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「あっ」
と鋭い声をあげて暮木ミゾノが倒れかけた。佐伯弘貢は手と肩とをとっさにつかんで彼女の転倒を防いだ。ありがとうねと頬笑み、なににつまづいたんだろうとふり返るが暗くてよくわからない。
ファストフード店をでたふたりはまっすぐに帰路をとった。たがいに自転車だったがおして歩いた。歩きながら暮木ミゾノは定期テストへの意気込みであったり、テスト後にみんなでどこへいこうかという希望だったりを話した。佐伯弘貢はむだに相槌を打つことも無関心だとおもわせることもないしずけさで耳をかたむけていた。
いつもの分かれ道につくと、佐伯弘貢はなにも言わずに暮木ミゾノの家のほうへとすすんでいった。暮木ミゾノも無言だった。かわりに肘を佐伯弘貢の腕におしつけた。
「痛い」
「へへへ」
話したいことはすべて話したような満足感がふたりのあいだにはあった。その心地いい沈黙をくずしてまで会話を続ける必要を両者とも感じなかった。
暮木ミゾノの住む家は一〇階建てのマンションの一戸だった。エントランスへはいるにはオートロックを住人に解除してもらわなければならないが、もちろん暮木ミゾノは自由に出入りすることができる。エントランスの壁の一面はガラス張りになっていて、照明の金ともオレンジともいえない煌々とした明かりが道路まで照らしだしている。自動ドアを抜けて広々とした空間を抜けていくと、外からは見えない場所にエレベーターがある。六階をおして数秒待てば、暮木ミゾノは間もなく家に辿り着くだろう。
通路の手すりから顔をだした暮木ミゾノに手をふる。彼女がふり返すのを見てから佐伯弘貢は自転車にまたがって来た道を戻った。
どうしても綾瀬一美が述べたことと暮木ミゾノとが結びつかなかった。綾瀬一美は信頼のできそうな人物だと佐伯弘貢は判断している。でも彼女の言うことを鵜呑みにすることはできない。しかしそんなのは嘘だと言い切ってしまうこともできなかった。
知り合うまえ、暮木ミゾノのイメージは快活で遠慮のない女子生徒というものだった。ところが佐伯弘貢と知り合ったころの暮木ミゾノは、警戒心をつよめた草食動物みたいに不安や怖れにさいなまれているような気配があった。そのイメージは彼女が友人たちといるときの振る舞いから垣間見えるものでもなかった。佐伯弘貢が暮木ミゾノと会うときにだけ見られる性質だった。
そんな気配は付き合うようになってからはまるで見ることがなかった。佐伯弘貢もそんな彼女を忘れていた。
分かれ道に差しかかった。住宅街にあるT字路で、佐伯弘貢が小学一年生のころから営業している文房具屋が面していた。文房具屋には自販機とベンチもおかれていて、放課後や休日になるとこどもたちが集ってゲームに興じているのをよく見かけた。
佐伯弘貢はとおりかかるまえから自販機の照明に影だけうかびあがらせてベンチに座っている人がいるのを視認していた。こどもたちや文房具屋の主人と世間話をする老人たちぐらいしかベンチに座る人はいないので、日が落ちたあとまで座っているその人物をいぶかしんだが気にかけたのは一瞬だった。
なんの気なしに文房具屋の正面をとおりかかろうとしたときに呼びとめられた。声を聞けばだれであるのかわかって、すぐにブレーキを握りしめた。つっかえるようなブレーキ音が住宅街に咳払いみたく響く。
「なにしてるんですか、角野さん」と佐伯弘貢は声に応えた。
「もちろん、きみに会いにきたの」と角野潤はベンチからたちあがりながら言った。




