

 佐伯弘貢は前かごに自分と麻倉名美のカバンを放りこんでサドルにまたがる。角野潤は横座りで荷台に乗った。三〇分ぐらいかしら? と角野潤はショッピングモールまでにかかるであろう時間を口にし、佐伯弘貢は肯定してペダルを踏みこんだ。

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