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佐伯弘貢は暮木ミゾノが泣いている姿を以前にも見たことがあった。一二月のよどんだ空の下のことだった。雲は寒風がいくら吹きすさびようとも微動だにすることないほど厚くかつ広く、春がくるまでずっと空を覆い続けるのではないかとおもわれるほどに重苦しかった。夜のあいだに降っていた雨は明け方に上がって校内のあちこちに水たまりをつくっていた。
まだ朝練のある生徒ぐらいしか登校してきていないような時間帯だったが、佐伯弘貢にとっては平常通りの登校時間だった。たいていその時間には教室までのあいだで人に会うことはなかったし、教室についてもしばらくは人の気配は遠くにしか感じなかった。だからその日、下駄箱のそばの植えこみの陰から女子生徒が飛びだしてきたときにはおどろかされた。相手も人がとおるとは考えていなかったらしく、佐伯弘貢の存在に気がついて動きをとめた。それが暮木ミゾノだった。まだたがいに名まえも知らなかった。
暮木ミゾノは手袋もしない両手で一冊の教科書をつかんでいた。水たまりに落としたらしいその本は、ページがにじんで砂が表紙のいたるところに付着していた。指先も濡れていて寒さに痛々しかった。
ただそれだけなら不運な同窓生への同情だけだったが、暮木ミゾノはまなじりに涙をためていた。それを佐伯弘貢は見てしまった。
佐伯弘貢はだいじょうぶかと尋ねていた。女子生徒が口ごもって答えないため、間に耐えられずに教科書をダメにしてしまったのかとも続けて問う。それでいっそう彼女は口をかたくなにした。佐伯弘貢はどうすればいいのかわからなかった。暮木ミゾノも同じだった。互いに身動きできないままむかいあっていた。一瞬の間が重なれば重なるほど、佐伯弘貢は目のまえの同級生のためになにかなさなければならない責任が生じてくるように感じられ、彼女を安心させられるものはないかと考えていた。
「それ、ちょっと貸してくれないかな?」とようやく佐伯弘貢は言った。
暮木ミゾノは目を見ひらいた。その瞬間に涙が頬へと落ちていった。慌ててコートの袖で拭ってから、なにか覚悟を決めるように教科書を見、それから佐伯弘貢に手渡した。佐伯弘貢は受けとるとポケットからハンカチをとりだして、まずは暮木ミゾノに手渡して手を拭くようにといった。彼女がぎこちなく手を拭くあいだ、佐伯弘貢は本に付着している砂を手で払いとった。その所作を暮木ミゾノはいっそう困惑した目で見ていた。用をなしたハンカチを受けとってさらに拭く。終えると佐伯弘貢は教科書を返した。教科書を受けとった暮木ミゾノは困ったような顔をしていた。
知りあったころの暮木ミゾノはいくぶん元気がないように見えていた。自覚もないままに涙を流す今の暮木ミゾノはそのころのことをおもいださせた。佐伯弘貢はこれまで気づいていなかったが、暮木ミゾノはだいぶかわってきているようだった。それはおそらくポジティブな変化だった。すくなくとも涙を見ることはなかった。
やばいやばいと笑いながらナプキンで目もとを拭い、乾燥かな、ドライアイかなと繰り返し暮木ミゾノはつぶやく。やんなっちゃうね。なんだろう? あれかな、秋の花粉ってやつかな? ほら、稲とか? アタシもついにきたか。
ナプキンではたりなくなった。佐伯弘貢はポケットからハンカチをとりだして暮木ミゾノの両目のふちを軽く拭った。拭い終えると彼女の涙はようやくとまった。ありがとうと暮木ミゾノは礼を述べ、いっしょに帰ろうと言う。佐伯弘貢はうなずいた。
ふたりは残っていたフライドポテトを食べるとたちあがる。紙ごみとトレーとをかたし、階段をおりていく。店内にはまだまだ喧騒が絶えない。ふたりが座っていたあとの席もすぐに買い物帰りの主婦のグループでうまった。その席から斜めに位置するカウンター席の一角に座っていた角野潤はホットコーヒーを飲み下すと、しばし空っぽになった紙コップの底を覗きこんでいた。コーヒーのこびりつくように甘ったるい臭いが鼻腔をついて眉をしかめる。
暮木ミゾノはやはり厄介だと角野潤は憂う。どうにかしなければならない。なにより彼女自身がその厄介さを制御できていない。
角野潤はため息をつきかけてやめる。かわりに階段のほうをちらっと見て、見知った顔があらわれないのを確認する。それから空の紙コップをもってたちあがった。




