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 麻倉名美は二月の終わり頃に忽然と学校へ来なくなったという。

「それまでは休んだこともなかった。でもクラスで目立つタイプでもなかったからだれも気に留めないまま春休みになったんだ」

「綾瀬さんは麻倉さんと仲が良かったと聞きましたが」

「それはだれの情報だ?」と不審げな綾瀬一美の問いには苦笑を返す。綾瀬一美はまあいいと切り替え、「仲が良かったわけではない。ただすこしのあいだ話す期間があっただけだ」

 田川隆嗣は一年の終わり頃に何回かふたりが話しているのを見たと言った。だとすると話すようになって間もなく、麻倉名美は学校へ来なくなったのだろうか。

 話すようになったきっかけはと綾瀬一美は言う。

「ある朝登校したら、麻倉が自分のロッカーを掃除していたんだ。キャップを閉め忘れたとかで、ロッカー内が墨汁まみれになっていたんだ」

「なんて?」

「墨汁だ。書道で使う墨だよ。麻倉は芸術の選択で書道を選んでいた」

「ロッカー内にこぼれていたんですか?」

 綾瀬一美はうなずく。いちおう書道部だから、墨がどれほど落ちにくいかわかっているからな。ロッカーや床はともかく、制服のまま掃除をしてたらブレザーやシャツの袖を汚すぞって注意したんだ。

「麻倉は最初話しかけられて困っているようだった。あまり親しくない人間と接することがないんだろう。でも、それから日に二、三会話を交わすようになった」

 状況を説明してくれるのを聞きながらも、佐伯弘貢は奇妙な符合の意味にとらわれていた。今朝の教室でも角野潤に同じ出来事があった。はたして墨汁のキャップを閉め忘れてロッカーを汚すなんてことは、そうそう起こるうっかりなのだろうか。

「このあいだショッピングモールでイベントがあったんだ。私も小学生のころ通っていて、今は弟が通っている書道教室が書道パフォーマンスをしたんだ」

 佐伯弘貢はそれなら自分も見たと話した。綾瀬一美は初めて柔和な表情をうかべた。

「大書していた男の子がいただろう。あれが弟だ」

 そのイベントの片づけで教室の子がバケツを落として墨を床にこぼしてしまったことに彼女は触れた。それを見たときに、朝の教室で途方に暮れていた麻倉名美の表情をおもいだしたともいう。

「僕も似たような光景に見覚えがあったよ」

 ふと感じただけのことでたいした意味はないつもりだったが、佐伯弘貢の言葉に綾瀬一美は興味をしめした。さきを促されたが、見覚えがあるだけではっきりいつのどんな光景に似ているとおもったのかはわからないと答える。

「逆に僕は今朝がた似たような光景を見たから、書道パフォーマンスのことを思い出したけれど」

「今朝がた?」

 クラスメイトのロッカーがキャップの閉め忘れで墨汁まみれになっていた出来事を話した。話しはじめからずっと綾瀬一美の表情は険しいものだった。腕を組み、話を聞き終えるとしばしおしだまっていた。佐伯弘貢のどうしたのかという問いにも軽く首をふっただけで、意識しているのはここではなく別のどこかのようだった。

「佐伯くんは2-Eだと言ったな」どこか怒気をふくむおしころした声で綾瀬一美が確認する。「ロッカーが汚れていたという人は、きみの友人か?」

 綾瀬一美の意図が読めないままに佐伯弘貢はうなずきかけ、さきに言い淀んだように自分と角野潤は友人と言える間柄ではないだろうと躊躇する。その人は角野潤といって麻倉名美の友人だと答えた。麻倉名美の名まえがでたことで綾瀬一美の表情はいっそうくもった。

 綾瀬一美はいちど周囲を見まわした。佐伯弘貢も視線をふるが人の影はなかった。視線を戻すと綾瀬一美はなんともいえない――しいて言えば泣きそうな顔をして、よくないとつぶやいた。

「話によればきみは角野さんから麻倉を助ける手伝いをしてくれと言われたんだろう? だがおそらく現状助けが必要なのは麻倉よりも角野さんのほうだ」

 綾瀬一美は佐伯弘貢のネクタイのあたりに人差し指をあてて二度三度と突く。声をすこし潜めて、角野さんと近しいならきみは彼女を守ってあげるべきだと言った。

「角野さんは困っているはずだ。彼女のロッカーを汚したのは十中八九暮木だ。きっとほかにも暮木は角野さんにいやがらせをしているはずだし、これからもいやがらせをする。いいか。暮木に気をつけるんだ。あいつを角野さんに近づけちゃだめだ。でなければ麻倉のように彼女は学校へ来られなくなるぞ」

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