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角野潤は、麻倉名美を助けるにはまず暮木ミゾノを救わなければならないと言っていた。まるで意味のわからない言葉だと佐伯弘貢はおもい返すにつけ首をひねる。いったいなにから暮木ミゾノを救いだすというのか。
暮木ミゾノが窮地に陥っているとはおもえなかった。ましてや彼女を救うことが麻倉名美を助けることになる理屈なんて見当のつけようもなかった。
しかしながら暮木ミゾノがファストフード店で見せた涙が気になった。涙がでるには理由がある。なにものにも影響されない涙なんてない。悲しみをいだいているのかもしれないし、嬉しさがこみあげているのかもしれない。はたまたドライアイのせいなのかもしれないし、時季違いの花粉症なのかもしれない。
泣き顔は彼女と出会ったころの挙動不審さをおもいださせた。人まえに陽気でありながらひとりいるとき懊悩しているように見えた同級生。彼女と初めて言葉をかわしたときも不審ではあった。日付すら憶えていないぐらいなんてことない秋の日だった。校内に植えられたサクラにしげっていた葉もしなび、雨が降るたびアスファルトにグジョグジョ転落していた。
放課後のことで、暮木ミゾノは駐輪場で一台の自転車のそばに背をむけてしゃがみこんでいた。知りあいの生徒ではないと判断して注意はなくなり、佐伯弘貢は自分の自転車の鍵を解除した。その音に彼女はふり返って佐伯弘貢のことを見、目と目があった。すぐに目を逸らそうとしたら、自転車の空気がすくない気がするのと彼女は言った。事務室にいって空気入れを借りてこようかと佐伯弘貢は返した。暮木ミゾノは手をふって平気だと示し、へへへと笑うと事務室とは真逆のほうへ去っていった。変な女子生徒がいるという印象が佐伯弘貢には残った。
年の明けたころから放課後の下駄箱で顔をあわせることがふえ、佐伯弘貢は彼女を大勢いる生徒のなかから判別し、ひとりの人間として認識するようになった。間もなく放課後に会えば分かれ道までいっしょに自転車で帰るようになった。二年生で同じクラスになり、付き合いはじめたらいつもいっしょに教室をでた。
「さあ、帰ろうよ」
初日最後の英語のテストがすみ、クラス中が弛緩した朗らかな活気に満ちていくなか、暮木ミゾノが佐伯弘貢の席に手をついて言う。紺色のショルダーバックがズレ落ちるのをなおしてはにかむ彼女に、佐伯弘貢はいっしょに帰れないとかすれ気味の声で言った。
「このあいだの調べもの? テスト期間だよ?」
口もとの微笑を維持しようとしながらも、暮木ミゾノの瞼はもちあがり、視線はせわしく佐伯弘貢の髪先から指先までをなめた。佐伯弘貢は、明日はいっしょに帰ろうとすぐに約束した。明日はミゾの誕生日だから、喫茶店に寄ってケーキを食べよう。
「ぜったいだよ」と暮木ミゾノは念をおす。佐伯弘貢はうなずく。
教室をでて保健室へむかう。もちろんひとりだった。角野潤は佐伯弘貢にも暮木ミゾノにも興味がないというふうに、テストがすべて終わるとすぐに教室をでていた。
騒々しい生徒たちも昇降口をすぎればいっぺんにいなくなってしまう。特別教室棟の奥、いつだって明かりの乏しい通路をはいっていくとすぐに保健室がある。
扉のまえにたつと心臓がはっきりと鼓動する。軽く握った右手の関節でノックし、看護教諭の応答する声を待つが返事はない。もういちどノックしやはり反応がないとみて扉を開けた。
はいって右手に窓があり、そこから連日の曇り空の下で湿りぎみのグラウンドが望める。窓の手前には腰高のロッカーがあり、そのうえに学生カバンがひとつおかれている。室内は教室の半分ほどの広さで、はいった正面の壁際にカーテンで仕切られた寝台が三つならんでいる。
左手奥に机があり、教諭用の回転椅子に女子生徒が座っていた。机をむいていたのを、半身だけむけるように回転させる。両手を膝の上におき、すこし背をまるめている。黒髪で切りっぱなしのくせ毛に福耳がちょこっと飛びだし、色素の薄い唇はきつく結ばれている。佐伯弘貢へむけられた目は一重の奥にゆれていた。
「麻倉名美さんですか?」
女子生徒は背をのばして椅子をちゃんと対面するようにまわすと、むけていた視線を床へ落とし、会釈というにも微かなほどちいさくうなずいた。




