表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
レモンイエローは夜だけ繋がる  作者: 綾沢 深乃
9/10

「九章 レモンイエローは夜だけ繋がる」

「九章 レモンイエローは夜だけ繋がる」


 中間テストが終わってから、一ヶ月が経過していた。段々と季節は冬の色を見せ始めて、頬に当たる風に冷たさを感じるようになる。

目ぼしい学校行事も終わり、気付けば、今度は期末テストの尻尾が見え始めていた頃。

 塚野孝一は成瀬香澄、新城結衣両名をとある場所に呼び出した。

そこはけやき公園と言って、周囲を背の高いマンションで囲まれた小さな公園であり、グリーンドアの近くに存在する。スベリ台と砂場、小さな鉄棒とブランコが二つずつ、それと名前の象徴となっているけやきの木が狭い公園内に何本か植えられている。ローラー滑り台も大きな樹もシーソーもない至ってシンプルな公園だ。

けやき公園の奥には、固い木製のベンチがある。このベンチに座ると公園全体が良く見渡せる。また、一箇所しかない公園の出入口に人が通ればすぐに分かる。

この木製のベンチの屋根は細い木を網の目にして作っているので、雨風を凌ぐ能力はないだろう。その代わり、太陽光を網目が程良い影を作り、綺麗に取り込む事が出来る。

 孝一は木製のベンチに座り腕時計と、公園出入口を交互に見ていた。

出入口横には、ココまで彼が乗って来た400ccの古い黒のネイキッドバイクが停めてある。

このバイクの所有者は孝一ではない。彼はアルバイトを行っていないのでバイクを購入するだけの経済力がない。日々の生活費は、両親から渡される小遣いで賄っている。ただ、普通自動二輪の免許を習得する際、夏休み限定と言う両親との約束の下、グリーンドアでアルバイトをして得た給料(殆ど毎日働いていたので、入校資金は全て、一括で支払う事が出来た)で、彼は普通自動二輪免許を習得した。

 孝一が自動二輪免許を習得した理由として、まず利便性を求めたのが一つ。これは両親を説得する材料でしかない。

もう一つは、自分が大人になる事の証明として、必要だと思ったのである。

彼が考える大人とは、自分自身で物事を判断出来る人間だった。

 免許と言う国家資格は、孝一の中で大人の所持品なのだ。それを欲がり、実際に手にしようと行動する事で、彼は物事を自分で判断して行う事が出来る人間。

即ち大人になろうとしたのだった。

 免許を習得している事は、両親とグリーンドアの山科親子しか知らない。飯田を始めとする友人達は勿論、香澄と結衣にすら話していない。

 孝一は、自分の考える大人になる為の行動を周りに話して、充分な理解が得られるとは思っていない。だから公言していないのだ。

 ただ、グリーンドアの山科親子だけは別だった。そもそも、普通自動二輪免許を習得したいと相談したのは、孝一からなのである。

彼らは、孝一が両親とは違ったベクトルで信頼を寄せている大人である。

孝一の主張を理解してくれて、具体的な目標額の相談まで乗ってくれた。孝一は山科親子に相談して心底良かったと思った。

そして今日、このけやき公園まで乗って来たバイクは、純一郎の所有物である。昔は彼が乗っていた休日になると乗っていた代物らしいが、現在はグリーンドアに毎日立ってコーヒーを作っている為、とても乗る暇がない。

たとえ時間があったとしても、乗るのは専ら車の方である。

 なので、グリーンドア裏にあるシャッター付きガレージで、最低限の整備だけをされた状態で置かれていた。純一郎は孝一が欲しいのなら、いつでも譲ると言ってくれているが、今譲って貰ってもとても維持が出来ないので、大学生になって、アルバイトを始めたら貰うと話している。純一郎から必要な時は勝手に乗って構わないとキーを預かっている。ヘルメットとグローブだけは、買ってあるので何時でも乗れる状態にあったが、孝一は今日まで乗ろうとはしなかった。

 今日乗ったのは、この後ココに来る二人に、大人になる為に自分がした事を見せようとしているのである。事情を知らない二人からしたら、意味不明だろう。

それでも孝一はバイクで来たのだ。

 ちなみに場所をけやき公園に選んだ理由は他にもある。

集合場所をグリーンドアするのは容易いが、話し合いがヒートアップして、再び店内の時間を止めてしまうと店に申し訳ない。何より他の客に迷惑がかかってしまう。それはグリーンドアに恩を感じている孝一からすれば、避けたかった。

今日話す内容で、誰かが大声を出さない保障はないのだ。

 外ならば、大声を出しても然したる問題はない。加えて、この寒空の下、現在けやき公園に人はいない。話やすい事この上ない最高の環境だ。

 孝一は腕時計を見る。これで何回目だろうか、下手したら一分毎に確認しているかも知れないが、我慢出来ないのでしょうがない。変な我慢をする必要はない。

そんな事に今日は精神力を行使する日ではないのだ。

 小さなため息を吐きながらそんな事を考えているとまず、けやき公園の出入口に香澄がやって来た。学校指定の灰色のダッフルコートに紺色のマフラーを巻いている。彼女はけやき公園の前で止まるとまず、出入口に停めてあるバイクを一瞥して不審がっていたが、すぐに視線を正面に戻して、公園内に足を踏み入れた。

 孝一が手を挙げて香澄に自分を発見させる。奥にいる彼の姿が分かった香澄は、安堵した表情を浮かべて少し早歩きになって木製のベンチまでやって来た。ストンっと孝一の隣に腰を下ろす。

「あそこに止まっているバイク。孝一君の?」

「俺の、になる予定」

「嘘っ!? 免許持ってたの?」

 驚いた香澄に孝一は少々得意気になって頷いた。

「凄いだろう? 俺は大人だからね」

「何それ、変なの~」

 孝一の発言が可笑しかったらしく、香澄は声に出して笑った。孝一は、まあ、経緯を話していないのだから笑われても特に気にしなかった。

 暫く二人の間に言葉は無く、風の音だけが聞こえた。孝一は、香澄が来てもまだ時折、腕時計を確認していた。

それを不可思議な顔で香澄は見ていたが、特に尋ねなかった。

孝一は香澄の視線を感じていたが、たとえ聞かれても答えられないので、現状沈黙が続くのは好都合である。だがしかし、やはり彼女に余計な事を思わせるのは止めた方が賢明だ。孝一は上時計を見るのを一切止めて、視線を宙に泳がせる。

 未だ、二人の間に言葉は無かったが、とうとう沈黙に耐えきれなくなったのか、

恐る恐る香澄が口を開く。

「それで孝一君。話って何かな?」

 香澄は腕時計の事を気にしない体を装って、努めて明るく笑顔を作り、話を始めようとする。

孝一は視線を香澄に向けず、視線をけやき公園出入口に向けて答えた。

「待ってくれ。もう一人来る事になってるんだ」

「えっ……」

 その返事に香澄の笑顔は固まってしまう。恐らく頭の中で誰が来るのか考えているのだろう。っと言っても元々、考える候補の選択肢なんて、あってないようなモノなので、自然と彼女が思い浮かべる人物は一人に絞られる。

「私以外にもココに誰か呼んでるの?」

「ああ、呼んでる」

「それって、まさか……」

 香澄がその人物の名前を言おうとしたその時、けやき公園の出入口に一人、女子高生がやって来た。彼女は、先に来た香澄と同様に、まず最初に出入口に停めてあるバイクに注目していた。こういう部分は姉妹なのだろう。

孝一は二人の行動を見て、思わずそう感想を抱いた。

 公園内を覗き、孝一と香澄の姿を見つけた彼女は、明らかに不機嫌な表情を作り、けやき公園に足を踏み入れた。香澄と同じく学校指定の灰色のダッフルコートに以前のデートで巻いていた薄手の濃い青のマフラーを今日も首に巻いている。そろそろ、秋物では辛いのではないだろうか。

 肩まで届く茶色の髪をマフラーに埋めているのも、前回と全く変わらない。違う点は、表情が正反対なトコロ。服装が私服ではなく制服なところである。

この時点まで、孝一の考えた通りに事は進んでいる。

彼は二人を呼ぶ際、予め呼び出した時間に時差を付けていた。同時刻に設定した場合、ココに来るまでにどちらかが、路上で相手の姿を見つけてしまったら、けやき公園に着く前に帰ってしまうと踏んだのだ。それでは意味がない。今日話す相手は、どちらか片方じゃなく、二人同時に話さなければならない。

だから二人の呼び出し時間に二十分程の時差を設けた。結果として、後から来た方は、予定時刻の半分の時間で来てしまったが、ココに来た時点で当初の目的は達成されたのだから、良しとしよう。

孝一と香澄の傍までやって来た彼女は、木製ベンチに腰を下ろさず、立ったまま二人を見下ろして、ぶっきらぼうに第一声を口にする。

「帰っていいですか?」

「やあ、結衣久しぶり」

 結衣の態度をまるで無視して、孝一は平然と挨拶をする。

それが彼女は気に入らない事だったようで。

「失礼します」

 っと短く告げて体を反転させ、けやき公園から出ようとした。足早に去って行く結衣に、孝一は少々大き目の声量で遠ざかって行く彼女の背中に向かって言葉を飛ばした。

「この前は結衣に呼ばれて来たんだから、今日は俺に付き合ってくれっ!」

 その言葉は結衣には確かな効果があったようで、彼女の足がザッと砂を引き摺る音を立てながら止まった。振り返り再び、孝一の前までやって来る。

一瞬、香澄の顔も見たが何かを話す事はなく、ただ眉間に皺寄せて嫌そうにしているだけだった。

「私は先輩一人だけかと思ったから来たんです」

「そりゃだって、香澄も来るって言ったら結衣は来なかっただろう?」

「当たり前です。来る訳ないでしょう? それで何です? 二人で私に交際順調報告でもするつもりですか」

 攻撃的な結衣の発言に香澄は下を向いて肩を震わせていた。その様子を見て気の毒に感じる孝一だが、同時に結衣に対して決定的な証拠を得られた。

「とにかく落ち着け。ほら、ココ座って」

 孝一は自分の隣を手で軽く叩き、結衣に着席を促す。結衣はため息をつきながら渋々腰を下ろした。孝一を中心に左に香澄、右に結衣と言った席順となる。

「それで話って何ですか? 手短に済ませていただけると、ひじょ~に助かるんですけど」

 不貞腐れた態度の結衣が孝一に向かって質問する。

 すぐに答えずに孝一は一度、結衣の顔をじっと見つめる。

「何です?」

 見つめられて困った顔をする結衣。孝一はそれに返事をする事なく、今度は香澄を見つめた。彼女は結衣が来る前と今じゃ、態度が全然違う。

今は、常に視線を下にして、孝一の向こう側に座っている結衣と目を合わせないようにしている。

 だから孝一が香澄を見ても彼女は最初すぐに気付かなかった。暫く会話がない事にゆっくり顔を上に上げた彼女が、そこで自身が孝一見られている事にやっと気付いた彼女は戸惑う。

「ど、どうしたの……?」

 姉妹の顔を交互に見て、孝一はこれから起こる展開を予想した。

この後、自分が話す話でこの木製のベンチ周辺が結構大変な空気になる。

願わくは、話が終わるまで誰もけやき公園に来ないで欲しい。そう誰かに祈りつつ、孝一は鼻から短いため息をつくと、決心したように口を開く。

そして、彼は静かに立ち上がった。

 孝一が座っていたスペースを開けて姉妹が並んで座っている。二人は、突然立ち上がった孝一を見上げて、彼の次の言葉を待っていた。

「実は二人の事でとある事実に気付いたんだ。それを俺の心だけに置いておくのは勿体無い。だから、二人にも知ってほしくて、今日は来てもらったって訳」

 とある事実に気付いた。その言葉に二人が揃って不可思議な顔をする。

二人の表情がココまで見事にシンクロしたのは、孝一が知る限り初めてだ。

その事がつい嬉しくなり、思わず口角が上がりかけたが、彼女達に悟られると厄介なので何とか口角を水平に戻す。

「私達の事で何か気付いたから、電話やメールじゃなくて……、直接話す為にわざわざ呼び出したの? それって一体……」

 香澄がゆっくりと孝一に質問する。彼女の口調が普段より遅かったのは、恐らく頭の中で整理しながら話しているのだろうと孝一は思った。

「そうだ、香澄の言う通り。いやなに、そんなに身構える事じゃないさ。難しい事なんて一つもないから安心して」

「それで一体何に気付いたんです? 勿体ぶらずに早く教えてくださいよ」

 腕を組んだ結衣から早く話を始めろと催促される。先程より声にいつもの冷静さが戻っていた。香澄の話を聞いて、現状を把握したのだろう。

孝一はワザとらしく、咳払いで前置きをしてから口を開く。


「結衣は香澄の事。本当は嫌いじゃないんだよ」


 孝一がそう言った瞬間、ベンチに座る二人の顔が凍った。

その後の二人の反応はまさに正反対だった。

香澄は小さく口を開けて驚いている。彼女の瞳が潤んで左右に揺れているのは、様々な事を頭で一気に考えているからだ。

 対して結衣は理解出来ない、信じられないと言った表情を見せて、怒りを顔に迷いなく出して孝一を真っ直ぐに睨んでいる。

 彼女達の反応をそれぞれ観察して、すぐに行動を起こしそうだなと孝一が思ったのは、結衣の方だった。そしてそれは的中する。

彼女は孝一を睨んだまま口を大きく開けて吠えた。

「そんなくっだらない事を言うにこんな寒い公園に呼び出したんですかっっ!?」

「そうだ」

 結衣の怒声にも怯む事なく、冷静な表情で頷く孝一。その彼の態度が結衣の怒りを増々吊り上げる。

「確かにっ! 私も先輩に迷惑をかけましたっ!! けれど、それと今の発言は別です。他人の先輩に何が分かるんですかっ!? ふざけた事言わないでっっ!!」

 烈火の如く怒る結衣。孝一が見る中で最高級に怒っている表情だ。そんな彼女を見ても、特に孝一は慌てる様子を見せず、淡々と返事をする。

「ふざけてないさ、事実だ」

「だからっ……!!」

 孝一の淡々とした口調が気に入らない結衣は更に声を荒げようとする。

そこに先程から黙っていた香澄が割って入って来た。

「わっ、私も流石にそれはあり得ないと思う……」

「そうか?」

 香澄にも孝一は態度を変えない。香澄は孝一にそう伝えて、結衣に視線を向ける。激昂している彼女は香澄の視線を受けた。今現在、中心に座っていた孝一が立ち上がった事で、彼女達の間に空間が出来ている。即ち、香澄と結衣の二人の視線が交わる事になるのだ。

「……何?」

 明らかに嫌だと主張するような顔で香澄に声をかける結衣。香澄は視線を再び、逃げるようにして呟く。

「私は、仲良くしたいけど……」

「なっっ……!!」

 香澄がココまで積極的に結衣に向かって意見を主張するのは、孝一の予想より早かった。

彼の目論見では、彼女が結衣に今のような発言をするのは、話が随分進行してからだと考えていた。なので、これには孝一も驚いた。一瞬、作っている冷静な顔が崩れかけたが、慌てて持ち直す。危なかったと孝一は冷や汗をかく。

 香澄の呟きに結衣は怒りのパロメータを更に上昇させていく。左に座っている香澄に向かって指を差しながら孝一を怒号を撃った。

「ほらっ! 先輩が変な事言うから調子に乗ってるじゃないですかっっ!!」

「調子に乗ってなんか……」

 結衣の発言に対して細やかに反論する香澄だったが、その声量はとても小さい。今の頭に血が上っている状態の結衣の耳には届いている様子はなかった。

 二人の意見を一通り聞いて、予想通りの反応だと感想を抱きながら孝一は話を始める。まるで、ミステリー小説の探偵役が最終章で自分の推理を披露するようだった。

「最初に違和感を感じたのは、結衣がグリーンドアに現れた日だ」

「はぁ?」

「俺の記憶では、結衣は最後、どーぞ二人でお幸せにって言ったよね?」

「ええ、そんな事を言いましたね」

 結衣は自分が言った事を思い出したようで、頷いて同意する。彼女が同意したのを確認して孝一は首を傾げた。

「結衣は香澄から俺を取ってやろうとしたんだろう? なのに普通お幸せになんて言い方をするか? あそこで引いてしまって良いのか?」

 孝一の指摘に結衣は鼻で笑う。

「そんな偶然で言った事を指摘されても。言い方なんて……」

「まだあるさ」

 自分の言葉に被せて話す彼の話に結衣は腕を組んで微笑んだ。彼女は、時間の経過によって段々と余裕を取り戻しつつある。頭に上った血はもう引いているようだった。

「聞きましょう」

「二つ目はこの前会った時だ」

「あの時が何です? 変な話でもしましたか?」

「内容は関係ない。重要なのは、笑顔だよ」

「笑顔?」

「そうだ、あの日。結衣はずっと笑顔だった」

 そう言って、孝一は香澄を一瞥する。あのグリーンドア以降、二人で一度会っている事を彼女の耳に入っていない。取っていたら、ココに来るはずがない。まさか、現状も結衣が香澄と連絡を取っているはずもないだろう。案の定、事情を知らない彼女は話に聞き入っていた。

孝一は小さく咳払いをして、視線を結衣に戻し話を再開する。

「あの日に話した内容は、一先ず棚に上げておこう。さっきも言ったが重要なのはそこじゃない。自覚はないと思うけど、あの話をしている結衣はとても可愛い笑顔をしていた。最初は、単純にその笑顔に見惚れていたよ。だってあんな顔を俺には見せてくれた事ないからな。だから分かったんだ。結衣はその内容に関わらず、香澄の話をする時は、あの顔になるんだよ。恐らく、当時の事を思い出しながら説明するから、つい油断したんだろうな。仮に今香澄の話をしても、あの笑顔は出ないさ」

「私の話をしている時の結衣の顔?」

 孝一の話を聞いて、香澄は空気を微振動させる程度の小さな小さな声量で呟いた。信じられないと言った表情で、結衣に視線を向けているが、相変わらず結衣は彼女と視線を合わせない。先程中の例外だったんだなと改めて思う。

 孝一の話に腕を組み黙って聞いていた結衣は、口から大きなため息を吐いた。

「先輩にそこまで勘違い……、いえ妄想させた原因を作ってしまったのは私です。その非は私にあると認めましょう」

「あながち妄想でもないと思うけどな」

 孝一の挑発とも取れる発言には乗らず、完全な冷静さを取り戻した結衣はもう声を荒げる事はない。静かに首を横に振った。

「妄想です。先輩は私の言動を観察して、偽りの答えを出した過ぎません。だって先輩の話には何一つとして、証拠がありませんから」

「証拠ねぇ……」

 孝一の声に結衣は頷く。組んだ腕をそのままに、口角を上げて笑顔で話す。

「非情な言い方ですが、先輩は他人です。当時の事は何も知らない、全て人から話を聞いただけ。それなのに、そこまで考えてくれているのは、大変有難いですが、これ以上は迷惑です。ありもしない答えを作る必要はありません。先輩はただ、この人とイチャイチャしていたら、それだけでいいんです。私を巻き込まないで下さい」

 ココまで結衣に反論されても現状は変わらない。全て孝一が思い描いたシナリオの通りに物語は進んでいる。結衣が今のように証拠がない癖にと言い出すのも予想済みだった。彼女なら、絶対にそう言い出すと確信していた。だからこそ、対策は当然用意してある。

「証拠ならあるぞ」

「へぇ~、一体何です?」

 結衣のあからさまな挑発的な目を軽く微笑んで流した後、孝一は視線を先程から黙っている香澄へと向ける。目が合った事で、香澄の潤んだ瞳から、焦りや戸惑いと言った類の感情が手に取るように孝一に伝わって来る。

「香澄、頼みがあるんだ、良いか?」

「わ、私っっ!?」

 自分が何か頼み事されるとは思っていなかったらしい。肩を一回ビクッと震わせた後、自分を指差して孝一に聞き返す。

「ちょっと立ってくれないか?」

「うん……」

 香澄は言われたまま立ち上がる。孝一は二歩程歩いて、香澄に近付いた。

 二人が向かい合っている。結衣は黙って、孝一と香澄の様子を見つめていた。

その顔にはまだ冷静と余裕がある。

「孝一君?」

 不安そうな香澄に孝一は優しく話す。

「大丈夫だ。何も心配はいらない。少しの間、目を閉じててくれないか」

「わ、分かった」

 香澄は言われた通りに目を閉じる。二人の距離は非常に近く、緊張している香澄の息遣いが孝一の顔にかかる。これから何が起こるのかを知らない香澄程ではないが、孝一にも多少の緊張があった。そして、ココまでの行動を起こした以上、失敗を危惧する感情も生まれ始める。

今、この距離まで香澄に接近した以上、結衣に視線を向ける事は得策ではない。下手に視線を結衣にズラしたら、勘の良い彼女はきっと孝一の意図に気付いてしまうだろう。そうなると、全てが水の泡となる。

 それを考慮して孝一は一切、結衣に視線を向けず、むしろ彼女はこのベンチに座っていないくらいの面持ちでいた。

 香澄の両肩に手を置く。彼女の両肩がビクっと飛び上がる。

「大丈夫、大丈夫」

 香夏子譲りの口癖を香澄にしか聞こえない声で話して、彼女を落ち着かせた。 

孝一はゆっくりと、赤ん坊のハイハイより遅い速度で、香澄に顔を近付ける。

速度は遅いが、決して止まる事はない。あと数秒もしない内に、孝一の唇は香澄の唇と接触事故を起こす。香澄には目を瞑っていて貰って良かったと孝一は心底思った。距離感把握の為、彼は目を開けなければならないが、彼女も目を開けていたら、きっと恥ずかしくなって近付けなかった。

 風の音がやけに耳に響いて煩い。可能ならば、ミュートしたいくらいだ。

香澄までの距離が後、数センチ……いや、数十ミリと言った距離まで接近した。観察角度によっては、もう接触していると思われてもおかしくない。彼女の甘い香りが孝一の理性を狂わせそうになるが、彼は自身と香澄の前にはプレパラートがあると誤認識させる気持ちで辛うじて耐えていた。

 これ以上は本当に接触してしまう。動く体を止めようとしたその時だった。

 風の音に混じって、ザッっと砂を引き摺る音が孝一の耳に響いた。風が砂を舞い上げる音ではない。人の足によって生み出される人工の音だ。

 孝一はココで初めて視線をズラす。視線だけで、顔の方向は香澄に向いたままなのは、無意識に彼が緊張しているからである。

「ダメ……」

 微かな声が空気を微振動させた。

 声の主はいつの間にか立ち上がり、二人に向かって右手を伸ばしていた。

 その焦りと悲しみが混合したような表情に、先程の挑発的かつ冷静なな態度は見られない。

 孝一は香澄の両肩から手を離す。気付けば、あまり息を吸っていなかったらしく離れた瞬間、体が酸素を求めて口を大きく開けていた。香澄に接近した分、プラス二歩程離れてから、未だ目を瞑っている彼女に向かって口を開く。

「香澄、もういいよ。ありがとう」

「うん」

 どこかトロンとした表情で香澄は目を開ける。

彼女の頬は多少紅潮していたが、すぐに風が冷やしてくれるだろう。同時に自分の頬も早く冷えないかと密かに風に期待する。香澄はそのまま何も話さず、ベンチに腰を下ろした。彼女には今の結衣の一言は聞こえていただろうか。

恐らく聞こえてはいるだろうが、孝一は念の為、彼女の様子を確認する。

「香澄、大丈夫?」

「うん、平気だよ」

 一回、丁寧に頷いて彼女は、笑顔で孝一に答えた。よし、もういつもの香澄だ。これなら心配ない。そう思った孝一は、「良かった」っと一言呟く。

「それより孝一君、さっきの……」

「ああ、そうだ」

 やはり、香澄の耳にもきちんと届いていた。不安要素が消えた事で孝一の思考は再び動き出す。顔を結衣に向ける。彼女は孝一が視線を向けた時には、もう手を引っ込めてベンチに座っていた。しかし、既に手遅れだ。

あの瞬間に結衣が起こした行動こそ意味があるのだから。

「さて、結衣? 何か話があるなら聞くけど?」

 孝一の問いかけに結衣は返事をしない。ただ沈黙を守る。彼女の瞳は孝一に向けていた。潤んだ瞳で睨まれるのは、正直あまり気持ちの良いものではない。

「ないようなら、俺が話を続けたい。香澄もいいか?」

 香澄に尋ねると、彼女は素直にコクンと首を縦に振った。

「私からは何も。むしろ説明してほしい側なので」

「分かった」

 姉妹両方の許可を得て(正確には片方だけだが)孝一はようやく話を続ける。

「さっき話に出たけど、俺と結衣はあのグリーンドアでの騒動以降、一度だけ会っている。会話の内容は棚上げしたから言わなかったけど、簡単に言うと、香澄の悪口だ。それを笑顔で話した後、結衣は自分と正式に別れてくれって言ったんだ。元々、俺と付き合っていたのは、香澄から取ってやりたいからだって。だからさっき、結衣は俺と香澄にイチャイチャしていればそれで良いとか言っているだろう?」

 孝一の問いに香澄は何度も頷いて真剣に話を聞き、対して結衣はずっと俯いて黙っている。表情が見えないので、聞いているのか分からないが、逐一確認を取って話のテンポが悪くなるのもアレなので、孝一は取り敢えず全部話す事にした。

「別に二人で会った日だけじゃない。例えば、グリーンドアに三人でいたあの日だって、結衣はどっちと付き合い続けるのかと聞いていた。おかしいよな? 本当に取ってやりたいなら、まずそんな事は言わない。言ってもプラス要素は一つもない。なのに、なぜそんな事をずっと言っていたのか。理由は二つある」

 そう言って孝一は人差し指と中指を立てる。

「二つ?」

 首を傾けて尋ねる香澄に孝一は頷く。

「まず一つ。結衣は俺達が土曜日の夜に電話をしているのを知って、まだ俺達が交際を続けていると思い込んでいるんだ。まぁ、それを言うなら香澄もまだ、結衣と俺が付き合っている思い込んでいるみたいだが」

「えっ……?」

 孝一がそこまで話すと、小さな疑問を空中に飛ばして結衣の顔が初めて上がった。彼女は自分が勘違いをしている事をようやく気付いたようだ。

 そして、その勘違いに気付いたのは、姉の香澄も同様である。

「孝一君って結衣と付き合ってるんじゃないの?」

「もう付き合ってない。って言うか、私達は本当に付き合ってたのかどうかも微妙。だって、そっちの彼氏じゃん。私は浮気相手みたいなモノでしょ」

 孝一の説明より先に結衣が口を開いた。目線を香澄に向けて自分の意見をはっきりと話している。それは孝一に見る、結衣から香澄へと話すきちんとした会話だった。以前聞いた時は、もっと他人行儀だった。

 思わぬ相手から話かけられた事に香澄は大きく戸惑う。黒い瞳が潤んで左右に揺れていた。結衣の方は、思わず話してしまった事を後悔しているようで、眉間に皺を寄せて心底嫌そうな溜息をついた。小さな舌打ちも聞こえる。

「とにかく、それが一つ目。お前たち姉妹がしている勘違いだ。結衣には話してなかったが、香澄はあの日の後、俺との電話で、もうこういうのは止めようって言ってきたんだ。それ以来、俺は香澄とは電話をしていない」

 互いが互いに誤解をしている事を指摘されて、それぞれ驚く。

その様子を見て、無理もないっと孝一は思っていた。二人は、本当にあの日以降、会話が無かったのだ。孝一に呼び出さなければ、この誤解は一生解けず永久に彼は片方と付き合っていると思われていただろう。そんな二人を一瞥してから、孝一は動揺している香澄に向かって人差し指を立てる。

「そしてもう一つは結衣の気持ちだ。結衣はな、俺の事が今も好きなんだよ」

 孝一は細心の注意を払って冷静に話したが、それを口にすると、やはり顔が赤くなり、両耳の体温が赤くなる。違っていたら、相当な大恥を掻く事になる上に自意識過剰のレッテルを貼られてしまうが、情報ソースは孝一が心から尊敬している二名なので、信頼性は非常に高い。

 孝一の話を聞いて香澄は茫然とした表情をしている。そして、静かに隣の結衣の顔を見た。孝一は現状の精神状態では、まだ結衣の顔を見る事が出来ない。

 立ち上がって右方向にいる香澄を見る事でやり過ごそうとしたが、肝心の彼女は結衣の方を見ている為、何とも不恰好な形だった。

 三人の間に沈黙が流れる。

 孝一から口火を切る事は不可能であり、香澄も初手の担うのは難しい。

 つまり、会話を始められる人物はこの場においてただ一人である。二人はその人物の第一声を待っていた。

「……先輩、自分で言ってて恥ずかしくないんですか?」

「恥ずかしいさ。かなり恥ずかしいよ、耳が真っ赤だ」

 結衣にそう指摘をされる事で、孝一の両耳は増々体温が上昇していった。通常時の自身の思考回路なら、まず百パーセント言わないセリフを言っているのだ。恐らく今後人生において、何回か今日の日を思い出して、恥ずかしさに悶え苦しむ事となるのだろう。

 孝一の一歩間違えたら自意識過剰に成り果てる発言と、今の結衣の返しを聞いて、とうとう我慢出来なくなったのか香澄が小さく吹き出して笑った。

真剣な話をしているのに、彼女の笑い声で緊張感が霧散していく。

 香澄に呼応したのか、結衣までも呆れ顔で含み笑いを漏らしていた。笑われる立場である孝一は、どうする事も出来ず苦笑するしかなかった。やがて空気が落ち着いたのを見計らってまとめに入る。

「結衣は本心から俺と別れたいと言った訳じゃない。だって、俺の事が好きなんだから。なのに、本心を隠してまで香澄の為に身を引いた。この時点で香澄に対して憎しみは口で言ってる程ない事が分かる。そしてそれは、香澄も同様だった」

 孝一は一旦言葉を区切り、姉妹の顔を見る。今は二人共、素直に彼の話に顔を向けて、耳を傾けているようだった。

その様子を見て安心した孝一は話を続ける。

「俺は二人に勘違いが原因で喧嘩してほしくない。もっと言えば、今までの分も清算して仲良くしてほしい。二人からしたら、お節介で迷惑だと言う事も分かっている。だが、俺の好きな二人が喧嘩しているのをただ、黙って見ている真似なんて、俺には出来なかった。それだけだ。以上、これで俺の話は全部終わり」

 孝一は最後に自分の中にあるモノを全て言葉に乗せて二人に飛ばした。

 香夏子と昴に教えてもらった事や孝一自身の本心。一つ残らず彼女達に伝え切った、未練はない。事実、孝一の頭は今とても澄み切っている。

今なら、苦手とする数学の微積分だってすらすらと解けそうだ。

 話し終えた孝一は小さく心地良いため息を吐き、ベンチに腰を下ろした。

 固い木製のベンチだが、今し方まで立って話をしていた彼にとっては、体重を預ける場所は有難い。両足に蓄積された疲労感がゆっくりと溶けていく。

 孝一が落ち着くのを待っていたのか、彼の右隣にいる結衣が口を開く。

「まったく、先輩はお節介な人ですね。あーあ。何で私、こんな変な人を好きになっちゃったんだろ? 普通、ココまでしませんよ」

「そうかもな」

「かもじゃありません」

 結衣にそう強く断言される。更に彼女の口は止まらない。

「先輩が何を言おうと、どれだけ私の心の内を暴こうと、そう簡単に事は進みません。そこを先輩は分かってますか?」

「ああ、分かってるよ」

 結衣の問いかけに孝一に頷いてそう答えた。孝一が頷いたのを確認してから、彼女は「じゃあ……」っと話を続ける。

「先輩は分かった上で、こんな事をしたんですか? わざわざ普段乗らないバイクでこの公園までやって来て、私達を呼び出したんですか? 成功する保証なんてない。むしろ失敗する確率の方が圧倒的に高いのに」

「そうだな。全部……、承知の上だ」

 どれだけ孝一が上手に結衣の心の内を暴いたとしても、肝心の彼女が動かなければ、何一つ事態は変わらない。この問題は姉妹二人が主役なのであって、孝一は所詮脇役。いくら出しゃばったところで、大きな流れは変わらない。

「そこまで承知していたなら、どうして先輩はこんな事を思い付いたんです? 動機は何ですか?」

 そう訴える結衣の瞳が孝一の返答を求めている。

 孝一は自分の胸の内にある、とてもシンプルな感情を口にした。


「結衣の事が好きだからだよ」


 孝一が今までそれを話したのは、香夏子と昴の二人にだけ。それも追及されてやっと話したのだ。ところが今回はあろう事か、本人に伝えている。

 先程、結衣は自分の事を好きなのだと説明した時も相当だったが、今はあれに勝る恥ずかしさが込み上げて来る。心臓の鼓動が実にやかましい。

 孝一の告白を受けて結衣は完全に固まっている。彼の返答は完全に予想外だったようだ、頬を林檎色に染めているのがその良い証拠である。

 孝一もそんな彼女の顔をいつまでも見れる度胸は持ち合わせていない。

咄嗟に反対方向を向き、暫く沈黙していた香澄の方を向く。

「うひゃ~」

 香澄は見てはいけないモノを見てしまったと言わんばかりの顔で、口元を右手で隠していた。頬が結衣程ではないが、微かに林檎色だ。

「えっと、香澄?」

 孝一が何かを言いかけようとすると、香澄は素早く首を横に振った。

「わ、私に話しかけられても困るから。ほらっ、さっきの態度はドコ行った?」

 香澄は指を指して、結衣を見るようにと促してくる。孝一に逃げ場は無かった。

彼は観念して、もう一度結衣の方を向く。すると彼女は下を向いていた。

 孝一の視線に気付いた彼女は顔を下に向けたまま、ゆっくり首を横に動かす。

「本当、先輩って人は」

「えっと、ごめん……」

 どう言って良いのか分からず、孝一は咄嗟に謝罪をする。その無責任な行為が結衣の怒りに触れてしまった。咄嗟に顔を上げて彼女が吠える。

「どうして謝るんですかっ!! 悪いなんて思ってない癖にっ!!」

「えっと……」

 結衣の言う通りだった。孝一は自分が悪いとは思っていない。なのについ、反射的に謝ってしまった。今日一日で一番の凡ミスをよりによって、彼はココで犯してしまったのである。

「あぁ、もうっ! ムカツク~!!」

 右手で作った拳を自身の右太ももに叩き付けて、結衣は怒りを露わにした。

その様子に孝一は困り果ててしまう。こうなる原因を作ったのは自分なので、正直に謝罪するのが一番の方法なのだが、またそんな愚行を冒したら結末は火を見るより明らかだ。この問題をより安全に解決する方法を模索して、孝一は思考回路に電気を走らせる。何でこんな事に一生懸命に頭を使っているんだと、自問自答まで始まったが、それは一先ず置く。

彼はいくつか出た解決策の内、最良だと思ったモノを選択する事にした。

「結衣」

 出来るだけ優しく話しかける。

「何ですか?」

 不貞腐れた目で顔を上げて、孝一を睨む結衣。

 そんな彼女に彼は体を向けて両腕を広げた。

「おいで」

 鳩が豆鉄砲を食らったように結衣の目が丸くなる。そして、先程上げた顔を再び下げてしまった。てっきり、彼女が来ると予想していた孝一は、まさか顔を下げしまうとは思っていなかった。

結果、どうする事も出来ず空中に両腕を捧げた状態になってしまう。

失策だったようだ。っと自己の悪手に気付き両手を下げようとした時、下を向いたままの結衣が孝一に勢い良く飛び込んできた。

「うおっ!?」

 まさか時間差で飛び込んでくるとは思わなかったので、孝一は驚きの声を上げる。両腕を完全に下げなかったのが功を奏して、彼の閉じかけた両腕にすっぽりと結衣が収納される形となった。この一連の流れを連続撮影したら結構ユニークな写真が出来上がった事だろう。結衣はこの寒空の下だと言うのに、温かく腕にすっぽりと包んだ孝一は、彼女を一種のカイロのようだと思った。

 腕の中の結衣は小刻みに震えていた。微かに啜り泣きのような息を吸う音も耳に入って来る。

「初めて、だったから……」

 孝一の腕の中で結衣の声が聞こえる。それは彼の両腕にぶつかり、両耳に入り、体に浸透してくる。

「初めて?」

 孝一は聞き返す。結衣の声が小声だったので、彼も声量もそれに合わせて小声になった。孝一の問いに結衣は下を向いたまま答える。

「先輩がおいでって言ってくれたの……。いつも、私から頼んでたから。本当は、嫌々やってくれてるんじゃないかって……。でも、そうじゃないって分かって」

「当たり前だ。それに今までだって一度も嫌だと思った事はないさ。当然だろ? 考えみろ、これまで俺が断った事なんてあったか?」

「この前、時間制だった……」

 唸り声と共に結衣の反論が聞こえる。彼女は前のデートで別れの際に孝一がカウントをし始めた事を根に持っているようだった。

「あれは場所が場所だから」

 孝一が当時を思い出しながらそう言うと、彼の背後でボソっと声が聞こえる。

「今も考えてほしいんですけどー」

 香澄のその一言に二人は弾かれたように素早く離れた。彼女に聞こえないよう小声で話していたつもりだったのに、何時の間にか大きくなっていたらしい。

「話を戻します」

 自分の中のスイッチを切り替えた結衣は、冷静な表情でそう言った。孝一は彼女がまだ完全に冷静さを取り戻していない事は、頬の林檎度合いを見てすぐに気付いたが、敢えて何も言わないでおいた。代わりに含み笑いが漏れてしまう。

「何か?」

「いえ、何も」

 鋭い目で睨んでくる結衣を軽く受け流し、孝一は右手を前に出して結衣に話の続きを促した。彼自身の思考エンジンも徐々に先程のモードから真面目モードへとシフトアップしていく。

「先輩が私達……。特に私にですか? どれだけお節介をしても人の意思を操作する事なんて出来ません。くらいまで話しましたね」

「ああ、そんな事を言っていたね」

「私は先輩も御存知の通り。捻くれ者ですので、やれと言われると逆らいたくなります」

「それは充分知ってる」

 孝一は結衣の指摘に深く頷いた。

 そこで話は一旦途切れる。結衣は何か次の言葉を探しているようで、右手で拳を作り親指部分を唇に当てて、何やら長考しているようだった。

 今の結衣に下手に話しかけても、無視される。彼女からそんな雰囲気を感じ取った孝一は視線を香澄へと向けてみた。

 さっき孝一と結衣が抱き合っていた際、後ろで香澄の声が聞こえて以来、どうにも恥ずかしくなり彼女の表情を窺えないでいた。だがいつまでも照れている訳にもいかない。、孝一は思い切って顔を向けてみる。

「んっ?」

 目が合った香澄は特に怒っている様子もなく、孝一に向かって首を傾げた。

怒っていない事に内心安心しつつ、孝一は首を横に振り、何でもない風を装う。その様子が可笑しかったのか、彼女は微笑んで口を開く。

「どうしたの? 変な孝一君」

「いや、別に。さっきからずっと香澄は黙ってたから、何か言いたい事とかないのかなって」

 孝一の問いに香澄は腕を組んで唸る。

「無い事もないけど、まずはそっちの話が優先だから黙ってます」

「成程、賢い選択だ」

 香澄なりに話の流れの迷惑にならないよう気遣ってくれている。

彼女のそういう部分を孝一は尊敬している。ただ、それを口に出すのは様々な観点から今は止めて置き、再び結衣の方向を向いて、彼女の口が動くのを待った。

「まっ、先輩がお節介したトコロで状況は変わらないんですけど。……それでも、ココまでお節介してくれた人は、今までいませんでした。さっきは他人って言いましたけど、お節介度に関しては両親以上です」

「確かにそうかも」

 結衣の話に香澄の同意する呟きが聞こえる。恐らく、結衣には聞こえていないであろう。その呟きは孝一を喜ばせるのに充分な効果を発揮した。

姉妹二人から両親以上のお節介と言われて、喜ばない彼氏はまずいない。

思わず、口角が上がってしまうのも無理はない。完全に無意識で上がってしまったので、孝一にはいつから上がっていたのか知る由もない。現に訝しい表情をした結衣の態度でようやく自分の口元に気付いたくらいなのである。

「何ニヤニヤしてるんですか?」

「気にしないでくれ。俺の意思とは無関係に起こっている現象なんだ」

「はぁ……」

 不審そうな目をこちらに向けて首を傾げる結衣。それは香澄も同様で、孝一が反対を向いたら、同じく首を傾げていた。

「取り敢えず、話を続けます」

「頼む」

 英断な判断をしてくれた結衣のお蔭で孝一は、恥ずかしい心情を吐露する必要は無くなった。

「両親以上にお節介を焼いてくれた先輩の頑張りに完全無視は流石の私も出来ません。なので、先輩に免じて少しは先輩に応えましょう」

「「えっ!?」」

 孝一と香澄の声が同時に重なる。彼女の方が若干声量は大きかった為、孝一は反射的に後方を振り返った。

 香澄は両手を口元に持って来ている。それだけで彼女にとって、結衣の発言の衝撃度合を窺える。同時に、彼女の二つの瞳が目薬を差した直後のように潤んでいるのも確認出来た。

 孝一はすぐに視線を結衣に戻す。彼女の方も香澄がそこまでの反応をするのが、予想外だったのか、どうしたら良いか困った様子だった。

頬を指で掻きながら、恥ずかしそうに口を開く。

「先輩のお節介な頑張りに免じて……、一歩くらいなら歩み寄ってあげます」

「一歩だけ?」

 孝一が咄嗟にそう聞き返す。結衣は彼とその後方にいる香澄の表情を見てから、小さく溜息をついた。

「……じゃあ、もうちょっとだけ」

「結衣っっ!!」

 結衣の発言を聞いて、香澄は衝動的に立ち上がった。孝一は自然と横に逸れる。香澄は瞳を潤ませて、結衣に抱き付いた。

 抱き付いた時の衝撃で瞳に留まっていた香澄の涙は零れて、結衣の学校指定のダッフルコートを黒く滲ませる。

「ちょっとだけって言ったでしょっ! 調子に乗り過ぎっ!」

 結衣は文句を言いながら、抱き付いて来た香澄を引き剥がそうとしているが、香澄の力は思いのほか強く、背中に回した両腕をガッチリと組んで離さない。

最初は抵抗していた結衣も、ココまで強く抱きしめられると、どうしようもない事を悟った。されるがままになっている。

 結衣の胸に顔を埋めて震える香澄の顔は、孝一から見えない。

 きっと、結衣の位置からは見えるだろうが、彼はその場から動かなかった。

体を震わせながら、結衣に抱き付く香澄と、されるがまま空を見上げる結衣。

 そんな、自分が想像もしていなかった光景に、孝一の瞳もまた潤み始めた。

 二人は彼の瞳の様子に気付いていない。このまま気付かれずに涙が渇いてほしい。多分それは叶わぬ願いだと思いながら、彼は鼻を啜った。

 それから数分経って、香澄がようやく結衣から離れた。そして元の場所には戻らずに結衣の隣に座る。現状、結衣が三人の中心となっていた。

 香澄が抱き付いていた結衣のダッフルコートの箇所には、涙で滲んだ後が多々あり、掴まれた皺が寄っていた。

 香澄は離れた時、結衣のダッフルコートの惨状を見て、ポケットからハンカチを取り出す。結衣はそれを受け取り、自分のダッフルコートを拭く。

そのやり取りを見て、ある事を思い出した孝一は、自身の肩掛けカバンを漁り、白い封筒を取り出した。

「結衣。コレ、あの時のハンカチ」

 孝一が取り出したのはあの日、彼がグリーンドアに行く前に涙を流した際、結衣から差し出された物である。あの日の最後に、ハンカチの返却は無用だと言われたが、彼はずっと返す機会を探していた。綺麗に洗濯をして、アイロンをかけた水色のハンカチ。アイロンをかけたのが崩れてしまわないよう、白い封筒に入れて、大切に持ち歩いていたのだ。

差し出されたハンカチを見て、唇を尖らせる結衣。

「返さなくていいって言ったじゃないですか」

「そんな訳にはいかないから。それにあの時言っただろう? 大事な彼女のハンカチだから。洗って返したいって。コレはちゃんと洗ってあるぞ?」

 孝一は白い封筒から水色のハンカチを出して、結衣に渡す。

 結衣は彼からハンカチを受け取ると、先程と同じように、ダッフルコートの染みを吸収させようとしたが、すぐに止めてポケットにしまった。

「使わないのか?」

「いいんです。せっかく洗濯してくれたんだから、今日は使いません」

 使ってくれた方がむしろハンカチを渡した自分としては嬉しいのだがと、孝一が思っていると、ずっと黙っていた香澄が立ち上がる。

「ねえ二人共、喉渇かない?」

 香澄にそう言われると、孝一は喉の渇きを覚えた。確かに、先程から結構話したし、普段出さないような声量の声も出した。そうなると、必然的に喉が渇く。

それは、結衣も同様だった。

「確かに喉渇いたかも。確か公園の出入口に自動販売機がありましたよね?」

「買って来るよ。何がいい?」

 孝一は立ち上がり、姉妹に何が飲みたいかを尋ねる。

「いいよ、自分で買うから」

「そうです。別に飲み物買えるお金ぐらい、ちゃんと持ってますよ」

 そう言う二人に孝一は、首を横に振った。

「今日は、俺の都合で集まってもらったんだから。これくらいはさせてくれ」

 孝一は今日来てくれた二人には、心から感謝している。仮にココで飲み物を買わなくても、何かしらの礼はするつもりでいる。

だからこそ、彼は彼女達に奢らせてくれと提案した。

 最初は渋っていた彼女達だったが、その孝一の熱心さに負ける形となり、飲み物を奢られる運びとなった。

 孝一はコーヒー、香澄はレモンティー。そして、結衣はコーラと言う、面白い程全員が全員違う物を飲んでおり、結衣以外はホットだった。三人はベンチに座ったまま、無言でそれぞれの飲み物を口にしていた。

それは飲み終えたら今日の話は、もう終わりだと言う事を意味している。言うなれば、映画のエンドロールのようなものだ。

 少々名残惜しいが、コレ以上を求めるのは贅沢であると孝一は考えて、特に何かを考えず、ただ純粋にコーヒーの味を楽しんでいた。やがて、彼のコーヒーの残量が半分を切った頃、結衣がふいに言葉を発した。

「それにしても今日は、何から何まで先輩にしてやられた気がします」

「そんな事は……」

 否定しようと孝一が口を開けた時、香澄がすかさず手を挙げた。

「あ、私もそう思う」

 過半数の票を取られては孝一は何も言えない。困った顔をしつつ、残り少ないコーヒーを飲み干そうとスチール缶を傾ける。

「そうだ、良い事を思い付いた」

 誰かに向けて言ったのではなく、独り言だとはっきり分かる結衣の呟きが孝一に耳に届く。彼女は孝一に向かって何かを企んだ顔を見せる。

「先輩、目を瞑って下さい」

「え? どうして?」

「いいから早く。さっき自分は同じ事を人にやらせたでしょ」

 それを言われると返す言葉がない孝一は、結衣の指示に従って、目を瞑った。

視界は消えて、瞼から透けて見える夕焼けの明るさだけが分かる状態となる。

それ以外は何も見えない中、姉妹の声だけが孝一の耳に入った。

「お姉ちゃん、ちょっと立って」

「え、うん」

 香澄の事をお姉ちゃんと呼ぶのを孝一は初めて聞いた。返事をした香澄も声の調子から驚いているようだ。是非、声だけではなく、二人の表情も見たいモノだと彼は少々悪趣味な感想を抱いた。

 足で砂を引き摺る音が聞こえる。

 二人が立ち上がったようだ。それから、孝一から距離を取ったらしい。両端に感じる人の気配が遠くなったのだ。

 コソコソと二人が話しているのが聞こえる。孝一を意識して、声量を抑えているようで、彼には彼女達の会話は聞き取れない。

 孝一の心拍数は微かに上がっていた。視界を封じられるというのは、どれだけ時間が決して慣れはしない。今はまだ、夕焼けの明るさを感じる事が出来るから、この程度で済んでいる。仮に夜だったら、この赤い光すら失われて、途端に黒い世界が彼を覆ってしまう。

 ザッザっと二人の足音が聞こえて、今よりも更に遠ざかっていくのを感じて、孝一はこのままここに置き去りにされるのかと一瞬不安に思ったが、あの二人はそんな事はしまいと理性が彼の瞼を上げるのを押し留めた。

 孝一は暇潰しに頭の中で時間を数えて一体何秒で二人が帰って来るのか計る事にした。数が百を超えて三百を超えようとした時、またザッザっと足音が聞こえて二人が戻って来たのを知らせた。彼は思わず安堵のため息を盛大に吐く。

「ゴメンね、一人ぼっちにして」

 香澄の声が聞こえる。孝一はつい反射的に瞼を開けた。しかし、目を開いた彼の視界が今度は真っ暗になる。

「はいはい、先輩。もう少しですから、あとちょっと我慢して下さい」

 結衣の右手が彼の鼻から上に押し当てられて、視界を封鎖したのだった。仄かに彼女の手からは甘い香りがする。

「分かった。目は閉じてるから、手をどけてくれないか」

「ダーメ、孝一君の視界は完璧に見えなくしないと」

 孝一の提案に答えたのは手を押し当てている結衣ではなく何故か香澄だった。

「そういう事です。素直に諦めた方が賢明ですよ」

「みたいだな」

 孝一は諦めて姉妹二人にされるがままとなる。これがつい数時間まで険悪だった二人の会話とは傍から見たら信じられないだろう。この息の合い具合はやはり姉妹なのだ。

自分の視界を完全に封じて、この二人は一体何がしたいのだろう?

 孝一が今更ながらそう疑問を持った、まさにその時だった。

 彼の唇に誰かの唇が押し付けられた。

 人肌程度の温もりを持った柔らかな弾力のある唇が、孝一の唇と衝突する。

 成程、視界を封じたのはどちらの唇か分からせないようにする為だったと、孝一は、姉妹の奇妙な行動の意図をようやく知る。

 確かに視界を封じれば、どちちがキスしたのか分からない。しかし、それだけでは、また詰めが甘い。彼女達はあるミスを犯していたである。その事に本人達はまだ気付いていない。気付いているならば、こんな単純なミスはしないからだ。

 孝一と接触した唇には微かにコーラの風味が付着していた。

 それだけでもう犯人は分かる。孝一が二人の飲み物を買ったのだ。コーラを飲んでいたのはどちらか、彼が知らないはずがない。

 わざわざ時間を作って作戦を練ったようだが、単純な一つのミスで全てが無意味と化した。出来損ないの手品の種を見破った孝一は、これから自分はどう動いたものかと思案する。

知らないふりをして戸惑うか。

それとも見破った全てを彼女達の前で話すか。

 孝一はそれぞれの選択での今後を頭の中でシミュレートする。結果、彼は前者を選択する事にした。何も知らないふりをして、視界が回復したら驚くのだ。

 ワザとらしくならないようにだけ気を付けていれば、難易度は高くない。

孝一は視界を封じている彼女の手が外れるのを今か今かと待ち構えていた。彼の中で演技の予習はあらかた終わっている。

 やがて、彼を抑えていた手がゆっくりと離れていった。

孝一は視界を遮る手が亡くなっても、一応未だに目を瞑っていた。遮蔽物が顔から離れた事で、外気の寒さを新鮮に感じる。

「先輩、いつまで目を瞑ってるつもりですか? もう開いてもいいですよ」

「じゃあ、開けるぞ?」

 多少動揺した声色を演じつつ、孝一はゆっくりと瞼を開ける。

 目を開けた孝一の正面には悪戯的な笑みを浮かべた香澄と結衣が立っており彼を見下ろしていた。孝一は彼女達の顔を見上げて、それから自然な動作で二人が持っている飲み物へと視線を向ける。簡単な答え合わせのつもりだった。

しかし、そこで彼は演技ではなく本当の驚いた顔となる。

「あれ?」

 孝一の視線の先を見て二人は声を上げて笑っていた。

「孝一君? どうしたの、そんな鳩が豆鉄砲食らった顔して」

「そうですよ、先輩。いつもの先輩らしくありませんねぇ? どっか具合でも悪いんですか?」

 孝一は二人の言葉に返事をしない。代わりに大きく溜息を口から吐いた。

その反応は姉妹二人の機嫌を上昇させるには充分だったらしく、更に上機嫌な顔になる。心なしか二人揃って頬が若干林檎色であった。

「やられたよ」

 孝一は苦笑しながら二人にそう言った。

 姉妹がその手に持っていたのは二人共コーラだったのだ。

 これでは、どちらが犯人か孝一には判断が出来ない。先程まで得意気になって二人の企みを見破っていたと勘違いしていた自分が無性に恥ずかしくなり、彼は再度溜息をついたのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ