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すこしだけ話がしたいという角野潤の要望に応えて、佐伯弘貢は彼女がバスに乗るために駅へむかうのを送っていくことにした。
「付き合わせてしまってわるいわね。でも、どうしても話しておきたかったから」
気にすることはないと佐伯弘貢は言う。ちょうど僕も角野さんと会って話しておいたほうがいいような気がしていたんだ。
頻繁に駅のほうからやってくる人たちとすれ違った。家々には明かりが灯り、魚を焼く匂いやカレーの香りが不意に鼻腔をくすぐる。南の空に瞬かずに光る惑星が三つ見え、吐く息がかすかに白くなった。
「最近調子はどう?」
「さいわいボディーガードに頼るような危険なめには遭っていないわ」
嫌味や皮肉なのだろうかと佐伯弘貢は挨拶に困った。角野潤はきみのほうはどう? と尋ね返す。わるくないよと答えながら、自分がなにを角野潤に聞きたいのかを整理しようとした。まず聞きたいのは身辺でおかしなことは起こっていないかということだった。綾瀬一美の言うことを信じるならば、角野潤は学校内で不愉快なめに遭っているはずだった。
「今朝私のロッカーが墨汁まみれになっていたでしょう」唐突に角野潤はそんな話題をだす。「あれはだれかの仕業たとおもうの」
「キャップの締め忘れではなくて?」
「締め忘れたとしても墨汁の容器を横においたりしないわ」
「だれがそんなひどいことをしたのかな?」
角野潤は佐伯弘貢の顔を覗きこんだ。おもわず佐伯弘貢は歩くのをやめて、どうしたの? と問う。遅れてたちどまった角野潤は佐伯弘貢の正面にまわりこむような位置から、かわらず彼のことを見続ける。もういちどどうしたのか問えば、角野潤は目をあわせたまま自転車の前かごを両手でつかんで軽く左右にふった。ハンドルを握る佐伯弘貢の手もともあわせてふれた。
「だれだとおもう?」
角野潤は言って視線を手もとに落とした。たらい船を漕ぐようにゆっくり左右にかごをゆらし続ける。答えを聞くまでやめそうにない。
「おもいつかないや」と逃げることはできそうになかった。
角野潤はだれの仕業なのかわかっているような気がした。そして佐伯弘貢も同じ人物を想起していることさえわかっている気配すらある。すべて承知したうえで、佐伯弘貢の口から名まえがでてくるのを待っているようだった。
「べつにね、その人のことが憎いとかではないのよ」
角野潤は言う。
「むしろ私はね、その人がすこしでもはやく救われればいいのにっておもってる」
「どういうこと?」
「きみはいけない子だ」
角野潤はかごをゆらすのをやめた。佐伯弘貢のことを微苦笑で見つめる。
佐伯弘貢は息をひとつゆっくり吐く。あまりにも不誠実だと暗にたしなめられ、さすがにこれ以上逃れるべきではないと悟った。
「角野さんが救いたいのは、麻倉名美であってミゾのことではないのでしょう?」
「どちらもよ。正確にいえばナミを助けるにはまず暮木さんを救わなければならないの」




