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 麻倉名美もまた、佐伯弘貢にとって名まえを知らない同級生のひとりだった。しかしいちどだけ言葉をかわしたことがある人物でもあった。

 麻倉名美はうなずいたぎり、視線をあわせずにただただおしだまっていた。

「僕は佐伯弘貢。初めましてではないよね。まえにいちど話したことがあるとおもうのだけれど?」

 生徒用の回転椅子が彼女のそばにあり、佐伯弘貢は座ってもいいかと確認する。麻倉名美はこくりとうなずくがやはり目をあわせようとはしないし、返事をすることもない。佐伯弘貢も無言で椅子に座った。

 保健室は校舎でもっともひと気のない一角にある。生徒たちの話し声があるかなきかに聞こえてくる。それさえなければ校内に残っているのは麻倉名美と自分のふたりだけなのではないかと佐伯弘貢はおもった。

「角野さんから僕のことは聞いています?」

 問いかけに対して麻倉名美は首をちいさく縦にふる。どういうふうに聞いているのかと重ねて問うと、困ったように視線を宙にさまよわせてから、ささやき声をこぼした。

「なぁに?」

 聞き返すと麻倉名美は目を佐伯弘貢へむけ、一秒にも満たないあいだ目と目をあわせた。たちまち逸らされた顔はみるみる紅潮しはじめ、よほど人見知りをする人なのだろうと佐伯弘貢は理解した。とても暮木ミゾノのことを言及できそうになく、話題をかえることにした。

「自転車がパンクしたときのことをおぼえてる?」

 もういちど佐伯弘貢は同じ話をもちだした。共通の話題などほとんどなく、言葉をかわしたその出来事がゆいいつふたりの微弱なつながりだった。

 佐伯弘貢はパンクした自転車をまえに往生していた女子生徒に、修理を出張しておこなってくれる自転車屋の電話番号を教えたことがある。その女子生徒が麻倉名美だった。去年の秋のことだった。

 もちろんそのときの女子生徒と麻倉名美の名が結びついたのは今さっきのことだった。

 暮木ミゾノと初めて言葉をかわしたのは、そういえばそのすこしまえのことだったなと佐伯弘貢はおもいいたった。

 麻倉名美は赤みがかった顔をもういちど佐伯弘貢へむけ、「ありがとう」とつぶやくように言って頭をさげた。礼を言わせるために話題をだしたわけではなかったため佐伯弘貢は苦笑した。あのあとちゃんとパンクは修理できたのかと聞けばうなずきが返ってくる。それはよかったと言えば、ちらちら麻倉名美は表情をうかがってくる。

 佐伯弘貢は以前自身の自転車もパンクしたことがあり、それに気づかないでタイヤに空気を入れるなんていう徒労をしたことがあると話した。麻倉名美は口もとにかたい笑みをうかべた。

 次に科学部と角野潤の話をすることにした。部員は麻倉名美と角野潤のふたりだけなのかと聞けば彼女はうなずく。角野潤は毎日ミョウバン結晶の世話をしているが、あれはおもしろくてきれいなものだと言えば、麻倉名美はすこし興味をもったように佐伯弘貢の目を見る。化学室の戸棚にしまわれていた拳大の結晶を見させてもらったけれど、あんなにおおきくするには根気が要っただろう。すごいよね。

 麻倉名美は佐伯弘貢の話に耳をかたむけていた。さきほどからずっと目と目をあわせられているため、しだいに佐伯弘貢のほうが気恥ずかしくなってきていることに、まだ麻倉名美は気がついていないようだった。

「そういえば、角野さんが金曜ごとに結晶を写真に撮っていたけれど、あれはもしかして麻倉さんに見せるためだったのかな?」

「うん」と麻倉名美はさきほどまでよりはすこし芯のある声をだした。「結晶作りは、私が最初に初めて、潤ちゃんはそれを引き継いでくれていて。金曜に、結晶の成長したのを見せてくれるのと、ノートをコピーさせてくれるのとで、家にきてくれてるの」

「角野さんはとても友達おもいなんだね」

 うなずき、麻倉名美は頬笑んだ。

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