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 笑顔が見られたことで佐伯弘貢は安堵した。同時に麻倉名美にとって角野潤がどれほど大切な人物であるのかもうかがい知れた。それは双方がたがいをあたりまえに信用していなければ生じない信頼だった。

 麻倉名美は角野潤がどれほどすばらしい人物であるかを話した。彼女の語りにはふしぎと謹聴をうながす性質があるようだった。気まぐれにたたかれたピアノの音色みたいにぽつんぽつんと鳴るのが心地よく、次の音からなにか特別な意味をもった旋律が奏でられるのではないかという期待をもたせた。

 彼女は角野潤を誠実だという。思慮深く情に篤い。我慢強くて安易に他人を非難せず、彼女がだれかを傷つけようとするところなんて見たことがない。角野潤は麻倉名美にとって絶対的な善良さを体現するもののようだった。

 佐伯弘貢は答えを探していた疑問に直面する。はたして化学室で角野潤は暮木ミゾノに危害を加えようとしたのかという疑問。割れたビーカーは暴力の象徴みたいに床に散らばっていたし、へたりこむ暮木ミゾノの姿には捨てられたネコみたいな理不尽さをおぼえた。だが、麻倉名美の話を聞けば、あの状況は不自然そのものにしかおもえないという先だっての不可解さを補強した。

 麻倉名美は言った。

「佐伯くんは、暮木さんのことで、聞きたいこと、あるんだよね?」

 旋律が鳴りはじめたのだと佐伯弘貢にはわかった。

 角野潤がどれほどのことを麻倉名美に伝えているのかはわからない。だがたとえ不登校になった原因について、ほぼ初対面ともいえる人間に話すことが、学校への復帰に繋がるかもしれないと言われていたとしても、話そうと決断するには大変な勇気が要っただろう。

 信じたくないとおもうけれど、とはじまった麻倉名美の話を佐伯弘貢は粛然と聞いた。途中いくつかの質問をしながら、保健室には穏やかともいえる時間がすぎていく。それは同時にたがいに傷を負う時間でもあった。

 受けたいやがらせを口にするたび、麻倉名美の声のふるえは目立つようになり、彼女の語りはいっそうゆっくりとして切実さをましていく。

 否定のしようもない当人の証言が、聞き及んできた事々が正確であることをはっきりとさせるたび、佐伯弘貢は積みかさなる重みを諦念とともに受け入れていかざるをえなかった。

「タイヤを、パンクさせられたり、教科書が、泥水で汚されたりもした。ロッカーを、墨汁まみれにされたときは、さすがにもう限界だっておもった。でも、クラスメイトの子が、声をかけてくれて、それでもうすこしだけがんばれた。がんばって、がんばらないほうがいいんだってわかった」

 三月にはいり、あとは終業式をはじめとした学期末に連なる行事を残すだけとなったところで、麻倉名美は学校へいくことをやめた。

「私が学校へいかなければ、変な話だけれど、苦しむ人間が、私を含めて、ふたり減るの」

 話を聞くほどに、佐伯弘貢は角野潤がなにを考えているのかがわかっていった。角野潤がほんとうに為そうとしていること。それは麻倉名美が学校へ戻ってくることだ。そしてそのためには、しなければならないことがある。暮木ミゾノの話を聞くほどに、その重要度は骨身にこたえて理解された。

「登校しないと決めたのは、いやがらせを避けるためだけではなかったんだね」と佐伯弘貢は言う。麻倉名美はじっと目を見つめ、こくりとうなずいた。いったいどれほどの覚悟を目のまえの少女は決めてきたのだろうかと、佐伯弘貢は胸がおしつぶされた。「もうひとり、傷つかなくなるのは、暮木なんだね」

 こくりと麻倉名美はうなずく。

「暮木さんの問題に、気がついたのは、潤ちゃん、なんだけれどね」

「角野さんはなんて?」

「暮木さんは、だれか気にくわない人がいれば、いやがらせをしてしまう本性がある。そんな自分を、自分がいちばんきらってる。それこそ、知らず識らず泣いちゃう、くらいに。人のものを、盗んで、隠してるのに、泣いちゃうんだ。佐伯くんは、見たことない? 暮木さんが、理由もはっきりしないで、泣いてるのを?」

 衝動的に人を傷つけずにはいられず、そうすることで自身も苦しんでいる暮木ミゾノを放っておくわけにはいかない。麻倉名美が学校へ戻ってくるには、暮木ミゾノのかかえている問題を解決しなければならない。

 角野潤はきっと、そう判断したに違いなかった。

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