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「明日、サトミとリュージといっしょにカラオケでもいかない?」と暮木ミゾノから電話があったのは家へ帰ってからのことだった。佐伯弘貢は歌が下手だった。しかしそのメンバーであれば気兼ねはなかったので楽しみにしていると答えた。だが当日になってみると田川隆嗣は部活で参加できなかった。あいつ昨日の持久走大会でもサッカー部員だからってひとりでさっさといっちゃうの。もう信じらんない。あんなやつとは別れてやる。金杉聡美は暮木ミゾノが歌っているあいだ佐伯弘貢にぼやいていた。
順番がきて佐伯弘貢が抑揚のない声で歌っているあいだ、暮木ミゾノは田川隆嗣と別れるべきでない一〇の理由を挙げて友人を説得していた。夕方ふたりと別れてから、彼女にちゃんと謝っておいたほうがいいと田川隆嗣にメールをだした。なんのことだ? と返信がきた。月曜日には仲睦まじくふたりは冗談を言いあっていた。
文化祭や体育祭といった行事と異なり、持久走大会は終わっても達成感などなく、ただただ徒労感だけが残る。しかも直後に定期テストが控えているから八つ当たりの対象にしやすい。木曜日からテスト一週間前で部活は休みになるが、部活をしていない佐伯弘貢には無関係だった。
月曜日の五、六時間めには理数科目がある。学ぶ科目を生徒自ら選択する授業で、文系の三クラス合同でおこなわれる。暮木ミゾノの選択している数学Ⅱは二〇人以上受けるが、佐伯弘貢の物理Ⅰは五人だけだった。授業は三クラスそれぞれの教室とセミナー室にわかれておこなわれる。物理Ⅰは第七セミナー室と呼ばれている部屋だった。数学Ⅱは佐伯弘貢たちの教室が割りふられている。
違うクラスの見ず知らずの人の机を使うのはふしぎなものだった。生徒用の机は同じ形状をしているはずだが、それでもちょっとずつ個性がある。板の木目模様の違いや滑り止めの擦り減り加減で変化する机のバランスなどによって生じたものだ。自分の机の個性には自然と慣れてくる。しかし他人の机には慣れがたい。第七セミナー室の机にはいっそう他人行儀な個性があって尻が落ち着かない。
二時間物理のことを学び、なにひとつ習得できた感じがしない。理数系の学問は果たして自分たちの年代でも理解できるものなのだろうか、と佐伯弘貢は疑問符をうかべながら自分のクラスへ戻る。あとはショートホームルームを残すだけとなって、教室内には夕暮れの微熱みたいな活気が漂っていた。
そんな教室にあって、だれとも話すことなくうかない顔をしている生徒がいた。角野潤だった。彼女はカバンを開けたり机のなかを眺めたりと落ち着きのない様子だった。
翌々日の水曜日にも同じような場面を見かけた。放課後の喧騒のなか、角野潤はふたたびカバンや机のなかを探っていた。角野潤に忘れ物の癖があるイメージはなかった。持久走大会の疲労から回復していないのかもしれない。束の間注意しただけで、佐伯弘貢は図書委員のために図書室へむかった。
図書室の通路に設けられた読書の秋フェアは本の並びが背を正面にむけたシンプルなものになり、フェアをおこなっていることがPOPでよくわかるようになっていた。見栄えはよくなったが、だからといって求心力がある展開なのかどうかはわからなかった。
「すこしはマシになったかな?」
奥村司書教諭に問われて佐伯弘貢は首肯した。嘘ではない。でもまだ借りてくれる人がいないんだよと嘆くので、どうしたらいいんでしょうねと佐伯弘貢も首をひねった。
「そういえば、先週あの子のことを話題にだしてくれたじゃない」
図書室にはテストが近いせいか、普段よりも生徒がおおかった。中央の大テーブルにも窓際の長テーブルにも生徒たちが陣取ってノートや教科書を広げている。佐伯弘貢は文庫本を読みさして、パソコンにむかって作業をしている奥村司書教諭に顔をむける。司書教諭は一回クリックすると画面から目をはなして佐伯弘貢のほうへ身体をむけた。
「ほら、麻倉名美さんのことだよ。あの子のことで思い出したことがあるんだ」




