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レモンイエローは夜だけ繋がる  作者: 綾沢 深乃
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「七章 終わる電話と証明出来ない本心」

「七章 終わる電話と証明出来ない本心」


(1)

 月曜日の衝撃は強かった。呼び出した孝一側の話など、とても話せる訳もなく、あの後フロートとクッキー食べてお開きとなった。帰り際、香澄に孝一の話とは何だったのかと聞かれたが、それに答える口も頭も最早残っておらず、大した話ではないと苦笑する事しか出来なかった。

 いかに孝一達の月曜日が壮絶だったとしても、世界はそんな事にはお構いなしに時間を進める。二十四時間経過すると、学校生活がまた始まるのだ。

重い足取りで登校する孝一。今週は全部休みたい程の精神的疲労があったが、時間に流されるようにして生活する事で、疲労を微量ずつ回復させていく。

 そして翌日の火曜日以降、孝一の生活にある変化があった。

 結衣と一切連絡を取っていない事である。元々、彼女とは学校で会う機会は基本的に少ない。それでもメールの連絡は毎日行っていた。時間の都合が合えば、帰りに喫茶店に待ち合わせるくらいはしていた。

結衣との交際を周りに隠している以上、並んで歩いて話すと言った普通の恋人同士の行動をする機会に中々恵まれないので、代わりに放課後やメールが彼女と恋人同士となる時間であり、ツールだった。

それがあの日以降、誰かに見えないスイッチをオフにされたかのようにピタリと無くなった。学年が違うと言う事は、言うならば教室の階層が違うと言う事でもある。二人は同じ名月高に通っていても、別世界に住んでいるに等しく、廊下や食堂で、偶然すれ違う事があるかないかだった。(その際は周囲に勘付かれない程度の軽い挨拶をする)だが、それすらも綺麗になくなった。

 孝一は火曜日以降の記憶が殆ど無いような状態で、金曜日の放課後を迎えた。

帰り道、一人で帰路に付く中で回転力が鈍った思考回路が明日は土曜日だとアナウンスを出した。

土曜日の午後十一時からの一時間。

少し前の孝一はあの一時間を大切にしていた。金曜日の午後になると、思考の隅に出現して落ち着かなくなる程である。それが、今はどうだ。こうして、一人で帰路に付く最中にふと思い出す。そんなレベルまで重要度が低下しているのだった。

 しかも、孝一には思い出したトコロでそれを喜ぶと言う感情は生まれなかった。以前までとは真逆の心象である。人は自分の心境一つで、ココまで心変わりする生き物なのかと、自虐的な関心すらを抱いた。

 実に奇妙な感覚に包まれつつ、孝一は土曜日を迎える事となった。

 今回は孝一から電話をしなければならないのだが、どうにも指が動かない。

こんな経験は初めてである。時間が近付くにつれて、体は半自動的にデスクのスタンドライトを点けて、イスに座り二つ折りの携帯電話を開いた。習慣と言う名の、体にインストールされた行動は、彼の意思とは無関係に働く。

しかし、働くのはそこまで。そこから成瀬香澄に電話をかけるのは、孝一の意思の仕事だった。先程からそこで、孝一の人差し指は停止している。

液晶画面は表示された成瀬香澄の名前を表示していて、彼がボタンを押すのを今か今かと待っているようだった。

 鼻から溜息が漏れる。

 時刻は午後十一時五分前。残り三百秒前になっても、孝一の頭には香澄と何を話していいのか、話題がサッパリ浮かばなかった。彼女との今までの電話の中で、話題が浮かばないと言う事は、これまで一度もない。事前に何を話すかは必ず決めていたし、仮にそれを話し終えても、温泉の源泉を掘り当てたように、次から次へと話題は口から湧き出ていた。

それが今は完全に枯渇している。最早、十一時になるのが苦痛ですらあった。

 十一時が近付くにつれて、孝一の頭は痛みを訴え始める。ああ、この痛みの種類は知っている、ストレスから訪れる痛みだ。彼は右後頭部に響く金属的な痛みを自己診断した。

 今日は寝てしまった事にして、明日香澄に謝罪のメールをしよう。

 そう結論が出たのは、液晶画面右上の小さな時間表示が十一時になった時だった。パタンっと音を立てて、二つ折りの携帯電話を閉じる。

電話をしないと結論を出したら、金属的な頭痛の波はスゥーっと引いていった。この逃げるような解決策を孝一は好ましく思わないが、今回ばかりはどうしようもない。これしか手段はないと、自分を正当化させる。

 スタンドライトを消して、部屋を暗くしてイスから立ち上がる。ベッドに座り枕元にある充電ケーブルを手繰り寄せて、携帯電話の充電口に差し込む。明日起きる為のアラームも確認し、安心した孝一は体を横にする。

 その時、携帯電話が鳴った。暗い部屋で、携帯電話の強烈な光が着信音と共に存在をアピールしている。孝一は、横になったままで携帯電話を手に取る。

部屋を暗くしたばかりだったので、携帯電話の強烈な光にもそこまで目を細めはしない。携帯電話を開いて、着信相手を確認する。飯田だったら、寝たふりをして無視してしまおうと考えていた。

 だが、液晶画面に表示された名前は飯田ではない。孝一は表示された名前を見た途端、弾かれたように体を起こした。素早く一度消したスタンドライトを点け直す。通話ボタンを押して携帯電話を耳に押し当てた。

「もしもし?」

「あっ、孝一君? 成瀬ですけど」

「今日は香澄からじゃなくて俺からだろ?」

 電話は互いが交互にかける。このルールは絶対であり、特に香澄はこのルールを頑なに守ろうとしていた印象が孝一にはある。孝一が電話をしなくても大丈夫だと考えたのは、向こうからは決してかけて来ないと判断したからでもあった。なのに、その絶対的なルールをあろう事か香澄側が破ったのだ。

 当然、孝一は戸惑いを隠せない。

「どうしたんだ? 今日は俺からかける日なのに」

「だって孝一君、後ろめたくて寝たふりしてるんだもん」

「なっ!?」

 全てを見透かした香澄の発言に孝一は反射的に声を上げる。

「やっぱ、そうなんだ。まあ、そうなっちゃうのも無理はないけど。いざされると待ってるだけって、結構辛いんだよ?」

「どうして分かったんだよ。俺の部屋に監視カメラでもあるのか?」

「まさか、そんなモノある訳ないでしょ。ただ、そう思っただけ。孝一君が電話をして来ないはずがない。仮に無理な日は、十一時よりも前にメールが届くもの。それすらないのは、後ろめたさがあるから。じゃあ寝たふりかな? って」

「全部香澄の言う通りだ」

 確かにいくら時間が決めてあるとは言っても、どうしても電話出来ない日と言うのは、これまで二人の間には存在した。ただその場合、孝一は前以て香澄にその旨を記したメールを送信していたし、彼女も同様だった。

 その作業が彼の頭から抜け落ちてしまっていた事で、香澄に気付かれてしまったのだ。もし、孝一が約束の時間までに予め香澄にメールを送っていたのならば、ルール破りの彼女からの電話は無かっただろう。

「でも、孝一君が寝たふり作戦を実施しちゃうのはしょうがないよ。だって、私がそっちの立場なら同じ事をしてると思うから」

「そう言ってくれると……」

「元々、怒ってる訳じゃないんだ。第一、こっちは孝一君が寝たふりしているのを承知で電話してるもの。どうしても今日中に話しておきたい事があって」

「話しておきたい事?」

 孝一の行動心理を把握した上で、更に電話をかける香澄の話したい事とは一体何だろうか? 孝一の頭には疑問が浮かぶばかりで、とても予測は立てられなかった。

「うん。ところで孝一君、今週は一回でも結衣に会った?」

「会ってない」

 突然の話題変更を行う香澄。これがどうしても今日中に話したかった事ではないだろうと思いつつ、孝一は素直に答える。

「やっぱりね。うん、そりゃそうか」

「そっちには何か連絡があるのか?」

「ううん、全然ない。けど、あの子の性格からして、このまま永遠に連絡がないって事はないはず。きっと近い内に孝一君には連絡が来ると思う」

「そうか。じゃあもうちょっと、待ってようかな」

「それとさ、この前はゴメンね。結局、私の話がメインになっちゃって。そっちの話が出来なくて」

「時間が大分経っていたし、互いに疲れてた。いくらフロート食べて回復したとしても、あそこから俺の話までする力は残ってない。だから、しょうがない」

「もし、この電話構わないなら聞くけれど……」

 話を聞くと香澄は言ってくれているが、孝一にはもう話す気はない。彼が話そうとしていた事は、もういいがないのである。だから彼は、もう二度と話す気あない。

「気持ちはありがたいが、気にしないでくれ」

「本当に? だって私に会ってまで話たい事があったんでしょう?」

「本当に大丈夫だから。それより、そろそろ香澄の本題を言ってくれないか。俺が寝たふりをしているのを知った上で、話したかった事って何だ?」

 孝一が尋ねると、携帯電話の向こうで困惑する香澄の息遣いが聞こえた。

彼女が何を話そうとしているか、孝一には分からないが、少なくとも今ので余り良い話ではないと言う事だけは予想が付いた。

「それは……」

「それは?」

 香澄の言葉を復唱して続きを待つ。小さな沈黙の後、意を決したような香澄の声が耳に入った。

「もう、こういう事は止めよう」

 大きくもなくかと言って小さくもない香澄の声が、耳に入って来る。孝一は一瞬、自分の思考回路が限りなく白になったのを感じた。そしてその影響か、彼らしくない意味のない事を聞いてしまう。

「……こういう事って?」

 言い終えた後、孝一は自分が酷く動揺しているのが分かった。ああ、どうして今無意味な質問をしたのだろうか? 自分の口から出た言葉に疑問を感じていると、受話器の向こうから含み笑いが聞こえた。

「分かってるでしょう? おかしな孝一君」

「……ああ。俺は今、自覚があるくらいおかしい。疲れてるかも知れない」

「孝一君、自己管理しっかりしてそうなのに。珍しいね、今頃テストの疲れが出たのかな?」

「時差なのかもな。ほらっ、歳を重ねたら筋肉痛が当日じゃなくて翌日に訪れるって言うだろ?」

「筋肉痛とは違うよ~」

 生産性ゼロの会話を口から垂れ流しながら孝一は、先程彼女が自分の話を聞くと言った時を思い出していた。恐らくあれが彼女が歩み寄ったが最後の機会だったのだ。香澄は自分の話をしたら事態がどうなるのかを知っている。

だからこそ、まず最初に孝一の話を聞こうとしたのだろう。それを卑怯だと追及したい気持ちが、微々たる量だが存在する。しかしそれを実際に口にする程彼はまだ落ちていない。

最低限のプライドを維持しつつも孝一は、小さく溜息を吐くだけに留めた。

「結衣に命令されたのか?」

 一番聞きたくない同時に一番可能性がある事を尋ねる。

「ううん、それは違う。さっきも言ったでしょう? 私にも結衣からの連絡は来てないって」

「そうか、分かった」

「……どうしてもか?」

「うん、どうしても」

 孝一の疑問は香澄に躊躇なく即答されて潰される。その即効性はこの場で思い付いたモノではない事の証明となる。成程、確かにこれはルールを無視してまで、伝える価値がある話のようだ。

ようやく孝一は、香澄の決心の固さを実感する。

 同時に彼がどんな言葉を並べ立てようとも、覆せない事も把握した。

なら彼が出来る事は一つしかない。これ以上、返事を待たせる訳にはいかない。

「分かった。土曜の電話は今日で最後にしよう」

 孝一がそう言った途端、携帯電話の向こうから香澄の心情が封入された息遣いが聞こえた。それがとても悲しく聞こえたのは、決して気のせいではないと孝一は思った。むしろ、彼女が最後を作ってくれたと言う事には感謝しなければならない。そう好意的に解釈する事により、もう二度と出来ない最後の電話を悲観せず楽しいものにしようと彼は必死だった。

「ありがとう。こんな勝手な終わり方で本当にごめんなさい」

「謝らないでくれ。最後なんだからそういうのはナシだ。楽しく終わろう」

「うん、分かった。孝一君、時間はまだ大丈夫?」

 香澄に聞かれて、部屋壁掛け時計に視線を向ける。そろそろ十二時を超えようとしていた。普通ならココで終わりの時間である。

 ところが今日は普通じゃない。

「俺は時間にはまだまだ余裕がある。延長戦は出来るかな? 香澄」

 呆けた調子で尋ねると、耳元に笑い声が聞こえる。

「ええ、勿論。今日は特別だから。何時までも付き合うよ、孝一君」

 二人はそれから他愛ない話を続けた。生産性のない流れるだけの会話だったが、それで充分に孝一は満たされていった。恐らく、今話している話題など、電話を切り一時間も綺麗に忘れているだろう。

 普段だったら、こういう話し方を孝一は好まない。けれど、こうして香澄からの電話があり、更にその内容を聞いた現在では、状況が天と地とも違う。どんな会話でも構わない、孝一はこの電話を切りたくないと心の底から願っていた。

 しかし、時間は決して止まらない。孝一の望みを決して叶えない部屋の壁掛け時計の秒針は音を立てて、数字の周りを周回する。その回数が多くなればなる程、孝一の心には小さな焦りが砂となって積もっていく。

「そろそろ、良い時間かな……」

「えっ?」

 ふいに会話の流れの中で香澄がそう言った。孝一は部屋の壁掛け時計を確認する。もう日曜日になって一時間以上が経過していた。彼自身の体内時間は会話を維持させる為に自動的に停止していた為、香澄に言われて時計を確認して、初めて時間がこんなに経過していた事を知った。

「そろそろ切ろうか?」

「そう……だな」

 この電話を切ったらもう次はない。それを孝一は重々理解している。

けれども、香澄が切ろうと提案している以上、無下には出来ない。今日は何時まででも付き合うって言ったじゃないかっと愚痴でも零そうかと、短絡的思考が生まれたがそれを言ったところでどうなると、すぐに思考の彼方へと追いやった。加えてこの電話は香澄からと言う事も孝一は考慮しなくてはいけない。

電話を続ければ、彼女は多額の通話料を払う事になる。だったら一度電話を切り孝一からかけ直せばと言う話なのだが、彼女は良しとしないに決まっている。

 どう足掻いても電話を切る以外の選択肢は存在しないのだ。

「勝手だとは思うけど、もう電話は……」

「分かってる。もうこっちからかけてもダメなんだろう?」

「うん、ゴメンね……」

「香澄が謝る事じゃない。大体、こんな事いつまでも続ける訳にはいかないんだ。終わりは必ずやって来る。当然だ、だって俺達は……」

 孝一の口が途中まで動いて停止する。そこから先は話す必要がないからだ。それは二人の間で絶対の不文律としてある。わざわざ言語化する必要はない。

「私、楽しかったよ。孝一君とこうやって土曜日に電話をした事」

「俺だってそうさ。この電話があるおかげで一週間がとても早く感じた」

「孝一君も? 私もなんだ。嬉しいなぁ、お揃いだね」

「ああ、お揃いだ」

 孝一は口角が自然と上がる。どうやら最後は笑顔で終れそうだ。

「さて、そろそろ本当に……」

「そうだな、長話させてすまない。機会があったら、今夜分の通話料を払うよ」

「またそんな事言って~。期待しないで待ってるよ」

「ああ、約束だ」

 叶う当てのない。約束にもならない約束を二人は結んだ。

「これまで本当にありがとう。さっきも言ったけど、これまで孝一君と電話が出来て楽しかった」

「俺もだ」

「今日は、いつもみたいな別れ方はちょっと難しいね」

 香澄が含み笑いを持たせながらそう言った。言われて確かにと孝一は思う。今日が最終回なのだ。じゃあ、また。っと言った定型文は使えない。

「そうだな、でもしょうがない」

「そうだね。じゃあ、孝一君。さようなら……」

「さようなら」

 初めての挨拶が交わされた後、プツっと言う音を立てて、受話器から香澄の声が聞こえなくなった。代わりにツーツーっと規則的な機械音が流れる。

「ふぅ~」

 孝一は腹部が膨らませて、口から盛大に体内の二酸化炭素を吐き捨てた。

 二つ折りの携帯電話を閉じて、ベッドで横になった。数時間前に一度、横になった事が遠い昔に感じる。まるでタイムスリップでもした気分だと、孝一にしては珍しく、空想的な捉え方をした。

 日曜は休みで予定は無いと言っても、これ以上起きている理由はない。孝一は再びスタンドライトを消す。部屋が闇に飲み込まれた。目を閉じても開けている時と変わらない視界の明暗状態の中で孝一の意識は薄らと落ちていく。脳が疲れており、休息を欲しているのがすぐ分かった。望み通り抵抗する事なく、意識を深く沈めていく。

その時、カーテンを閉じており部屋に月明かりも入らない分、外より暗いであろう孝一の部屋で、カラフルな人工的な光と音が鳴り響いた。その衝撃に、夢の底まで沈みかけていた孝一の意識は急浮上してしまう。

香澄の電話の時とは違い、完全に眠りかけていた世界だったので、今の孝一には起きようとする気概はない。そして耳に入る着信音から、着信ではなくメールだという事も判明しているので明日見ても構わない。

そこまで分かっているのに、それをしないのは、送り主が香澄かも知れないと言う、微々たる可能性を考慮しているからである。

 意識が夢の底まで沈みかけた状態では、携帯電話の人工的な光と音はまさに毒だった。

眉間に皺を寄せつつ半覚醒状態で孝一は二つ折りの携帯電話を開く。予想通りメールが一通届いている。

ただ、送り主は孝一の淡い可能性とは全く違う人物からだった。

「結衣……?」

 メール画面の一番上に表示された名前を呟く。

 口にして言葉を頭で再認識すると、孝一の頭は完全に覚醒する。再び、体を起こした。瞬きをして視覚を強引に携帯電話の光に慣らすと液晶画面に視線を集中させる。送り主はやはり結衣だった。改めて相手を確認してから、彼は表示された文面に目を通す。


『夜分遅くにごめんなさい。突然ですが、明日(って言うか、もう今日になっていますがね)会えませんか?』


 一週間ぶりに来た結衣からのメールはそれだけだった。久しぶりの一言すら書かれていない。普段の彼女からは信じられない程、簡素な文面だ。こんな夜中に送ってくる時点で、きっとすぐに返信が来るとは考えていないのだろう。

 孝一は、すぐに明日会えると文面を書いて送信する。向こうとは違って、こちらの文面には久しぶりと言う言葉をしっかり加える。

 メールを送ってから、五分程度で結衣からの返信が来る。

こうして何度かメールを飛ばし合い、細かい事柄を詰めていく。

 結果、今日の午後一時。繁華街のある駅前の南側前広場で待ち合わせとなった。


(2) 

 日曜日。

 事前に決めた時間に孝一は繁華街にある駅前の南側広場にいた。

 文庫本を読み、結衣の到着を待つ。約束の時間まで十分早く到着していたので、読書に勤しむ事にしたのだが、今日だけは中々文字を読むスピードが乗らない。

文面に書かれている風景が頭のスクリーンに上手に上映されないでいた。常に砂嵐が走ったような状態になり、好きな読書が苦痛な作業にすら感じてしまう。それでも止めないのは、顔を上げて待つ事に孝一が臆病になっているからである。文面を目で追いながら、時折腕時計で時刻を確認て彼は待っていた。やがて時間になり、孝一の肩がトントンっと二回叩かれる。

「こんにちは、先輩。お待たせしました」

 顔を上げると、そこには結衣の姿があった。あの日以来見るが、何も変わっていない。

「こんにちは。そこまで待ってないから大丈夫。丁度、良いところまで読み進める事も出来たから」

 嘘八百を言いつつ、文庫本を閉じて肩掛けカバンに入れた。

「それは何よりです」

「それで? どこに行くか決めてるのか? 昨日のメールだとそこまでは教えてくれなかったけど」

「勿論、決まってます。こっちです」

 結衣が先導するので、孝一は彼女の隣を歩いた。そして、そのまま駅前からすぐ近くにある、地下街へと繋がる階段を降りていく。

 日曜日と言う事もあり、人が非常に多い。明日になれば、また平日の一日目が始まると言うのに、元気な事だ。ぼんやりと孝一はそんな事を考えていた。

 すると、結衣が口を開く。

「先輩は昨日、あの人と電話はしましたか?」

「一応、したよ」

「そうですか、良かったですね」

 何が良かったのか。理解出来なかった孝一は、それを尋ねようと思ったが、これ以上の会話はするつもりはないから話しかけるな。そう言いたげな雰囲気を纏った結衣に圧倒されて話しかける事が出来なかった。

 彼女と同じ方向に足を向けて、地下街に入り、レストラン街へと向かう。

昼時から少々、時間が経過しているとは言っても、やはりレストラン街には人はまだ沢山いて、かつて入ったお好み焼き屋の前には今日もまた何組か並んでいるのを孝一は一瞥する。

 レストラン街の突き当りを右に抜けて中央ホールに出た。そこからショッピン街との間にある喫茶店へと足を向ける。

 この喫茶店は二人で二回程通った喫茶店である。

 前回入店時と同様、この喫茶店は日曜日だというのに、店内の客は少ない。

「先輩は先に適当な席に座って下さい。私が買ってきます。コーヒーでいいですよね?」

「ああ、ありがとう」

 レジへと向かう結衣の手提げカバンを預かり、孝一は店内奥のソファー席へと向かった。奥のソファー席に結衣の荷物を置き、自分は手前の木製のイスに上着を脱いで、イスの背中にかけた。今日は畳む気にはなれない。振り返ると、丁度二人分のコーヒーを一つのトレーに乗せた結衣がこちらに向かって来る。孝一は彼女に駆け寄った。

「持つよ、先に座って」

「ありがとうございます」

 結衣からトレーを預かり孝一はテーブルに置く。

 奥のソファー席に座る前に結衣も着ているPコートを脱ぎ横に丸めて置いた。

「コーヒー代、いくらだった?」

 イスに座って孝一は財布を取り出しながら、結衣に尋ねた。

「今日は私の奢りです」

「いや、そんな訳にはいかないさ。俺が飲む分は払うよ」

 孝一はそう言って財布から百円硬貨を三枚テーブルに置く。値段は分からないが、相場はこんなモノだろうと判断した額だった。結衣は目の前に百円硬貨三枚置かれても首を横に振り、頑として受け取ろうとしない。

「本当にいいんです。呼んだのは私の方なんだし」

「そうか……、分かった。じゃあ、このコーヒー御馳走様」

 これ以上いくらお金を渡すと言っても、決して受け取る様子のない結衣。今日は彼女と根比べをする為に来たのではない。合理的に事を進めようと孝一は、お礼を述べる。だが一度テーブルに置いた百円硬貨三枚を回収する気にはなれなかった。二人の間の位置にポツリと置かれた、横一列に並ぶくすんだ銀色の硬貨は、これから二人の会話を聞く、観客のようだった。

 結衣は湯気の立つコーヒーを一口啜る。

「にが~い」

 口をへの字に曲げて感想を言う結衣に孝一は小さく笑って口を開いた。

「いつもはカフェモカとか、甘いのを飲んでるもんな。砂糖取って来るよ」

「じゃあミルクもお願いします」

「了解、ちょっと待ってて」

 孝一は立ち上がり、返却口近くにある丸いテーブルから、スティックシュガーを二本、そしてコーヒーフレッシュを一つ取り、席に戻る。テーブルの上に取って来た物を置いた。

「はい、お待たせ」

「ありがとうございます。あれ? お砂糖二本?」

「ああ、一本は俺用。たまには入れようと思ってな」

「へぇ~。珍しいですね」

 今から結衣と話す内容には糖分を摂取した方が頭の回転が上がりそうだと判断した為である。

それくらいに重い話になるだろうとは、容易に察しがつく。

「さて、先輩。日曜日の午後に先輩にわざわざ会ってもらったのは、お話があるからなんです」

「聞くよ、どんな話? その為の砂糖なんだから」

「そんな難しい話じゃないですよ。身構えなくて大丈夫です」

 孝一の返事が面白かったらしい。結衣は微笑みながらそう答える。

「それなら俺も安心だ」

 孝一はコーヒーに砂糖を入れながら答える。

「単純な話です。そもそも私は先輩達みたいに頭が良くないので、難しい話は出来ないですし」

「謙遜するな、結衣は頭が良いよ。さて、そろそろ話を始めてくれ」

「はーい。私はただ、先輩が知っている事が誤解だと伝えたいんです」

「誤解?」

 孝一が疑問を問いかけると、結衣は笑顔で頷いた。

「先輩はあの人から私の過去を色々聞いているんでしょう。あっ、その事自体は別に怒っていません。ただ、問題なのは内容が間違っているって事なんです」

 香澄が話した内容が間違いだと主張する結衣。孝一はそれを俄かに信じる事は難しいが、口にしたところでマイナス効果しか得られないのは分かっているので、「そうなんだ……」っと言っておく。

 孝一に即座に否定されなかったのが嬉しかったのか、結衣は身を乗り出した。

「そうなんですっっ!!」

 店内に客が少ないとは言っても、限度はある。その少ない客の視線を集めてしまった事に結衣は、声を出した後に気付いて、「あっ……。すいません」っと頭を下げた。孝一は腕を組み小さく息を吐いた。

「それで内容が間違いとは具体的にはどの辺りが? まさか最初から最後まで全部と言う事はないだろう?」

「いえ、残念ながら、重要な箇所はほぼ全部だと思いますよ。このままだと先輩がおかしな誤解を私に抱いたままなので、それを払拭したいんです」

「ほおー」

「そもそもですね、私はいじめられてなんていませんからっ!」

 人差し指を立てて結衣は言った。いじめという単語を何の躊躇いもなく口に出せてしまう事に、孝一は背中にゾワっとする寒気を感じる。

「けれど、客観的事実としてそう思われる被害を受けたんじゃないのか?」

 抽象的に被害と言って具体的な内容を話さなかったのは、孝一からは言う事が出来なかったからである。しかし、そんな事は結衣にはお構いなしとばかりに、淡々と話す。

「あれでしょう? クラス中に無視されるとか、机がひっくり返ったのとか。仮に百歩譲ってそれを第三者がいじめと認識したとしましょう。しかし、当の本人がいじめと認識しなければそれは、違うんじゃないですか? 私は学校の道徳の時間にそう習いましたよ? 相手が不快な思いをしたのなら、それはいじめだって」

「不快な思いはしかったのか?」

「ありません。だって、原因は確かに私にあるからです。これも学校の道徳で習いました。いじめられる方にも原因があるって」

「原因とは何だ?」

「それは、私があの人達の事を見誤った事です」

「見誤る? ごめん、ちょっと意味が分からない」

「えっとですね、あの人達は毎日のように私に都会の生活の事を尋ねてきました。そして、その事に私はうんざりしていました。そこまでは大方事実です。ただ、それにはあの人達の真意があり、そこを私は見抜けなかった。その部分が大きな誤りなのです」

「真意って何だよ」

「ごく簡単な事です。あの人達と私の繋げる話題、都会の話しかなかった事なんです。あの人達は私に対して、都会の事を聞く事しか、コミュニケーションを取る手段が無かったんですよ。逆に私も同じでした。私もあの人達に聞かれて初めて、コミュニケーションが取れる。それなのに私が崩してしまった。そう、少々突飛ですがああなった原因を作ったのは、壊した側の私でありあの人達はむしろ、被害者なんです。だから、加害者に怒るのは当たり前でしょう? そして、私はそれを受け入れる。一度だって抵抗した事はありません。私はそれだけの事をしたのですから」

 濁流のように結衣の口から飛んでくる数々のおかしな発言。孝一は心底砂糖をコーヒーに入れておいて良かったと心から安堵した。彼女の話した情報と事前に香澄から聞いた情報を整理して盾点を突いていく。

「俺が知っている話だと、当時の結衣はいじめを受けて体調を悪くしていた。だが、今の結衣の説明にはその点が一切触れられていない。考えられる理由は、簡単だ。当時の問題に今のような結論を出したのは、その学校から離れてからなんだろう? 当時の結衣はそう思っていなかったんじゃないか?」

 孝一がそう言うと、結衣は驚いて小さく拍手をした。

「流石先輩、良くお分かりです。やっぱり頭良いや」

 孝一は結衣に褒められても少しも嬉しくない。むしろ変に馬鹿にされた気分だ。そのせいか、若干興奮して耳が熱くなるのを彼は感じていた。目の前にある少し甘く調合したコーヒーを啜り、興奮しかけた脳を冷ます。

「先輩や家族……。ううん、当時の私も含めて周りの人全てが、成瀬結衣は中学校でいじめを受けていると考えた。確かにフィクションの世界ならば、それは成立するでしょう。現に当時の馬鹿で愚かな私も思っていたくらいです。けれども、今の私。もっと言うと、当時から成長した私です。私は、あの件に対して一つの結論を出しました。自分は実はいじめられてなどいなかった。何故なら、全ての原因は私にあるのだから。それが分かった時、私は死にたくなるくらい恥ずかしくなりましたよ。なんせ気付いた時にはこっちに引っ越してましたからね、子供の力ではもうどうにもならない。今更、あれは私の勘違いでした。なんて言える訳ありません。」

「成程。じゃあ、今の結衣からしたら、原因まで把握しつつもその真意を読み取れず、ただいじめだと解釈する人間は、お前から見て成長していない人間って事になると。それが香澄達な訳だ」

 香澄達と言う複数形の人称を用いた事で結衣は、自身の家族を思い浮かべただろうが、孝一の言う香澄達とは自分も含めている。

「流石ですっ! いや~、話が早くて助かります」

「結衣ってさ。演技、相当上手だな。この前、自分は何も知らない少々頭の回転が鈍い彼女だったって言ったけど、あれすっかり騙されたよ」

 孝一の質問に結衣は「うーん」っと腕を組んで唸った。

「あの日は、勢いも絡んであんな事言っちゃいましたけどね。改めて自己分析すると、演技とはちょっと違うかも知れません。演技の定義なんて面倒な話はしませんが、少なくとも私は先輩と付き合っている時、こういう話し方を意図的にしないでおこうと思っていました。それは先輩が大好きだったからです。彼女がこんな面倒な話し方だったら、付き合っても面白くないでしょう? やっぱり、恋人同士なら、楽しい話がしたいですもの。間違ってますか?」

「いいや、間違ってない。俺も似た気持ちだからな」

大好きだったと過去形で話す結衣に一瞬、無意識に孝一の眉が痙攣した。それを彼女に悟られるのは、不利なであったが、幸い、彼女は気付いていないようだった。

「私があの人達を嫌悪するのは、いつまで経っても私の事をいじめの被害者だと認定し続けている点なんです。一向に思考を次の段階へ進ませようとしない、停止した人達、だから嫌なんですよね」

「仕方ないんじゃないか? 当時、一番結衣の近くにいたんだ。ましてや家族。どうしてもそのイメージは付き纏うさ」

「いいえ、先輩。珍しく間違えましたね」

「どこを間違えた?」

 首を傾げて疑問を飛ばす孝一。その反応が面白かったのか結衣は得意気になって口を開く。

「あの人達は、当時の私を見てそう思った。そこまでは正解です。しかし、現在はどうでしょうか。早い話、今も私を哀れんでいるですよ。こっちは成長したっていうのに、彼女達は未だ成長出来ていない。それだけならば未だしも、彼女達は私を現在進行形で可愛そうな子と、勝手にカテゴライズしてる。ああ、この子は過去にいじめられたんだな。優しくしてあげなきゃって。自分達にだけ都合の良い同情的な視線を向けて」

 得意気プラス笑顔で話す結衣。彼女がこんなにも無邪気な笑顔になれるのを孝一は今まで知らなかった。話している内容は極めて悪いが、それを除けば今の結衣の笑顔は非常に魅力的である。不謹慎なのは百も承知だが、孝一は結衣の笑顔を見ながら、そう事を考えるのを止められなかった。

出来る事ならば、彼女の笑顔をずっと見みていたい。

「まあ、相手の心の内までは分からないから、結衣が話す事も間違っているとは言えないな……」

 今日以外で見せる結衣の笑顔は確かに魅力的だった。しかし、それは先程彼女が言った通り、孝一とこんな話し方をしたくなくて意図的にリミッターをかけている結衣なのだ。結果、それは彼女の魅力を低下させる事へと繋がってしまう。

「別にそこまで先輩に理解を求めろとは言いません。だって、先輩は当時あそこにいなかった訳ですからね。ただ知っておいてほしかったのは、これだけです。いじめではなく、正当な理由があった。そこを私が誤認してしまって、最終的に転校してしまった。そういう話なんですよ」

「……どうしてそれを、今日会ってまで俺に話す? 電話やメールじゃ無理だったのか?」

 結衣の話を聞いて、孝一は疑問を投げかける。

「電話やメールで話すと時間がかかる内容でしたし、無用な誤解が生まれてしまう可能性だってあります。一番効率が良いのは、直に会って話す事ですから。それともう一つ」

「もう一つ?」

「はい。今日、先輩に会おうと思ったのは二つお話があったからなんです。一つは、いじめの誤解について。そしてもう一つは今後の私達についてです」

「今後だと?」

 孝一の問いに結衣は頷く。

「あの日は私が途中で帰っちゃって、先輩の返事を戴いてませんでした。なので、ちゃんと言います。私達、別れましょう」

 別れるという、具体的に明言される関係性の切断を意味する単語に、孝一は動揺を隠せない。自然と心臓の鼓動が大きく感じるようになり、奥歯の奥が疼く。

 そんな孝一の状態を知ってから知らずか、結衣の言葉は止まらない。

「元々、私は先輩と付き合ったきっかけは、恋愛感情だけではありません。単純にあの人の彼氏だった人だからです。ちょっとチョッカイを出して取ってやろうとした。そんな不純な動機なんです。なので、別に先輩個人に拘る必要性はありませんでした。勿論、先輩には申し訳ない事をしてしまった気持ちはあります。私自身の勝手に巻き込んでしまった。貴重な高校生活の数ヶ月を私と付き合う事で消費してしまった。本当にごめんなさい」

 言い終えて頭を下げる結衣。そして、顔を上げて話を続ける。

「先輩は私達に振り回されただけに過ぎません。だからこそ、私は全てを先輩に話しました。被害者である先輩には知る権利があったからです。そして別れるのなら早いに越した事はない。幸い、先輩とは学年が違いますし、周囲に秘密にしていましたからね。別れても互いの学校生活に支障が出ないでしょう」

「ちょっと待ってくれ」

 やっとの思いで孝一は喉から声を絞り出した。彼の頭にはいくらかの言葉が生まれている。だが、どれも言葉として曖昧な形を成しているだけであり、文章の形は成していない。その中でも、どうにか出せた文章が今の言葉だった。

「待つって何をですか?」

 結衣の疑問に答える前に孝一はすっかり冷めたコーヒーを喉に流し込んだ。

中途半端に甘さが出て、冷めたコーヒーは結衣が傍にいるのにも関わらず、今の彼にとって苦痛だった。

 空になったマグカップをテーブルに置いて、大きく深呼吸をする。体内の空気をより新鮮なものへと循環させて、肺を整えてから彼は言った。

「別れるって本気なのか? 生憎、俺にはその気持ちはないんだけど。もしかして、興奮しているのか。何も今日結論を急ぐ必要はないさ。また、日を改めてゆっくり話し合おう」

「先輩」

 結衣は真っ直ぐに孝一の目を見た。彼女の黒い瞳が孝一を捉える。

「私、先輩の事……。今はもう、好きじゃないです」

「えっ?」

 戸惑う孝一に結衣の言葉は続く。

「でも、それは先輩だって同じですよね? あの日、私があの喫茶店に現れなかったら、先輩はあの人と付き合い続けて、いずれは私の方を切るつもりだったんでしょう?」

「違うっ!」

 孝一が珍しく大きな声を出す。結衣は普段の彼がまず見せない仕草に驚いたがすぐに持ち直した。

「違いませんよ。先輩が土曜日にあの人と電話をしていた事は、紛れもない事実なんです。普通、彼女がいながら夜中に他の女性とこっそりと電話するなんて、好意がないとあり得ません。こっそりしていたのは、私に罪悪感があったからなんですよね? だから先輩がどれだけ否定しても、無意味なんです」

 結衣の主張は正論である。孝一が逆の立場なら同じ様に話すだろう。だからこそ、上手な返し文が見つからない。戸惑っている孝一に結衣は笑顔で話を続けた。

「これからは、先輩は気兼ねなくあの人と付き合い続けていけます。良かったですね、もう何時だって電話し放題ですよ」

 孝一は彼女にどう話せば理解して貰えるだろうかと言葉を必死で検索していた。残念ながら結衣には、それが沈黙と言う名の肯定だと捉えられてしまう。

「ここまで言われて、何も反論しないって事は、やっぱり私の話は間違っていなと解釈して良いんですね? さっき、違うって珍しく大きな声を出してましたけど、反射神経で言っただけですか?」

「そうじゃない、本心だ」

「では、私が納得出来るだけの理由を言えるんですか?」

「それは……」

 孝一から言葉が続かなかったのを見て、結衣はあからさまな溜息を吐く。

「今日は貴重な休日をありがとうございました。私が話したい事は全て話し終えましたので、もう帰らせて戴きます」

 結衣は立ち上がり、丸めたPコートを広げて袖に手を通し始める。

 孝一は立ち上がる事もせず、未だイスに座ったままだった。

今の孝一には彼女と一緒に店を出る行動力すら湧かなかった。ただ、視線だけを結衣に向ける事しか出来ない。しかし、結衣は一切彼を見ようとしなかった。

 結衣は自分が飲んだマグカップだけを持って返却口へ向かった。そして、座っていたテーブルまで戻り、自分のカバンを手に取る。

 その際、イスに座っている孝一と視線が交差する。結衣は孝一を自然と見下ろすような形で、笑顔で口を開いた。

「それでは失礼します。あの人と末永くお幸せに」

 簡潔にそれだけを述べて、結衣は出口へと足を向ける。彼女の後ろ姿を見ながら、孝一は今なお言葉が出せないでいた。今ならまだ間に合うかも知れないのに、肝心の言葉が出てこない。彼女の腕を掴んで、誤解だと話すのだ。

ではどこが誤解なのか? 追及されたら孝一には、そこを客観的視点で説明する術を持たない。

 先程まで結衣が座っていた場所。彼女がいなくなった事で、そこにはもうソファー席の姿しか見えない。

「情けないな……」

 ソファー席に向かって、自虐的に口角を上げて、自分の心境を吐露する。

脳裏に浮かぶのは、ココを出て行く直前に結衣が見せた笑顔。

 それは孝一がもっと見たいと思った笑顔ではなく、感情に意図的にリミッターをかけた際に見せる笑顔だった。

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