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トイレから教室に戻ると、角野潤は自身のロッカーのそばにしゃがみこんでいた。ちょうど佐伯弘貢の席から真横に見たところに位置していた。
角野潤の背の影から、ロッカーのなかがちらっと見えた。なぜか真っ黒に染まっていた。おかしいとおもって視線をとめると、ロッカーの戸の隙間から床にかけても黒く染まっている。床にはロッカー内に入れていたとおもわれる彼女のジャージ入れの袋や辞書なんかがおかれていて、どれも黒く汚れている。
「おい、どうしたんだよ。それ墨汁? だいじょうぶか?」
田川隆嗣が異変に気づいて言うと、机を縫って角野潤に近づいていった。佐伯弘貢も近づく。角野潤は顔をあげてふたりのことを見、昨日の書道の授業のあと、ちゃんと墨汁のキャップを閉めなかったみたいだと言う。角野潤の一定のセンテンスをふくんだ声を聞いたのは一週間ぶりのことだった。彼女は朝の点呼に応える以外に声をださなかったし、授業中に回答を求められたこともなかった。
ロッカー内に広がった墨汁はすでに乾いていた。田川隆嗣は教卓の棚に雑巾があったはずだといって確認にいき、見つけるとそのまま水で濡らしにいった。しばし佐伯弘貢と角野潤はふたりきりになったが、なにを言うべきか佐伯弘貢にはわからなかった。さすがにドンマイのひと言ですますわけにもいかないし、奥村司書教諭から麻倉名美宛ての本を預かっているのだけれどと切りだすタイミングでも当然なかった。話しかけるきっかけをつくれていなかったため、まだ約束を果たせていなかった。
なにをいうべきか探すのを邪魔するように、以前暮木ミゾノとショッピングモールへ遊びにいったときに見た光景をおもいだした。書道教室のイベントの片づけのときのことだ。子どもが誤ってバケツをひっくり返し、墨でモールの床を汚してしまった。
「暮木さんは元気?」
角野潤は言った。おもわぬ言葉に佐伯弘貢はまごついたが、元気だよと答える。ならよかったと彼女はつぶやくように言う。
田川隆嗣が雑巾をもってくると、角野潤はありがとうと言って受けとり、ロッカー内を拭きはじめた。なにか手伝える? と佐伯弘貢は尋ねたが、角野潤は首をふった。
ほかの生徒が登校してくるまえに角野潤はロッカー内と床の汚れを拭きとった。ジャージ入れや辞書についてはしかたがないと言ってそのままロッカー内へしまい、戸を閉めた。雑巾を洗ってベランダの手すりに干すと、何事もなかったように自分の席に座り、机に突っ伏した。その日もやはりあとは点呼のときにしか彼女の声を聞かなかった。
放課後、いっしょに帰ろうという暮木ミゾノの誘いを断った。理由を聞かれたので、ちょっと調べたいことがあるのだと言ってはぐらかした。暮木ミゾノは不審げに佐伯弘貢の顔を覗きこんだが、ため息をついてわかったと了承した。
書道室のドアをノックすると女子生徒の声で応答があった。入室すると女子生徒ばかり一〇人が、机に教科書やノートをひろげているのが見えた。佐伯弘貢を見てすぐに女子生徒たちはにたにたと笑みをうかべて何事かささやきあった。
「なにか用でも?」
たちあがってそう聞いたのはメガネをかけた背のたかい女子生徒だった。上履きの色が佐伯弘貢と同じであったため同級生だとわかる。高身長の女子だな、と名まえは知らないが顔だけは知っている生徒だった。佐伯弘貢はこちらに綾瀬さんという人はいますかと問うと、その女子生徒は眉をひそめ、ほかの女子生徒たちは彼女のことを一瞥した。
「綾瀬は私だが、きみはだれだ?」
メガネの奥に警戒心をにじませて女子生徒が言う。佐伯弘貢は警戒を解くために笑顔を見せ、麻倉名美のことで話を聞かせてくれないかと尋ねた。麻倉名美の名がでると、彼女の瞼が微かにもちあがった。いぶかしむとともに興味があるように佐伯弘貢の目を見つめる。
「いいよ。まだ、あの子の名まえを口にする人がいたんだね」
綾瀬は安堵したようにつぶやく。ほかの女子生徒たちに勉強を続けていてと言うと、机のあいだを抜けて佐伯弘貢のもとへやってきた。廊下にでようと言うので、佐伯弘貢は彼女の提案に従った。




