「八章 成長の仕方」
「八章 成長の仕方」
大切な女性との関係性を失った。これまでの孝一の人生で友人間の縁切りの経験は少なからず存在したが、今回はそれらとは違う。だからこそ、受けるダメージは友人の時よりも遥かに大きかった。この大切な女性と繋がりが失われる経験を孝一は、一度香澄と別れた際に経験している。
一年前、突然香澄から別れようと言われた。特に喧嘩をしてもいないのに、一方的に別れを告げられた孝一は酷く混乱した。喧嘩をしていないと言う事は、マイナススタートではない。誠意を持って話せば、きっと分かり合える。そんな自負が彼にあった。電話やメール、直接の話し合いを幾度も重ねて、関係を修復させようと試みた孝一だったが、一度決心した彼女の気持ちは固く強い。
どれだけ原因を孝一が尋ねても、「ごめんなさい……」っと辛そうに頭を下げるだけで、詳細を教えようとはしなかった。次第に孝一は香澄の悲痛な表情を見る事が出来ず、結局その真意を知らぬまま、別れる運びとなった。しかし、今の孝一には、やっと答えが分かった。あの日の電話では言わなかったが、状況やタイミングから考えて、結衣が絡んでいるのは間違いない。
その約一ヶ月後、孝一は新城結衣と付き合い始める。
学年が違う事に加えて、部活に入っていない二人が出会いのきっかけ委員会。孝一が特に深い考えはなく、放課後が比較的自由に使える事、クラスの他の連中が部活動をしている為に、自分に白羽の矢が立ったと言う理由だけで、図書委員会に所属した。そこで孝一は結衣と出会う。
図書委員会の仕事は、基本的に放課後の図書室で司書の真似事である。
本職の司書は奥の司書室にいる為、図書委員が貸出返却カウンターを担当する。五分で覚えられる作業の他には特別仕事はない。せいぜい最後に、日報と書かれた大学ノートに日付と担当者の名前を記入するだけである。
なので図書委員は、貸出返却カウンターに座りながら、カウンターの上で内職を行っている。勉強をしたり本を読んだり様々だ。基本的に作業さえ、問題なくこなせば、後は何をしても良い。奥にいる司書は図書委員の内職に一々、口を挟んで来ず、初回の作業説明以外は放任主義を貫いていた。
孝一もその例に漏れず、よく文庫本を読んでいた。
図書室でカウンター当番を行う委員は、原則として二人組。その構成はクラス又は学年が違う生徒一人ずつで選出される。図書委員同士の交流及び、同クラスで私語を生まない為にこのような選出方法となっていた。相手が決まったら、欠席以外で変更はない。一週間、毎日放課後に顔を合わせる事となる。
元々、私語厳禁の図書室。特に放課後は、シャープペンシルがノートを走る音やページを捲る紙の音しか聞こえない。そんな空間で、好き勝手に話す事は難しい。加えて相方が知らない生徒となれば、自然と会話はない。最初と最後の作業会話以外は、互いに顔を合わせる事なく、内職をしているのが常だ。
孝一が結衣と初めて当番を組む時、下級生の名前など知る由もない彼はクラスだけを述べる簡素な自己紹介の後、「よろしく」っと短い挨拶のみ交わして、この時間用に準備した文庫本のページを開いていた。
この時、向こうからの挨拶はなく会釈だけだった。孝一は上級生と接しているから、緊張しているのかも知れないと考えて、彼女に名前を尋ねなかった。知らなくても、図書委員の仕事に大した支障はない。
孝一が結衣と会話したのは、その日はそれと最後のお疲れ様のみである。この事から、初対面の結衣の印象は孝一には薄い。まだ彼女の顔をぼんやりとしか記憶出来ず、廊下がすれ違っても気付かないくらいだった。
結衣の顔がハッキリしてきたのは、彼女から話しかけてきたからである。
夕日が差し込み、遠くから吹奏楽部の練習の音と運動部グラウントを走る掛け声が混じり合う放課後独特の学校風景。図書室には数人の生徒が机にノートを広げていた。彼らの様子だと本を貸出に来る事はないだろう。
先日から始まった図書当番は、定期テストのシーズンと重ならなかった事が、幸いして人も少なく仕事もない。まさに、理想の状態だった。
彼は隣に座っている後輩の女子を一瞥して勉強しているのを確認してから、文庫本のページを捲った。孝一は昨日、この後輩の女子と三行以上の会話をしていない。彼女は昨日も内職に勤しんでいた。誰かから、図書委員の役得を聞いたのだろう。少しも隠す事なく、堂々とカウンターに勉強道具を広げるその姿勢は、一年生にしては中々だった。孝一は内心そう感心しつつ、口には出さなかった。
シャープペンシルが紙の上を走る音と、文庫本のページを捲る音が、カウンター内で会話をしているだけで、人間間での会話は交わされない。
それが一時間程続いて、閉室まで残り三十分となった時、隣で自分の勉強道具を広げていた後輩の女子がふいに手を止めて、こちらを向いた。
「図書委員って本当に自由なんですね、これは勉強が捗ります」
「基本的にやる事は店番だから。去年、図書委員だった奴に聞いたけど、少ない時は一週間に四人ぐらいしか利用する生徒はいないらしい。忙しくなる事はまずないって。せいぜい閉室の時に日報と本を棚に戻すのが仕事らしい仕事だな」
「私、高校生になって勉強が遅れないよう放課後に少しでも復習する時間が欲しかったんです。それを先生に話したら図書委員を薦めてくれて、実際にココに座るまで半信半疑だったんですけど、本当ですね」
「勉強したいなら最高の環境だと思うよ。静かだしエアコンも効いてる。集中するにはもってこいだ。下手したら家より捗るかも知れない」
孝一が勉強環境を推奨すると、この後輩の女子にはそこまで言って、自習をせず文庫本を開いている彼が不思議に見えたらしく首を傾げた。
「ところで、先輩は勉強しないんですか?」
「しないね。するとしたら、余程の時だ」
「どうして?」
「ココで勉強するのって余り身にならないから。まあ、俺の場合に限ってだから、深く考える必要はないよ。ほらっ、勉強する時に音楽を聞きながらの方が集中出来る人っているだろう? あれと近い感じかな? 部屋で一人の方が集中出来るタイプなんだ」
「でも、さっきは勉強したいなら最高の環境だって……」
先程絶賛したくせに自分は否定する。その奇妙な態度に後輩の女子はもっともな疑問を投げかける。孝一は彼女の言う事を否定せず、「うん」っと言って、一回頷き、同意する意思表示をして言葉を続けた。
「さっきはあくまで一般論。人にはそれぞれ最適な勉強法があるだろう? それが僕の場合は図書室で勉強する事じゃない。そういう意味さ」
孝一がそう話すと、彼女は五秒程の間を置いて吹き出した。図書室と言う静寂が要求される環境を配慮してか、口に両手を当てて栓をしている。それでも、そこから漏れだした小音量の笑い声が、孝一の耳に入ってくる。彼には彼女が笑った理由が分からない。そんなに面白い事を話した自覚はなかった。
「何か面白かった?」
「ごめんなさい、先輩って変わってる人だなぁって」
「そう? 普通じゃないかな」
「それに賢そうだと思ってたけど、実際そうなんですね」
孝一はそう言う彼女の根拠が今尚、理解出来なかったが、取り敢えず褒められている事には変わりないと判断して、「ありがと」っと短く礼を言った。
「いえいえ、どういたしまして。あっ、自己紹介が遅れました。私、一年二組の新城結衣っていいます」
「俺は二年……あ、クラスは昨日言ったね。塚野孝一です。これから一週間改めてよろしく、新城さん」
「こちらこそ、お願いします。塚野先輩」
二人は頭を下げ合った。ココが孝一の結衣に対して覚えている始まりであり、この日の帰り道。二人は携帯電話の番号とメールアドレスを交換した。
――懐かしい。孝一は最近訪れる機会の無かった図書室に入り、大量の本が放つ独特の紙の匂い中で当時を振り返っていた。
図書委員と言っても、自分が当番で無い時は、やはりココに立ち寄る用はこれまでは滅多にない。それなのに彼は最近、訪れる頻度を飛躍的に上げている。
思い出した結衣との会話にある、一週間に四人程度の貸出利用者の一人になってしまった事に内心、苦笑を隠せないでいる。
そろそろ貸出カウンターにいる図書委員に顔を覚えられているだろう。そんな事を考えながら、彼は貸出カウンターへ足を向ける。
貸出カウンター奥にある取り置き棚に自分の注文本がある事を確認した孝一は、カウンターで内職中の図書委員に声をかけて注文本を借りた。
孝一が二人との関係性を失ってから、約三週間経過している。その間、彼はずっと読書をしていた。元から読書好きではあるが、高校生の少ない小遣いでは、そんなに何冊も本が買えない。なので、必然的にお金のいらない図書室の本に手を出すようになったのである。
授業が終わり、放課後になると図書室で本を借りて帰る。
それが最近の孝一の学校生活におけるローテーションである。
周囲には結衣との交際は誰にも話していない。その為、彼女と別れても特に誰かに言われるような事はなかった。
中間テストも消化されて、次の期末テストまでは目ぼしい学校行事は来月の下旬に行われる文化祭である。最近ようやくクラスで何をやるかを簡単なアンケートで決めた段階であり、やっと微かな現実感が湧いて来た程度である。この現実感が存在を強く主張し始めるまで、まだ幾らかの時間を要するだろう。
現段階では、何かの衝撃ですぐに消えてしまいそうな空虚感がクラスを漂っている。まるで何かと何かの間に生まれた、休憩時間のような毎日だった。
孝一はその休憩時間をずっと読書に費やしている。
特にゲームやスポーツと言った娯楽をしない彼にとっては唯一の趣味である、読書が余暇の使い道だった。飯田を始めとした友人と遊びに行くのも勿論、嫌ではないが、金銭的観点から、そう何度も行く事はなかった。
孝一は何かから逃げるように、次々と本を消化していった。読書途中の本が最終章に入る頃には、次の本を用意する。彼の読書のレールは決して止まる事なく走り続ける。少し急いでいるかのような印象を持たせるその読書姿勢は、前に呼んだ本のストーリーを正確に覚えているかと問われると怪しい。
自分の中に既読本の感想を蓄積していくのではなく、むしろ読み捨てていると言った方が表現に間違いがない。こんな雑な読み方をしていては、身にならないのは勿論の事、何より作者に申し訳ない。
本来ならば、絶対読まない読み方をしている自分に嫌気が差す日々が、彼の心に少しずつストレスを積もらせていく。読めば読む程ストレスが生まれるなど、普通はあり得ない。その時点で読書を止めたら良かったのだが、他に縋るモノがない孝一は本のページを捲り続ける。
そんな無駄としか言えない毎日を送っていた事である。
金曜日の放課後。その日、最近の孝一にしては珍しく、意味のある読書をしようとしていた。彼が大変贔屓にしている作家の新刊の発売日なのだ。だから、普段と違い、図書室で借りて済ませるのではなく、現金を使って書店で本を購入する。そんな当たり前の行動が、随分と久しぶりで少々緊張する。
名月高の最寄り駅付近には、書店がないので、孝一はいつもの繁華街まで足を運ぶ。金曜日の夕方、この時間は繁華街にはやはり人が多い。早くも週末をフライングしているサラリーマンを対象としているのか、あちこちの居酒屋が大きな看板を派手に点灯させていた。人工色の強いカラフルな電飾は孝一の目をチカチカさせる事に加えて気分を悪くさせる。
孝一は逃げるように居酒屋が並んでない反対方向へと向かう。
改札から出てそのまま地下のショッピング街へと足を運んだ。沢山の洋服店や雑貨店が立ち並ぶ通りに地上から地下まで四階立てにもなる大型書店がある。そこは彼が主に放課後に本を買う際に寄っている店である。店内に入ると、図書室とは違う綺麗な紙の匂いが鼻に入る。
金曜日のせいか、客がいつもより多かったので、目的地の文庫本のコーナーまでの道のりが少々面倒だった。けれど、ココまで来たのだから、行かない訳にはいかない。目当ての品はすぐそこにあるのだ。孝一は、手前の雑誌コーナーで本を立ち読みしている人に片手を上げて後ろを通る。その際、立ち読みをしている一人の女性からクラっとする強烈な香水の香りを浴びて、顔が歪んだ。
それでもどうにか、目的地である文庫本コーナーまで辿り着く。
文庫本コーナーは棚が左右に分かれて、横向きで並んでいる。また、出版社毎に綺麗に区画整理されているので立ち読みされ過ぎて雑多になった雑誌コーナーの雑誌よりも清潔さがあった。
孝一はこの綺麗に並べられた棚のどこに何の出版社の本があるかを把握している。よって、いちいち棚の側面に張られたゴシック体の表札に視線を向ける事なく、一直線に進んだ。
文庫本コーナーの手前から三番目と四番目の通路に体をスライドさせる。通路には雑誌コーナーとは打って変わって、人の姿は無かった。良かった、これでスムーズに事が運ぶ。孝一は思わず安堵のため息をつく。
彼は手前の本棚に体を向けて視線を落とした。今日が発売日な文庫本は、棚にも入っているが大抵は平積みになっている。つまり、山積みにされている中から、一番綺麗な状態のモノを買う事が出来るのだ。
これこそ、発売日に書店に足を運んで買う事が出来る読者の特権だと孝一は考えている。直接家に届く通販じゃこの特権は味わえないし、中古書店だと基本的に作者順に無造作に突っ込まれており状態が酷いモノも多い。
久しぶりに現金を使って買う行為につい緊張していたのが懐かしい。そう感じる程、彼にあった緊張感は完全に霧散して、消え去った。そのスペースを今度は、高揚感が埋め尽くしていく。
沢山の本が高層ビルのように並んでいる。孝一は平積みの列を端から順番に表紙を眺めて、記憶にあるタイトルと表紙を捜索する。そして丁度平積みになっている長い列の半ば辺り、本日発売と書かれた小さなPOPを背に目当ての文庫本があった。
記憶と合致した本と目が合った瞬間、自然と頬が緩んだ。今日一日、この瞬間の為に頑張ってきたのだ。週末の予定はない。どっぷりと読書にのめり込める。孝一が平積みになっている文庫本の、上から四冊目を抜き取った。
本の天地と小口に、傷や汚れがないのを確認した後、レジに持って行く。
文庫本のスペースの細道から出て、レジ前まで行くと自分と同じように手に本を持った客が列を作っていた。中にはカゴに大量の本を入れている客もいる。孝一は四、五人程が並んでいる列の最後尾へと並んだ。
大きい書店なのでレジの数も多く五台程設置されている。現在、その全てに客がおり、空いた所に並んでいる次の客が順次入るシステムだった。並んでいる人数、稼働しているレジの台数から、孝一の番はすぐにやって来るだろう。彼は、ズボンの後ろポケットから財布を取り出して会計に備える。
その時、誰かが後方から孝一の肩をトントンっと二回規則正しく叩いた。
油断していた時に体を触られた衝撃が体中を駆け巡った。
両肩がビクッと一センチ程跳ねた後、孝一はゆっくりと振り返る。振り返りながらも、肩を叩いたのは結衣ではない、そんな事は絶対にあり得ない。
そう自分に言い聞かせていたが、それでも規則正しく二回叩くと言う覚えのある振動が彼にラー油一滴程の期待を抱かせていた。
「や、孝一君。奇遇だね~」
「香夏子さん、こんにちは」
孝一が振り返った先にいたのは、山科香夏子だった。一瞬でも抱いた結衣ではなかった事に、安堵と僅かな悲壮感を持ちつつ、孝一は彼女に挨拶をした。
香夏子とはあの日以来、会っていない。さらに言えば、グリーンドアの外で会う事も初めてであり、書店で出会った事に奇妙な違和感があった。
「孝一君一人? 今日は香澄ちゃんはいないの?」
香夏子の質問に微笑んで頷く。
「ええ。今日は一人です。欲しい文庫本の発売日なので、放課後にココへ買いに来ました」
「へぇ~。どんな本?」
孝一は持っている文庫本の表紙を香夏子に向ける。
「『灰色城に住む少女』ファンタジーかぁ。何か意外。孝一君ってミステリーとか読むのかと思ってた」
「ミステリーも読みますよ。ただ、この作家はずっと追いかけてる作品なので、新刊が出るとつい買っちゃうんです。お小遣いも少ないのに……」
「あははっ! しょうがない、高校生だもんね~。それ、お姉さんが買ってあげようか? 私も丁度買う本あるし」
香夏子はそう言って自身が買う本を孝一に向ける。
彼女が見せて来たのは分厚い専門書だった。
「香夏子さんの方こそ意外です。専門書とか読むんですね」
言った後で失礼だったと小さく口を開けて後悔する孝一。そんな彼の心境を察したのか香夏子は首を横に振る。
「孝一君の意外は正解。これは、大学のレポートを書く課題でどうしても必要だったの。本当は図書館で借りて済ませたかったんだけど、先に借りられちゃった。だから友達と割り勘で買う事にしたんだ。この前お父さんに貰った図書カードのポイントで大分安くなるから」
「大学生って大変そうだなぁ」
「大変だよぉ~。高校生の孝一君が本当羨ましい。君達を見ていると、私もあの頃に戻りたくなるよ。それで、どうする? その文庫本。図書カードの分お金が浮くから、私は困らないけど?」
「ごめんなさい、折角ですけど、遠慮します」
孝一は香夏子に頭を下げる。今日は、別に誕生日でも何かの記念日でもない。
そんな普通の日に彼女に買って貰う理由など何一つない。
「そっか。じゃあ、しょうがない」
香夏子は孝一の断りに簡単に受け入れて、笑顔で一回頷く。
そうこうしている間に並んでいる自分の番が来たので、孝一はレジまで行き、代金を払って文庫本を購入した。手馴れている女性の店員にビニール製の手提げ袋に文庫本を入れて貰って通学カバンに入れる。自前のブックカバーを持っているので、店のを付ける必要はない。これで週末の楽しみが出来た。会計を済ませた孝一はレジから離れる。途端、次の客が孝一のいた場所にやって来る。
真後ろにいた香夏子は別のレジに行ったらしく、今来た客ではなかった。
最後に香夏子に挨拶をしようと思って、彼女の会計が終わるまで、その様子をレジから少し離れて待っていた。彼女の会計が終わったところで、孝一は彼女に接近する。彼が接近した事に気付いた香夏子は、彼が挨拶をするよりも先に口を開いた。
「孝一君、お店以外でお話出来て今日は楽しかった。またいつでもお店に遊びに来てね」
「はい、また遊びに行きます。では、失礼します」
「うん、バイバイ」
孝一との挨拶を済ませて香夏子は手を振って出口まで歩き始める。離れて行く彼女の背中を見つめながら、孝一は最後に彼女の言った言葉の意味を考える。
香夏子はあの日、グリーンドアにいるのだ。当然、香澄と結衣を知っている。あれ以来、一度も店に行ってない現状が何を意味するのか。聡明な彼女は充分に承知しているだろう。
なのに、孝一から言わない限り香夏子からはその件について、今、一切触れて来なかった。今日は孝一だけに会ったのだから、詳しい事情を聞く絶好のシチュエーションである。それでも彼女は聞いてこなかった。
両親や友人に頼れない問題を話せる唯一の人物。頭の回転が速く気配りが上手であり、きっと話せば孝一が想像もつかない方法で解決へと導いてくれる。
向こうから聞いてこないのなら、こちらから話せば良い。
香夏子に相談しよう。っと孝一はそう決めた。
もう大分離れてしまった彼女を見失ってしまう前に足を動かす。何とか孝一が追い付いた時は、もう出口のドアの前だった。大通りに出られたらもう捕まえられない。ドアを彼女が開ける前に孝一は右手を伸ばして彼女の服を掴む。掴まれた事に反応した彼女は振り返る。
「んっ? どうしたの孝一君」
「香夏子さん、実は相談があるんです。今、時間ありますか?」
「今? う~ん。無い事もないけど……」
珍しく歯切れの悪い香夏子。もし、他に予定があるのならそちらを優先して貰って構わない。自分の為にわざわざ時間を作らせるのは申し訳ない。孝一は首を横に振った。
「香夏子さんに予定があるなら、無理はしないで下さい」
「そ~だねぇ~」
香夏子は腕を組み目を瞑って「うーん」っと唸る。
孝一が暫く待つと、間もなく香夏子は一回頷いて目を開けた。
「うんっ! 大丈夫っ!」
「本当ですか?」
自分から誘ったは良いが、予め約束せず、いきなり時間はあるかと尋ねてしまった事に、若干の後悔が出始めていた孝一は、香夏子に再認を取る。
孝一に聞かれた彼女は笑顔で答える。
「大丈夫大丈夫」
香夏子がいつもの口癖を言う。それを聞いて大丈夫そうだと確信した孝一は、安堵した。孝一が安心した様子を見て、香夏子はドアを開ける。
「じゃあ、ちょっと付いてきてくれる?」
「あ、はい」
香夏子に言われて、二人は書店から出る。ショッピング街には大勢の人で埋め尽くされていた。入った時より人が多いと感じるのは、時間が遅くなっている事を証明している。孝一は、左腕に付けている腕時計で時間を確認する。もう夕食時の時間だった。
二人は書店を出て、ショッピング街を通り中央ホールまでやって来た。
「ゴメン、孝一君。ちょっと待ってて」
「分かりました」
香夏子は孝一を中央ホールに残して、四隅にある白い支柱にもたれている男性に駆け寄って行った。
そこで初めて、孝一は香夏子が誰かと来ていた事を知った。なら、先程は大丈夫だと言ってくれたが、やはり無理なのではないか。一度は消えた不安が再び浮上し始める。香夏子は支柱にもたれている男性に孝一の事を話していた。時折、二人の視線が彼へと向けられる。
しばらく待っていると、香夏子が孝一の方に戻って来た。
「お待たせ、孝一君。さ、おいで」
「えっと、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫。今、了承を貰ったから。紹介するね」
想定外の展開になってきてしまった。そう思いつつ、孝一は香夏子に言われるがまま白い支柱までやって来て、もたれている人物の目の前に立つ。緊張しつつも、孝一は彼を見た。
身長は孝一より頭一つ分高い。半分耳が隠れている程度の長さの黒髪。
細いメタルフレームの眼鏡の奥から覗く二つの瞳は孝一を真っ直ぐに捉えていた。黒いトレンチコートも相まって雰囲気が完全に高校生ではない。
歳上なのは間違いない、恐らく大学生だろう。香夏子と同じ大学に通っていると言ったところか。孝一はそう相手に感想を抱いた。
二人の間に立った香夏子が孝一を紹介する。
「えっと、この子がさっき話した塚野孝一君。グリーンドアによく彼女とコーヒーを飲みに来てくれる常連さんで、高校生の男の子」
「初めまして、塚野孝一と言います」
紹介された孝一はペコリと頭を下げて彼に挨拶をする。相手の男性は笑顔で口を開いた。
「初めまして孝一君。俺は月原昴。香夏子の彼氏をやってます」
昴が右手を伸ばして来たので、孝一も右手を伸ばして握手を交わした。
「あの……、本当に今日はいきなりすみません」
孝一は手を繋いだ状態で、香夏子との時間を奪ってしまった事を謝罪した。
すると、昴は首を横に振る。
「構わないさ。それに、君の話は香夏子から良く聞いてるよ。俺も今日は会えて嬉しい。だから変な緊張をしなくていいからな? 友達と接する感じで話してくれていいよ」
「俺の話、ですか?」
一体何をどういう風に話しているのだろうか。気になった孝一は香夏子を一瞥する。孝一からの視線を感じた彼女は笑顔で手を左右に振った。
「変な話はしてないって。ただ、ウチの可愛い常連さんの話をしてただけ」
「そこは俺が保障する。ああ、別に彼氏の贔屓目って訳じゃない。彼女、馬鹿じゃないからね。話す内容はきちんと選んでる。思い付きで何もかも話すような子じゃない。それは、孝一君だって分かってくれてるだろう?」
「ええ、それは」
同意を求められて孝一は頷いた。やはり、香夏子の彼氏と言うだけあって、昴も彼女の事を相当理解している。
「さて、それでは互いの自己紹介も済んだトコロで行きますか? 悩める高校生を救ってあげようの会。出発~っ!」
「えっと、ドコにですか?」
「えっ、う~ん」
孝一の問いに香夏子は再び腕を組んで悩み始める。
昴も顎に手を当てて、最適な場所を探してくれているようだ。孝一もこの辺りで相談出来るような場所はないかと考える。すぐに最近よく行っている、あのチェーンの喫茶店の店内画像が頭に浮かんだが、すぐに却下した。
あそこに喫茶店の娘を案内するのは、恥ずかしい。普段、ウチ以外ではこんなコーヒーを飲んでいるのかと思われてしまい兼ねない。それくらいに、グリーンドアとあのチェーン店では味に差が出ているのだ。
かと言って、この街には落ち着いて話せるような店は基本的にない。探せばあるだろうが、時間のかかる事を二人に付き合わせるのは申し訳ない。
仮にこの街のドコかの落ち着ける喫茶店を運良く探し出せたとして、そこでの話を、偶然居合わせた誰か学校の連中に聞かれてでもしたら、色々と面倒になる。そう言った意味も含めて、この街は向いていない。
「孝一君、ドコか良い場所を知ってるか?」
孝一が悩んでいると隣にいる昴がそう聞いて来た。彼もまた場所を決めあぐねているようだ。孝一は苦笑しつつ、答える。
「うーん。中々良さそうな場所が頭に出てきませんね」
「だよねぇ。ウチの店はお父さんがいるからなぁ」
「あー」
香夏子に言われて孝一はグリーンドアの店内映像を思い浮かべる。話をするのには、最適な立地なのだが、如何せん店員が問題だ。このメンバーで店内に入って香夏子の父親である純一郎が話に入って来ないはずがない。
「昴のアパートは?」
香夏子が考えている昴にそう提案する。
「別に俺は構わないけど……」
昴はそう言って孝一を一瞥する。視線を向けられた孝一は、首を横に振った。
「流石にそれはちょっと……」
今日いきなりあった人の家に気軽に行ける程、孝一の精神は太くない。それが、香夏子の恋人なら尚更だ。
「まあ、確かに孝一君の気持ちも分かるよ。じゃあ、俺のアパートはダメだな。同じ理由で孝一君の家もなしの方向で」
「助かります」
「っとなると……。う~ん、中々難しいね」
一見すると、そんなに困るような問題でもない。店自体はこの街のどこにでもある。
なのに条件を限定するだけで、途端に難しくなってしまう。孝一は胸に罪悪感が充満していくのを感じた。今、目の前にいる二人は、自分と会わなければ、このままデートをしていたはずなのだ。
それを自分の我儘で潰してしまった挙句、珍妙な問題で悩ましてしまっている。果たして、自分が相談しようとしている事にそこまでの価値があるのだろうか。自問自答しても即答出来ないのは、所詮その程度だと証明しているに等しい。
そうだ、何も直接会って相談する必要性など元から存在しない。電話でもメールでも相談は可能なのだ。無論、どちらも相手の時間を奪ってしまう点では、直に会うのと変わらないが、それでも場所の問題をクリア出来るのは大きい。孝一はそう考えて、今日はもう止める旨を(自分から話しておきながら身勝手なのは重々承知している)伝えようと口を開いた。
「あの……」
その時だった、「あっ!」っと言って香夏子が両手をパンっと叩いた。その響いた音に、孝一の声は掻き消されて無かった事にされた。
「すっごく良い所があったっ!」
「ドコ?」
昴が尋ねると、香夏子は得意気に答えた。
「私の部屋っ!」
「はっ?」
香夏子のその言葉に孝一は思わず、変な反応してしまった。幸い、声量が小さかったので、二人の耳には届いていなかった。昴は香夏子の提案を受けて納得したように二、三回頷いている。
「成程。確かに、条件は全てクリアしている場所だ」
「でしょ? グリーンドアが開いてる時間は、お父さんはまず家には上がらないから。私の部屋に入れば誰にも見つからないって訳。孝一君も良いよね?」
「いや、良いよねって言うか……。問題ないですか? 俺が入って。せめて香夏子さんの部屋じゃなくて、リビングとかにしません?」
「あー。ほら、リビングだと万が一。お父さんが何か物を取りに来たりとかしたら、会っちゃうじゃない? そしたら色々面倒だよ。その点、私の部屋なら大丈夫。ドアに鍵だって付いてるし」
「でも……」
孝一はそう言って、昴の顔色を窺う。流石に彼氏の前で彼女の部屋に入るのは良くないのではないか。そう考えたのだ。無論、二人からしたら、そんな事は余計な気遣いなのかも知れないが。
目が合った昴は、すぐに孝一が何を言いたいのか察したらしく、「ああ」っと言って頷いた。
「余計な気は遣わなくていいよ。俺も香夏子の案に納得した口だからね。あそこなら丁度良いから」
「……分かりました」
孝一が頷いて納得したのを見た香夏子が「よしっ!」っと笑顔で頷く。
「じゃあ、そうと決まったら出発っ!」
「はいはい」
苦笑しつつ香夏子の隣を並んで歩く昴。孝一はそんな二人を後ろから追いかける。目的地は、グリーンドアの上階にある山科家だ。
グリーンドアまでの道順は熟知しているので、孝一は見慣れない景色の中を歩く事はない。いつものアーケード街を歩いて、端を右に曲がる。後は横断歩道を渡るだけ、渡り切ったそこにあるのはレンガ造りの小さな喫茶店、グリーンドアだ。そして今回は店名の象徴となっている緑色のドアを開けず、その左にある緑色の金属性の階段を上る。階段の下にゴシック体で山科と書かれた赤いポストがあり、上がる前に香夏子は中を開けて郵便物を何通か取っていた。
グリーンドアを営む山科一家は店の二階に住んでおり、店の横にある階段を上がれば家に行ける。孝一は以前からそれを知っていたが、上がった事は一度だってない。まさか自分が上がる日が来るとは考えてもみなかった。
前を歩く二人に続く孝一。緊張を知らせる寒気が腕から伝わってくる。カンカンっと軽快な金属音立てながら、三人は二階のドアに到達した。
ここが山科家の玄関ドアになる。勿論、このドアも下の喫茶店同様のデザインだった。違うのは、中央に山科と木製の表札が掛けられている部分である。
玄関のドアが下の喫茶店と同じなだけで、孝一の緊張をいくらばかりか解してくれた。香夏子が肩掛けの小さなポーチからデフォルメされた熊の人形のキーホルダーが付いた鍵を取り出して、ドアを開ける。すると、カランコロンと愛着のあるカウベルの音が孝一の耳に入る。外側には付いていない事から、内側に付いているようだった。
香夏子と昴が先に玄関に入る。二人が靴を脱ぐのを外で暫く待っていた孝一に香夏子が振り返って口を開いた。
「さあ、どうぞ」
「おっ、お邪魔します」
緊張して第一声がどもってしまったが、それを二人は指摘しなかった。内心安心しつつ、孝一は山科家へと足を踏み入れる。
山科家はそんなに広くない。一階のグリーンドアの真上にある時点で建物面積は大体想像が付く。玄関から入って、中央に大きな四角い木のテーブルが置いてあるリビングがあり、右側にある大きな正方形の窓は、外からでも見えていた。
それから奥に二つの部屋。片方には『香夏子』と可愛らしくフェルトで書かれた表札があり、もう片方には『仕事部屋』とブロック体で書かれた表札がある。リビングには、孝一の肩程度の身長の冷蔵庫があり、マグネットで貼り付けられた外国の城の写真が入っているカレンダーや、スーパーのチラシがある。
リビングの右側の壁にはA3サイズのコルクボードが掛けられており、いくつかの伝言メモが貼られていた。リビングの左の奥には通路がある。そこには、恐らくお手洗いや風呂場、洗濯をする部屋があるのだろうか。
山科一家が住んでいるこの場所に自分がいる事が孝一には不思議でならない。ココには香澄は来た事があるのだろうか? 不意にそんな疑問が浮かんだが、その答えを知る事は今すべき事ではない。孝一は自身が来た目的を改めて認識して、気を引き締める。
「二人共、先に私の部屋に入っといて。コーヒーを淹れてくるから」
「了解。じゃあ、待っていようか孝一君」
「はい」
孝一と昴の二人は、主より先に香夏子の部屋に入った。
中央に緑色の長方形のラグが敷かれており、木製のベッドと本棚。それと小さな窓が正面にある。緑色のラグの上には丸い透明のテーブルと座イスがあり、向かい側には足の短いコンパクトソファが置いてある。
木製のベッドと平行する位置には、白いデスクが置かれており、そこには赤いノートパソコンが置かれていた。そんなに広い部屋ではないが、居心地の良さがを感じる良い部屋だった。衣服等は、きっと壁のクローゼットに収納されているのだろう。特に部屋に散らかっている様子はない。
「それじゃ待ってようか」
昴はそう言って自身の着ている黒いトレンチコートを脱いで丸める。それを部屋の隅に置いて、彼は足の短いコンパクトソファに腰を下ろしていた。隣にはきっと香夏子が座るに違いない。そう考えて、孝一は反対側の座イスに座り、来ている上着を脱いで彼のように丸めた。
香夏子が来るまで何か昴と話した方が良いだろうか。少しでもコミュニケーションを取っておいた方がその後の話もより円滑に進むだろう。昴は孝一を知っていると言っていたが、逆に孝一は昴の事を何も知らないのだから。
「あの、月原さんは……」
「昴で良いよ。俺も君の事名前で呼んでるしね」
苗字で話しかけたら即訂正を求められたので、孝一は一回言葉を区切って改めて口を開いた。
「では昴さんは、香夏子さんとどれくらい前から付き合ってるんですか?」
「いきなりだね。えっと、高校生……。いや、違うな。俺が中学三年生の頃からかな? その時彼女は高校一年生だった」
「ずっ、随分前からなんですね……」
予想を超えた長い期間、二人が付き合っている事を知って、孝一は驚きを隠せない。そんなに前から付き合っているなんて、孝一は今日まで全く気付かなかった。一年前、香澄と頻繁にグリーンドアを訪れていた時だって、香夏子はそんな素振りを一切見せなかったのだ。驚いている孝一に昴は納得した表情で頷く。
「ああ。俺も長い付き合いだって思ってる。俺の周りでこんなに長い事付き合ってるカップルは聞かないからな。だから香夏子の事は何でも知ってるよ。彼女について聞きたい事ある?」
何でも知っている。長い年月を付き合っているからこそ言える昴が、孝一は羨ましかった。孝一は昴の言葉に甘えて質問する。
「香夏子さんって俺の歳の頃。つまり高校生の時はどんな感じでした? やっぱり高校生の時点で今みたいに頭の回転が速い人だったんですか?」
「全然。意外かと思うだろうけど今みたいな感じじゃなかったよ。もっと静かで必要な事以外は口に出さないってタイプ。あの頃は、付き合ってて一番苦労した時期でもあるかなぁ。喧嘩をした訳でもないのにね、二人になると意味もなく空気が重くなってさ。まっ、俺が高校受験の真っ最中だったのもあるだろうけど」
「そうだったんですか……。本当に意外です、そこからどうして現在の性格へ?」
「それは香夏子が憧れている人達の影響さ」
「憧れている人達? 歴史上の偉人か何かですか?」
具体的な想像が湧かず孝一は昴に尋ねる。昴は微笑み首を横に振った。
「そういうのじゃないよ。もっと身近な人達。けど、香夏子の中では恐らく今も二人は偉人のような存在なんだろう。もういないからな。亡くなったんだ……」
「あっ、すいません……」
興味だけで口が動き過ぎた。孝一は自分の馬鹿な発言に反省して頭を下げる。
彼が謝罪すると、昴は笑って手を左右に振った。
「そんなに気にしなくていいって。随分前の話だし。きっと二人が生きていたら同じ事を言っていただろうからね。まぁ、そこから紆余曲折あって、俺達はカップルとして何段階か上のステージに上がり成長した。それで現在に至るって訳」
「羨ましいです」
話を聞いて孝一は自分の感想を述べた。好きな相手と問題に衝突し、二人で一緒に乗り越えられたら、その先にはどう言った事が待っているのだろうか。
どんな成長が出来るのだろうか。
孝一は、それをまだ知らない。
自分が知らないから知っている香夏子と昴に憧れを抱いてしまうのだろうか。
先程、香夏子の高校時代は、彼女が憧れている二人の影響があったと言った。詳細は分からないし、きっと孝一が尋ねても昴は曖昧に話すだろう。
二人だけの世界の話なのだ。部外者である孝一が介入しようとしたトコロで、入れる箇所は限られている。だが、一つはっきりしている事があった。二人は、その人達の影響を受けて問題を解決して成長した。大人になったと言う事だ。
孝一が今だ経験出来ず、また常に求めて足掻いているそれを、二人は手に入れているのだ。そう考えると本当に心から羨ましい。
孝一は尊敬の念を込めて、もう一度昴に頭を下げた。
「貴重なお話ありがとうございました」
「いいよ。だって、この後は孝一君の話を聞くんだから。こちら側だけ君の事を知ってるってのは何か違うだろ?」
笑顔で昴がそう言った時、部屋のドアがコンコンとノックされた。
昴が反応して立ち上がりドアを開ける。ドアの向こうには、マグカップ三つを乗せたトレーを両手で持っている香夏子の姿があった。
「お待たせ~。コーヒー淹れたよ」
「ありがとう」
昴は自然な動作で香夏子からトレーを受け取ると、丸い木製テーブルにマグカップを置く。空になったトレーは香夏子のデスクに置いた。
コーヒーが入ったマグカップが三つ置かれた途端、部屋にコーヒーの香りが充満していく。目の前に置かれたマグカップから立ち上る湯気が、天井にぶつかり部屋の隅々まで駆け回っているのだろうと孝一は思った。香夏子はコンパクトソファに座っている昴の隣に腰を下ろす。
「下のと同じコーヒーだよ。孝一君はいつもグリーンドアで飲む時、ブラックだったから、そのまま持って来たけど、お砂糖とミルク欲しかった?」
「あ、大丈夫です」
こんなにも良い香りを放つコーヒーに混ぜ物をするなんて、孝一には堪えられなかった。孝一がそう考えていると、香夏子の隣で昴が手を上げる。
「俺は欲しい。香夏子、ミルクある?」
「はいはい。かしこまりました」
再び香夏子はコンパクトソファから立ち上がり、部屋を出る。
「孝一君もミルクくらいは入れた方がいいかもよ。ほら、この後の話にブラックはキツいんじゃないか?」
「お気遣いには感謝しますが、大丈夫です。目の前の二人を見てるだけで糖分は充分、摂取出来そうですから」
そう孝一が言うと、昴は一瞬、「ほう」っと呟き驚いた表情になると、静かに笑った。笑ってもらえたのが、孝一は認めて貰えた気がして嬉しかった。
「やるなあ、孝一君。香夏子の話で聞いていたより、ずっと賢そうだ」
素直に褒められて孝一は増々嬉しくなり、耳が赤くなる。尊敬している人物に褒められて、嬉しくならない訳がなかった。彼は微笑み頭を下げる。
「昴~。はい、ミルク。あれ? どしたの孝一君。御機嫌だねぇ~。何かあった?」
丸い木製テーブルにミルクが入った小さなカップを置いて、再びコンパクトソファに腰を下ろした香夏子が尋ねる。
「えっと……」
「秘密。男同士の話なんだ。なっ? 孝一君」
孝一が説明しようと口を開いた瞬間、反対側にいる昴が割り込んだ。
彼の言葉を聞いた香夏子は「何よそれ~」っと笑顔を浮かべてコーヒーに手を伸ばした。孝一も彼女と同じように、目の前のコーヒーを手に取る。
水中に潜った時のように息を止めて、口を付けた。舌の上を流れてそこから喉を通り、全身を巡る淹れたての温かいコーヒー。
久しぶりに美味しいと感じたコーヒーだった。
「ふぅ~」
マグカップから口を離して心地良い二酸化炭素を吐く。
「じゃあ、ドンとこいっ!」
両手を広げて孝一を迎え入れるようにして、彼女は笑顔で言う。
孝一は簡単に深呼吸して、脳の換気を済ませると口を開いた。
「実は……」
孝一は誰にも相談出来なかった、ここ最近の出来事を全て話した。
毎週土曜日にしていた香澄との電話の事。
結衣との休日のデートの事。
香澄と期末テストで勝負をして、結衣とは断った事。
グリーンドアで二人が姉妹だと分かった事。
姉妹それぞれと繋がりが切れてしまった事。
予め誰かに話そうと考えていた訳ではないので、口を動かしながら頭の裏で出来事を現在進行形で整理して、より伝わりやすようにしていく。
また、決して話の中に自身の主観や脚色をしないように徹底して、あくまで第三者が語るように話した。無意識に入ってしまう自分の感情から来る脚色は防ぎ切れないが、それでも精一杯意識して抑える。まるで、映画のストーリーを説明しているようだと話ながら孝一は思う。
香夏子と昴は孝一の話を真剣に聞いた。決して途中で口を挟むような真似はしない。何より、二人は孝一の目をじっと見て話を聞いていた。
だから孝一には二人の真剣さを感じる事が出来る。
「以上です」
出来事の詳細を段階毎に全て話し終えると、孝一の口と喉は疲労していた。緊張もあったせいか、若干の頭痛も感じる。事情を説明している最中、一度も口ににしなかったコーヒーのマグカップに手を伸ばして、口を付ける。少々冷めてしまったコーヒーは、初回時程の衝撃が既に失われていたが、それでも孝一の熱暴走気味の脳を落ち着かせるには十分だった。頭痛が少しずつ引いていく。
孝一はマグカップを丸い木製テーブルに置き、正面にいる二人の顔を見る。
香夏子と昴はそれぞれの姿勢で、彼の話を頭の中で纏めているようだった。腕を組んで唸る香夏子。顎に手を当てて、視線を天井に向けている昴。
孝一は二人の邪魔をしてはいけないと思い、暫く沈黙を守る。
十分程度経過して、初めて二人に向かって口を開いた。
「如何です? 何か質問はありますか?」
「いいかな?」
孝一の声に最初に反応して、手を挙げたのは昴。「どうぞ」っと孝一は彼の発言を許可する。まるで教師のようだと馬鹿な妄想が走った。
「孝一君はこれからどうしたいんだい? 事情は分かったけれど、それはあくまで事情だから。君の考えてるこれからを聞きたいんだ」
如何に客観的に話すかに集中して、言わなかった自分の主張を昴に問われる。孝一はココで初めて自分の考えを口にした。
「俺は香澄にも結衣にも、それぞれに誤解を与えている箇所があるので、そこを訂正したいです」
「うん、それで?」
「はい。俺はまだ二人との交流を続けたいと考えています。正直、あの二人とこんな事で終わりなんて考えたくないんです。我儘なのは百も承知ですが……」
「あ~。違うんだ、そういうのじゃない」
孝一が考えを伝えると、昴が手を左右に振り否定する。一体、何が違うと言うのか。分からない孝一。
「っと言うと?」
「誤解を解く事は勿論大事だよ。そして孝一君自身が我儘だと思いつつも、二人と交流を続けたいのなら、それも大事な事だ。けど、最も重要な事はそれじゃない」
そう言って、昴は一度話を区切り、隣にいる香夏子を一瞥する。彼女は未だ考えを巡らせている様子で、彼の視線に気付いていなかった。
昴は再び孝一に視線を戻して口を開く。
「孝一君、君は香澄ちゃんと結衣ちゃん。どちらが好きなんだ?」
「えっ……」
「更に言えば、君は今後どちらと恋人として付き合いたいの?」
香澄と結衣のどちらが好きなのか。二人のどちらと付き合いたいと考えているのか。昴の言葉は孝一の頭の中でパイプオルガンの演奏のように響いた。
一度は引いた頭痛が再び顔を出す。
「孝一君、言い辛いのは分かる。だけど、ココをはっきりさせておかないと。話が何一つ、前に進まないよ」
「分かってます。俺が好きなのは……」
孝一は言葉を区切った。目を瞑り脳裏に彼女の笑顔を思い浮かばせる。閉じた視界に映る笑顔の彼女に向かって口を開いた。
「新城結衣です」
孝一は初めて本心を口に出した。今までずっと隠してきた、心の奥底にある金庫に厳重に保管していたもの。それを今、初めて外へと持ち出す。
孝一が結衣の名前を口にしてから、暫く沈黙が流れた。
自分の告白に、昴が何を言うのを待って、孝一からは喋らない。
目線だけを昴へと向ける。彼は再び顎に手を当てて考え始めていた。今度は先程とは違って視線は天井に向かっておらず瞼を下ろしていた。
香夏子の部屋に長い沈黙が流れている。決して心地良いものではない。
部屋の壁に掛けられているギリシャ数字の文字盤の時計の秒針が一秒ずつ動く音だけが響いていた。カチ、カチと規則正しい音を出していた香夏子の部屋で、最初に声を出したのは、部屋の主。香夏子だった。
「ねえ、昴。今の孝一君の話、気付いてる?」
「ああ。気付いてる」
二人は短い言葉の交換だけで確認を取り合った。具体的には確認を何一つしていないのに、互いの考えが一致しているのは、二人の付き合いの長さ故だと、傍で聞いていた孝一は思った。彼には二人が何を確認し合ったのか分からない。
「二人共、何に気付いたんですか?」
孝一の質問に二人は顔を見合わせて、気まずい顔をしていた。すぐ答えないのは、それなりの理由が存在する。そこまでが孝一に理解出来た限界だった。
肝心の内容については、何一つ把握どころか、推測する事すら出来ない。
孝一は困惑した表情で香夏子と昴を交互に見る。やがて、香夏子が小さな溜息を吐いた後、口を開いた。
「あのね、孝一君。実は……」
答えを教えて貰える。安堵と興奮が交わり、自然と頬が緩んだ。しかし、昴が彼女の次の言葉が出る前に待ったをかけた。
「待て、香夏子。俺は反対だぞ、これでは孝一君のタメにならない。たまたま今回どうにかなるだけだ。この先、正解を知っている者がいつも彼の傍にいる訳じゃないんだ。ココで教えてしまったら、結果として彼の成長を妨げてしまう」
教えないと主張する昴。孝一はそう話す彼に酷いと言う感情は抱かなかった。
彼は決して悪意を持って教えないとしているのではない。彼の説明を聞いてそれが分かったからである。その証拠に彼の説明には、孝一を想っての発言がいくつもあった。
この昴の優しさを、孝一は充分に理解出来ているし納得もしている。
だからこそ苦しかった。自分の成長まで考えてくれて教えないと言っている相手にこれ以上、追及する真似は孝一には不可能だ。
応えを乞うのは諦めるべきだろう。
孝一の中で薄らとそう結論が出た。もう少し思考する事で、二人が気付いた何かに自分が気付く可能性だって存在するだろう。
何か気付かなければならない事がある。今回、二人に話してその事を知れただけでも、相談したかいはあった。
孝一がそう考えていると、香夏子は笑顔で昴に向かって口を開く。
「まぁ、昴の言う事は分かるんだけど、別に良いんじゃない?」
「……えっ?」
あっけらかんとした口調で話す香夏子の完全に予期せぬ言葉に、孝一は驚く。
驚いている孝一に気付いた香夏子は小さく微笑み再度昴に向けて口を開いた。
「孝一君のタメになるかなんて誰にも分からないよ。案外、人から教えてもらう方が彼は成長出来るタイプかも知れない。仮にそうじゃなくても、今回の事をちゃんと彼が自分の力にすれば、似たような事が起こっても、きっと対処出来るよ」
「いや、しかし……」
「大丈夫大丈夫。人の成長の仕方は一つじゃないでしょう?」
成長の仕方は一つじゃない。
この香夏子の言葉を自分は生涯忘れないだろう。そう思える程に孝一の心を救う一言だった。目頭が熱くなり、ふとした衝撃で涙が浮き出そうになる。孝一は下を向いて正面にいる二人から顔を隠す。思い切り瞬きする事で、熱くなった目頭を無理矢理に冷却した。
下を向いていると、上から昴の声が聞こえる。
「……確かにな。香夏子の言う通りだ、人の成長の仕方は一つじゃない。それぞれに合った成長の仕方がある。彼に助言する事が成長の妨げになると勝手に判断したのは、俺の傲慢だった。悪かった」
「謝る相手が違うでしょーが。私に謝ってどうする」
「そうだな。孝一君」
名前を呼ばれて孝一は反射的に頭を上げる。
「すまなかった、さっきは忘れてくれ」
昴が孝一に頭を下げた。歳上に頭を下げられるのは、どんな理由があっても良い気分はしなかった。
「頭を上げて下さい。昴さんの考えだって俺はちゃんと分かります。何より、僕の事を想っての話だった訳ですから」
「ありがとう、孝一君」
照れ笑いを浮かべる昴と目が合う。孝一は当初、二人の関係は彼が全体の舵を操っているような印象を持っていたが、それは誤りだと言う事に時間が経てば経つほど気付く。全体の舵を握っているのはどうやら、香夏子のようだ。
それに気付いた孝一は、何だか二人がとても微笑ましく見えて、口元が緩む。
「こらっーっ! 孝一君、ウチの昴と何良い感じの雰囲気になろうとしてんの? はい、この話は終わりっ! 次々っ!」
口を尖らせて怒る香夏子を見つつ、孝一は「すいません」っと頭を下げる。勿論、笑いながらだ。そんな彼を見て、香夏子は小さくため息をつく。
「よーし。では、孝一君に教えましょう」
「ありがとうございます」
頭を下げて礼を言う孝一に、香夏子は首を横に振った。
「感謝はまだ早いよ。これからの孝一君の行動如何によっては、私達の言葉は無意味になってしまうかも知れないんだから」
「はい」
先程までふざけていたとは思えない真剣な表情の香夏子に孝一は緊張をする。動悸が大きくなり、手にじんわりと汗が湧き始めた。緊張した様子の孝一を見て香夏子は満足したのか。いつもの笑顔に戻った。
それが彼には何よりありがたい。
「じゃあ、話すね」
香夏子は孝一がまだ気付いていない事を話し始めた。孝一は彼女の話す培養を、一つだって聞き漏らすまいと両耳に意識を集中させる。
彼女の話す自分では気付けなかった事を聞いて力にしていく。
孝一は思わず息をしているのを忘れてしまうくらい集中して、香夏子の言葉に耳を傾けていた。