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 角野潤は険しい眼差しを実験台のむかいにむけている。唇を結び、黒髪に隠れる耳をすまして話を聞いている。実験台のむこうには暮木ミゾノがいた。彼女が化学室へやってきたのは五分まえだったかもしれないし一時間まえだったのかもしれない。時間の感覚がぶれるくらい、ずっとふたりは話し続けていた。放課後の気だるく緩い平和な会話ではない。緊張が継続する精神的に苦しい対話だった。

 暮木ミゾノは一貫して佐伯弘貢を連れまわすのをやめてくれと訴えた。一週間がまんしたが、やはり佐伯弘貢といっしょにいられないのはつらい。話したいときに話せない。電話でも話はできるけれど、彼の表情を目のまえに見ていたい。彼の声にじかに触れていたい。それができない。アタシがいっしょにいてほしいとき、ツグの隣にいるのは角野さんなんだ。

 暮木ミゾノの訴えは切実に見えた。もしも相手が暮木ミゾノでなければ、角野潤は要求を受けていたかもしれなかった。しかし角野潤の目的のために佐伯弘貢と距離をおくわけにはいかなかった。

「何度でも言うわ。私は、私の友人を助けてもらうために彼の協力が必要なの」

「その友人って、麻倉名美のことよね?」

 暮木ミゾノはその名まえをこれまで避けていたようだった。しかし名を呼ぶことで、なにか決断を下したように角野潤には見えた。

「だとしたら角野さんの目的はアタシからツグを奪うことなんでしょう?」

「そんなつもりはないわ。どうしてそうおもうの?」

「このあいだの金曜日、ふたりがいったのは麻倉名美の家よね」

 あとをつけられたのかと角野潤は内々ため息をつく。暮木ミゾノはやはり厄介だ。

 それがどうしたというのと問えば、ツグは渡さないとだけ暮木ミゾノは答える。

 佐伯弘貢かと角野潤はおもう。彼はもうすぐここへくるだろうか。そうであればいい。角野潤は諦めた。

「もうたくさんよ」

 角野潤は目のまえのビーカーを手に掴んだ。暮木ミゾノがひるむのを知覚する。たちあがりながらビーカーをふりあげる。水溶液がこぼれて髪やブレザーを濡らした。暮木ミゾノは口をひらくものの、おどろきのせいか声がでない。角野潤はおもいきりビーカーを投げつけた。

 ガラスの砕ける音は空間も壁をも透過し、だれもいない教室やひと気のない廊下を抜けて響く。階段を下り切った佐伯弘貢にも不安をかきたてる鋭い音はとどいた。聞こえて、どこから漏れた音なのかと考える間もなく走りだした。廊下の電気はきえている。もう教室にはだれもいない。空白に足音が鳴り、暗い廊下の果てに化学室のドアノブが鈍く光っている。それが目印だ。しかし速力を落としきれずに肩からドアにぶつかってしまう。

 ドアをしゃにむに開けると、部屋の中央の実験台の奥に角野潤がたっていた。角野潤は入室した佐伯弘貢のことを見た。いいところにきたわと無愛想に言う。

「目障りだからその子をさっさと連れていってくれないかしら」

 佐伯弘貢はならんだ実験台をまわりこむ。角野潤がたつ実験台のむかいの床に、暮木ミゾノが尻もちをついていた。暮木ミゾノは首をまわして佐伯弘貢のことを見たが、なにもいえないのかただ目を見開いているだけだった。彼女のまわりに、なにか透明なものがいくつも蛍光灯の明かりを返して光っていた。割れたガラスのかけらだとわかった。

 佐伯弘貢はすぐに暮木ミゾノのことを助け起こそうとした。怪我をしたり痛めている様子はなかったが、足に力がはいらないのか、暮木ミゾノはなかなか起きあがれなかった。いったいなにがあったんだと佐伯弘貢は口にした。しかし返事はひとつもなく、まさかというおもいがよぎった。

「ビーカーをミゾに投げつけたのか」

 肩をかして暮木ミゾノを起こしながら、角野潤のことを見て佐伯弘貢は問う。

「見たままよ」と角野潤は髪から水滴を落としてつまらなさそうに答える。

 角野潤に佐伯弘貢は怒り戸惑い、そして不安になった。人を傷つけようとする行為を佐伯弘貢は許せない。だから迷う。角野潤は友を助けたいと言っていた。佐伯弘貢に協力してほしいと言っていた。できれば協力したかった。だが暮木ミゾノに危害を加える相手の頼み事なんて聞けなかった。

「もう僕は、きみの頼みを聞いてあげられない」と佐伯弘貢は言った。

 角野潤はドアを指さし、「さっさと出ていけ」とつぶやいた。

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