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角野潤のことを物理的、精神的に視界の領外へ追いやることは困難をきわめた。彼女の姿が遠くに見えかけただけでも存在を意識しないわけにいかない。教室に行けばかならず目にはいるのだからどうしようもなかった。木曜日は悶々としてすごした。
金曜日は持久走大会だった。学校からすこしはなれた河川敷の公園を使っておこなわれ、男子は一五キロ、女子は一〇キロ走ることになっている。川の南北にかかる橋を巡る一周五キロのコースだ。広い河川敷にはテニスやサッカーのコートが設けられている。芝生の敷かれた広場や陸上トラックもある。散策コースとしてモチノキが左右にならんだ並木があり、冬になると赤い実をつけたが、今はまだ葉の緑が茂っている。
町に生まれ育った人であれば、いちどは幼少期に遊びに来たことがあるような場所だった。佐伯弘貢も小学生のころには、休日に親に連れられて遊びに来たことがある。
「アタシはこっちへきたの中学のときだから、ここへくるのは去年に続いて二回め」
暮木ミゾノはスタートまで佐伯弘貢のそばにいた。女子のスタート時間は男子より一〇分はやく設定されている。準備体操を終えてからスタートまでさほど時間はない。だから暮木ミゾノは待ってるから追いついてねと言うと、スタートラインのある陸上トラックへむかった。
暮木ミゾノの調子は平生のようだった。一昨日の放課後、化学室でいったいどんなやりとりの果てに角野潤が暮木ミゾノに危害を加えようとしたのかは杳として知れない。足をふるえさせてたつこともままならない暮木ミゾノを連れて化学室をでたあと、佐伯弘貢は彼女を保健室へ連れていこうとした。保健室の近くまで来たとき、それまで身を任せるままだった暮木ミゾノの身体に力がこもり、大丈夫だからと支えを必要としなくなった。
「大丈夫だから。ちょっとびっくりして力が抜けただけだから」
「ガラスでどこか切ったりしてない? ビーカーを投げつけられたんでしょう? どこにあてられたの? 痛む?」
暮木ミゾノは首をふる。平気だよ。どこも痛くない。だから保健室にはいかない。
それでも知らずにどこか切っていたらと心配したが、暮木ミゾノは平気だと言うばかりだった。心配にかわりなかったが、暮木ミゾノがそう言うならと保健室へいくのをやめた。代わりに教室へむかった。どこか落ち着けるところでなにが起こったのか話を聞きたかった。
教室で暮木ミゾノを彼女の席に座らせる。佐伯弘貢は真横の席の椅子を借りた。
佐伯弘貢はなにがあったのか尋ねた。暮木ミゾノは問われるとうつむき、スカートの上で握った両手を見つめるだけだった。佐伯弘貢はその両手をとり、子どもに問うようにやさしくもういちど尋ねた。暮木ミゾノは顔をあげて佐伯弘貢の目を見つめた。アタシはツグのそばにいたいだけと言う。
それ以上話を聞くことはできなかった。暮木ミゾノはよわっていた。話を聞きだそうとするのは無慈悲なことにおもえた。問えば問うほど彼女は傷つくようだった。
佐伯弘貢にとって大切なことは、打ちひしがれていた暮木ミゾノが普段通りに笑顔を見せてくれることだった。彼女が笑えばそれで満足だった。
陸上競技場をかこう低木のそばで田川隆嗣としゃべっていると、スタートの合図が鳴り響いて女子生徒たちが走りだした。そろそろスタートの場所へ移動するように教師たちが指示をだしはじめ、佐伯弘貢たちはそれに従った。




