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綾瀬一美は書道部の部長だった。夏に三年生たちが引退してからのことだという。
「立派だね、部長って」
「珍しいものじゃないし、だれもやりたがらないから就いているだけさ」
廊下を歩きながら綾瀬一美はさばさばと話す。歩くたびにボブの髪がゆれる。背は佐伯弘貢よりも高かった。
「スポーツとかしていないの?」と佐伯弘貢は聞く。
「それは身長のことをいっているのか?」と綾瀬一美は鼻で笑う。
「気をわるくしたらごめんね。でも、きっとバレーとかバスケで中心選手になれるだろうなって」
「入学当初にいくつかの運動部と吹奏楽部に誘われたな」
「吹奏楽部?」
「肺活量がありそうだし、楽器の運搬にも重宝しそうだからってね」
綾瀬一美は棟と棟とを結ぶ通路までくると、窓に寄りかかってたちどまった。その窓から右手上方に図書室の通路のある窓が、左手下方に化学室の窓が見えていた。
ところできみはと言いかけて、綾瀬一美は佐伯弘貢のことを見る。右の人差し指を佐伯弘貢の顔へむけくるくるとフリーズしたマウスポインターみたいにまわす。2-Eの佐伯弘貢ですと名乗った。
「佐伯くんは麻倉のことを聞きたいって言ってたけれど、それはどうしてなんだ?」
佐伯弘貢は息をひとつついてから、麻倉名美がなにかのトラブルに巻きこまれていないか知らないかと尋ねた。
「トラブル?」綾瀬一美は声調をかえなかった。「いったいきみは麻倉のことをどれだけ知っているんだい?」
なにも、と佐伯弘貢は答えた。名まえと、あとはおそらく住んでいる場所くらいだ。
「ふつう名まえだけしか知らない人が住んでいる場所なんてわからないとおもうのだけれど?」
「友人が――友人と言っていいのかわからないけれど、ともかくクラスメイトに麻倉さんの友人がいて、機会があって教えてくれたことがあるんだ」
「麻倉のことが知りたいならそのクラスメイトに聞けばいいのでは?」
「僕の彼女とその子がケンカをしてね。それから僕もなんとなくその子に近づきがたいんだ」
綾瀬一美はあきれたようにため息をつく。「それで、どうして麻倉がトラブルに巻きこまれているとおもったんだ?」
「そのクラスの子が、困った状況にある友人――きっと麻倉さんのことだけれど、彼女を助ける手伝いをしてほしいって僕に言ったんだ。でもけっきょくケンカがあってわからないままになってしまった」
角野潤の言っていた友人は麻倉名美なのだろうと薄々おもっていた。金曜日に通っていたアサクラ家はきっと麻倉名美の家に違いない。ついに角野潤がほんとうに頼みたいことを頼めるほど互いを理解することはできなかったが、困っている状況にあるという麻倉名美のことは気になっていた。
暮木ミゾノにビーカーを投げつけたのかと問うたとき角野潤は否定しなかった。ほんとうに彼女が暮木ミゾノに危害を加えようとしたのなら、佐伯弘貢は彼女を許すことなどできない。だから角野潤のことなど存在しないように振る舞い、麻倉名美という見知らぬ同級生のことも忘れてしまってよかった。だがどうにも納得できない点があった。
あの日佐伯弘貢が目撃した状況に、角野潤の存在はどうにもそぐわなかった。暴力的な行為は角野潤らしくない。その直前まで彼女は微動だにせず対面者の暮木ミゾノとむきあっていたように見える。なのに図書室から化学室へ移動しているあいだに彼女は傲岸不遜な人間になっていた。不自然だ。どうしても角野潤の行動は飛躍しているようにおもえてならない。佐伯弘貢はそんな疑問をもっている。
「そういうことなら」綾瀬一美は佐伯弘貢のことを注視しながら話しだす。「麻倉は一年の終わりから学校に来ていないよ。今年もクラスは同じだけれど、教室で見たことはない」




