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夜中、ベッドにはいってしばらく経っても佐伯弘貢は寝つけなかった。暮木ミゾノが一日にみせたさまざま表情がつぎつぎと脳裏によぎり、最後にはいつもの屈託のない表情にいきつく。アタシは大丈夫だからという声には心もとなさがあった。
彼女にそんな矛盾した声と表情をさせている原因はわかりきっている。そして問題を解決する方法も明然としている。角野潤の頼み事を断ればいい。しかしそうすることは佐伯弘貢の性質ではむずかしかった。
顔と名前が一致し、なおかつ話したことがある人は佐伯弘貢にとって友人だった。困っている友人を見捨ておくことなどできない。
「なんだか眠たそうね」
迎えにいくと、角野潤は挨拶の次にそう言った。空はもう明るいが斜めの日射しは団地内に影をつくって小暗い。敷地の縁に植えられている常緑樹でスズメたちが鳴いている。通勤通学の時間にはまだはやいせいか人の気配も感じない。おだやかでさびしげな夜の名残があった。
「明日からバスの時間をもうすこし遅らせてもいいけれど?」
「いいや、平気。ちょっと寝つけなかっただけだよ」
バス停につくと間もなくバスはやってくる。ここはすでにラッシュがはじまっている。ふたりはとなりあって吊り革につかまった。バスの車内、それも通勤通学時間帯の車内では私語が慎まれる。だからふたりにも会話はない。角野潤は精巧につくられたマネキンみたいに同じ姿勢のまま正面の車窓を眺めていた。
角野潤は互いのことを知るためにボディーガードを頼んでいるといったが、すくなくとも登校時には相互理解が深まるやりとりはなかった。それは学校についてからも同じで、まだ人のすくない教室へはいると角野潤は佐伯弘貢にたいしてなんら興味をしめさない。だから佐伯弘貢は自分の席について話し相手が登校するまでのあいだ手持ち無沙汰にすごす。
最近朝はやいなといって始業ベル十分まえにやってきた友人の田川隆嗣を見て、佐伯弘貢は知れず緊張がほぐれる。彼の問いは疑問というほどのものではなく、ただの挨拶のようなものだった。だからすぐに話題は土日にあった部活の練習の話や、今日から体育の授業内容が持久走大会を控えたものになるといったものになっていった。
「きついよな。全員のタイム平均がわるければ持久走大会まで毎回走らせるじゃん。ぜったい運動できないやつら足手まといじゃんか」
「リュージさ、それは僕へのあてつけかい?」
「冗談だって。許して」
始業五分まえに暮木ミゾノが友人たちと登校してくる。佐伯弘貢と田川隆嗣が話しているのを見つけると、友人をひとり引き連れてやってくる。その女子生徒は田川隆嗣と付き合っている。暮木ミゾノと似て快活な少女だった。
他愛のない会話をしているうちに始業ベルが鳴って担任の教諭がやってきた。会話のなかで、暮木ミゾノは昨日のことをひと言もしゃべらなかった。隠す必要もないが佐伯弘貢もその話題はださなかった。




