「六章 返さなくていいハンカチと美味しいクッキー」
「六章 返さなくていいハンカチと美味しいクッキー」
ココにいるはずのない結衣がいる。
グリーンドア店内に結衣がいる事が、孝一には酷く不自然に感じて一瞬可笑しく思えてしまう。無論、頭の中ではそう考えているが、彼の顔は固まったままである。結衣は固まっている二人を満足そうに交互に見て、孝一に向って口を開いた。
「数時間ぶりですね、先輩」
普段と変わらない笑顔の結衣。それが孝一にはとても怖い。
「よいしょっと」
結衣は孝一と同一の学校指定である紺のダッフルコートを脱いでソファー席の背中に掛けて、孝一の隣に遠慮なく座る。足元には、通学カバンを置いていた。
孝一がそのソファー席に置いていた紺のダッフルコートは結衣が取って、孝一の膝の上に乱暴に放り投げた。
床に捨てないのは彼女の常識的観点がまだ残っている証拠である。膝に置かれた紺のダッフルコートを軽く畳み直して膝の上に置く。
事情を知らない香夏子が、お冷とおしぼりを持ってやって来た。
「いらっしゃい、二人のお友達かな?」
「初めまして。新城結衣って言います。名月高の一年で、二人は私の先輩です♪」
「あら、そうなの? 二人にこんな可愛い後輩がいるなんて知らなかったなあ。私は山科香夏子。ゆっくりしていってね、結衣ちゃん」
「はい、ありがとうございます香夏子さん。今日は尊敬する先輩方がいつも行く喫茶店があるって聞いて、一緒に来ちゃいました。ちょっと用事があったので、私だけ遅れて来ましたけど。コーヒーの良い匂いがして、とっても良い雰囲気のお店ですねぇ~」
「ありがとう。ゆっくりしていって。また、注文決まったら呼んで頂戴」
「あっ、今でも大丈夫ですか?」
「ええ勿論」
「じゃあ、このキャラメルラテをお願いします」
「はい、かしこまりました。お店は古くて狭いけど、コーヒーは美味しいからね、期待してて?」
「うわぁ~、楽しみっ!」
終始笑顔でいい彼女の明るい態度は、この後二人に言うであろう態度の正反対、バネが限界まで沈んだ状態である。
香夏子がこちらから離れてから、結衣は女優のように完璧に作られた笑顔から、スッと真顔に切り替わった。
「取り敢えず、私が注文した物が来るまで待ってもらえますか?」
結衣の言葉に頷く孝一と香澄。
二人はもう残り少ない自分の飲み物に手を付ける気はなく、結衣の注文したキャラメルラテが到着するのを待つ。香澄は教師に悪戯が見つかった子供のように不安そうな顔をしながら、下を向いている。孝一は目を瞑り、腕を組んで時が流れるのを待っている。教師に怒られるのは彼も一緒だったが、互いの態度の違いが出ていた。
「お待たせ~。はい、キャラメルラテ」
目を瞑っていたのでいつ香夏子が注文を持ってきたのか、孝一には分からなかった。下を向いていた香澄も同じだったようで、ハッとした顔が視界を再起動したばかりの孝一と交差する。
「うわぁ~、とっても美味しそう! 私、キャラメルラテ大好きなんです!」
「身内自慢になっちゃうけどウチのキャラメルラテは美味しいよ。特に今回は、二人の後輩の結衣ちゃんの為にお父さん、張り切ってたからね。あっ、二人も何か追加でいる?」
残りが少ない孝一と香澄のマグカップを見て気を利かせる香夏子。自分に話が振られるとは思わなかったので、ビクっと肩を震わせる孝一と言われて初めて自分のマグカップの残量を確認する香澄。
二人共、上手く言葉を返せないでいた。
何も言わないでいると流石に香夏子も不審に思ってくる。
「んっ? どうかしたの、具合でも悪い?」
香夏子は頭の回転が速い。現段階の情報からでは真相に辿り着く事はないだろうが、道筋になら容易く到達してしまいそうだ。孝一はそれを回避すべく、今出来る最大限の笑顔で首を横に振る。
香澄は小さい声で「大丈夫……、ありがとうございます」っと言った。
これが今の二人に出来る精一杯の対応。これ以上は出来ない。時間が長引けば香夏子に何か勘付かれる。どうすれば香夏子は離れてくれるのか。そう考えていると、まるで見越したようにグリーンドアのカウベルが鳴った。
カランコロンと言う音が孝一には救いの音に聞こえる。
香夏子は素早く入口を見て客の人数を把握する。お冷とおしぼりの用意があるからだ。これ以上は、こちらに構っている時間はないようだ。
「じゃあ、また何か飲みたくなったら呼んでね」
若干の早口で言う香夏子に二人は必要性を感じなかったので、返事をしない。
どうせ、香夏子はすぐ厨房奥に引っ込んでしまう為、今の言葉は彼女の言い切りになっている。自分の言った言葉が相手に聞こえる声量はどれくらいか、客商売をしている香夏子は充分把握している。なので、孝一達が返事を返さなくても構わない。
香夏子が離れて初めて孝一は身軽さを得た。四分の一程しか残っていないお冷に口を付けて、一気に喉に流し込む。カチンっと音を立てて、四角い氷が前歯に当たる。まだ口に入る程には溶けていなかったので、そのままコップに戻した。
冷たい水が喉を通り、熱くなっていた孝一の脳が少し冷静さを取り戻した。
香夏子に知られる事を隠す理由は何だろうか?
つい、孝一はそんな事を考えた。これまでの付き合いで生まれた、香夏子が孝一に置いている評価を壊したくない?
先程の教師に怒られるのと似ているあの独特の鼓動の早くなる感覚。知られる事を恐れている? 香夏子に怒られるから?
明確な理由を求めようとすれば、納得出来るモノに中々出会えない。
こういうのはやはり、感情の問題なんだな。っと孝一は結論付けた。
孝一が喉を潤してしばしの思考力を取り戻していると、結衣は「さて……」っと呟く。孝一はそれが自身に向けられたモノだと思い、思考を中断して慌てて彼女の方を向いたが結衣は孝一ではなく、香澄の目を捉えていた。
「どこまで話したの?」
「えっと……、まだ何も」
「そっ、ならいいわ」
自分の前で行われている会話に孝一は理解が及ばない。二人は知り合いなのか? 何か共通項の話題を持っているのか?
今の二人の会話だけで、いくらでも疑問は出て来る。
ただ分かるのは、結衣と香澄の上下関係が年齢に左右されていない事だった。
二人はそれ以上、会話をしなかったので、空気を見計らって孝一が問いかける。
「二人は知り合いなのか?」
孝一の実に普遍的な質問に結衣はちらりと彼を見る。
「あ~、先輩はまだ何も知らないんですよねー」
「そうだ、だから教えてくれないか」
何も知らない。だからこそ、正確な事実を知る必要がある。
結衣の返答を待っていると、横から香澄が答えた。
「あのね、孝一君。私達……、姉妹なの」
「姉妹?」
申し訳なさそうに話す香澄の口から出た、姉妹と言う単語。
孝一は香澄の発した言葉に首を傾けつつ、二人を見比べてみる。視界に二人が同時に並ぶ事は無かったので、こうして見ると今が実に異様な光景か分かる。
見比べると二人に外見的類似性が一切ないとは言い切れない。二人が同時に視界にいると、確かに目元が似ているかも知れないと孝一は思った。
しばらく二人を見比べていた孝一に結衣が笑顔で首を傾ける。
「如何ですか? 目元が似ているでしょう?」
「ああ、姉妹って言うのは納得したよ。だが、苗字が違う」
そこが最大の問題である。香澄と結衣は苗字が違う。成瀬と新城。同じ漢字が一文字だってない名前なのだ。
故に彼女達と今日まで関わって来た孝一も気付かなかった。
二人が姉妹だと再定義して、更に苗字が違う。そうなると、理由は彼の想像上には一つしか存在しなかった。
「両親が、離婚したのか?」
「ええそうです。流石先輩」
孝一の問いに、躊躇い一つなく頷く結衣。彼女の中で、それは些細な事なのだ。
今度は香澄が詳細を話し始める。
「私達の両親はある事が原因で離婚をしたの。今は私がお父さん、結衣がお母さんと一緒に住んでる。家族皆で会う事はないけれど、一応親同士で定期的な連絡はしているみたい」
彼女達の両親が離婚した原因を、香澄はある事と言った。それはそれ以上、深く追求して欲しくない。即ち、拒絶を意味している。
孝一はその点を把握しつつ、苦笑した。
「香澄に妹がいるなんて一年以上の付き合いになるのに、全然知らなかったな」
「うん、高校からの友達には誰にも言ってないもの。それは孝一君だって同じ」
去年の自分達は友達以上の関係だったはずなのだが、同じという言葉で片付けらえてしまった。その事に小さな苛立ちを覚えたが、すぐに今はどうでも良いと頭を切り替えた。ところが、孝一が切り替えたそれを結衣が引き戻す。
「あ~あ、彼氏だったのに。友達と同じなんて可愛そうーっ!」
「えっ、いや違うの。そういう意味で言ったんじゃないからね。ただ、あまり人には話したくないって言うか……」
「分かってるから気にしなくていい」
彼女の意思を尊重して、理解を示す孝一。分かっていると言ったその言葉に嘘は無かった。
「うん、ありがとう」
「はいは~い、二人で良い雰囲気のところ悪いけど、私も話していいですか?」
「ああ、構わない。結衣にだって色々聞きたい事はあるからな」
むしろ結衣に聞いた方が良さそうだと孝一は思うくらいである。
結衣はワザとらしくコホンっと咳払いをした後、口を開く。
「まずですね、私は先輩とこの人が毎週、土曜日の深夜に電話しているのを知っています」
「ほぉー」
最初の一言目から結構な事実が発表されたが、孝一は動揺を悟られぬよう努めて何でもないように答える。
「あれ? 驚きませんね? びっくりした先輩の顔が見られると思ったのに」
「二人が姉妹って時点で相当驚いてる。今更、土曜日の電話の件が露見したところで、これ以上驚きようがないさ。結衣がこの店に来ている時点で知ってるだろうとは思ってたしな」
「流石です。先輩のそういう頑張り屋さんなところ、私好きですよ」
「どうもありがとう」
結衣に見抜かれている。しかし、一度始めた姿勢を崩す事はしない。
肩の力を抜いた瞬間、彼女に屈服した事になる。
「安心してください。二人が電話をしているのは知っていますが、流石に内容までは知りません」
内容を知らないと言った結衣に孝一は無条件一度安心したが、すぐにそれが、嘘だと気付く。
「嘘だろ?」
「おや? なぜ分かったんですか?」
結衣は自身の嘘をあっさりと認めた。むしろ、気付いた孝一に興味があるようだ。彼は小さく溜息をつく。
「だって、俺にテスト勝負を挑んできたじゃないか。あれは、香澄との電話の内容を知っているから、同じ事をしようとしたんだろう。電話と同じ事を言って、俺の反応を見たかったのか、そこまでは分からないが」
「ああ、そんな事もありましたね。すっかり忘れてました。その通りです、あれは二人がテスト勝負をする事を知ったので、からかったんです。いくら私でも学年が違うのにテスト勝負をしようなんて、普通言いません。今、先輩が言った通り反応が見たかったんですよ」
あっけらかんと話す結衣に、孝一は微かな不快感を覚える。
普段の彼女からは感じた事のない感情だった。
「それで成果は得られたかい?」
「ええ、それはもうっ!」
満足そうに首を縦に振る結衣。孝一は隣にいる結衣ではなく、正面で下を向いている香澄に問いかける。
「香澄、毎回話した内容を教えていたのか?」
「ちっ、違う。聞かれた事だけに答えてたの。何も毎回頭から終わりまで話してないよ」
先程の結衣とは反対に悲壮な表情で首を横に振る香澄。毎回頭から終わりまで話していたのではない。それが聞けたのは孝一にとって大きな収穫だった。
「分かった、ありがとう」
「……ごめんなさい」
香澄の謝罪の言葉が孝一の胸に響く。そもそも、彼女が謝る必要などないのだ。
なので、彼女に謝らせた事が孝一は無償に腹立たしかった。
「香澄が謝る事じゃない。気にしないでくれ」
「でも……」
香澄がさらに口を開こうとすると、結衣が横から割って入る。
「そ~ですね。この人にはそこまでの罪はありませんよ」
じゃあ、そこまでの罪があるのは誰なのか。孝一は咄嗟に口に出そうになったが、火を見るより明らかになっている事をわざわざ尋ねるのも無意味なので止めておいた。
結衣は香澄を一瞥し、これ以上話す様子が無いのを確認してから、話を続ける。
「テスト勝負の会話を知っている訳ですから、当然先輩が今日、この人と会う事になっているのも知ってました」
「そうだろうな」
「ただ、この喫茶店。グリーンドアでしたっけ? 場所までは知りませんでした。まあ、今の時代インターネットで調べたら何でも分かりますからね。名前と最寄り駅さえ分かれば、どうと言う事はありません」
「つまり、結衣は全てを把握した上で、俺と一緒に帰ってたと言う訳か」
「そうですね。いや~、ビックリしましたよぉ。いきなり泣き出すんですもん。先輩が通学路の真ん中で突っ立て泣き始めた時は、本当どうしようかと思っちゃいました」
結衣がたった数時間前の事を口にする。彼女に言われるまで孝一は、自分が下校中に涙を流した事など、すっかり頭から抜け落ちていた。思い出した今でも、あの出来事は夢だったかも知れないと考えてしまう程、現実味が湧かなかった。
「孝一君が泣き出したの?」
その言葉に香澄が興味を示したのか、顔を上げて結衣に向かって声を出す。
今日、初めて香澄が結衣に話しかけた。結衣が来てからと言うもの、香澄は借りて来た猫のようにも大人しく、常に下を向いていた。たまに結衣の会話に自分が入ると、肩をピクっと反応するだけだった。
その時点で孝一は、この姉妹の上下関係を完全に理解した。
香澄の問いかけに結衣は小さく舌打ちを返す。
「……ウザ」
小さい声量だが、それでも香澄には、充分届く声だった。香澄は結衣の返事を聞いて、再び顔を下に向ける。彼女はこの店で人間の顔よりも、床と目を合わせている時間が多いのではないか? っと孝一は思った。
顔を歪ませた結衣は心底面倒な顔をして、お冷を口にする。結衣が注文したキャラメルラテは何時の間に飲み干したのか。もう空だった。
「さて、これで大体の前説は終わりました。先輩、何か質問は?」
「時間をくれたらいくらでも湧きそうだけど、くれないだろう?」
「そうですね、私も早く家に帰りたいので」
「じゃあ、いい」
「そうですか、理解が速くて助かります。流石先輩」
自分の妥協の速さを理解の速さと勘違いされて、結衣に褒められる。当たり前だが、孝一は少しだって嬉しくない。恐らく結衣は承知の上で、口にしているのだろう。
「それでは本題に入りましょう」
「本題?」
孝一が疑問を口にすると、結衣はさも当然と言った顔で頷く。
「ええ。まさか、私がここに来て実はこの人と姉妹でしたー。はい、お終い。ってなるとでも思ったんですか? いくら何でもそんな事を考えていたのなら、ただのお馬鹿さんですよ?」
孝一は小さくため息をつく。
「そんな挑発には乗らない。本題があるのなら早く話してくれ。これ以上何かあると、知恵熱が出そうだ」
「はいはい、それでは本題に入りましょう」
「ああ、頼む」
結衣はそう言うと、顔だけではなく、体全体を隣に座っている孝一に向けた。
真っ直ぐな黒い瞳が孝一を捕まえる。
「先輩は私とこの人。今後、どっちと付き合い続けたいですか?」
「はっ?」
今この瞬間、孝一の脳は完全に処理能力を超えた。先程から幾度も超えそうになり、限界まで抑えていたのに、結衣の一言で簡単に超えてしまった。
結衣の口から発せられた言葉を耳で受け止めて、脳で分解して処理する、その人間として単純かつ当たり前に行われている作業に重大な支障が出ている。
彼女の言葉の意味が理解不能だ。固まっている孝一に結衣は、更に追撃する。
「どーしたんです? 私が二人の前に現れたのはこれを聞く為なんですよ? この一言を言う為に私はなぁ~んにも知らない、少々頭の回転が鈍い後輩の彼女だったんですよ? それも今日で終わりです。さっ、先輩答えてください」
結衣の言葉が濁流のように孝一の耳に入ってくる。もう止めてくれっと思った。もう一文字分だって耳には入らない。逆流すらしているかも知れない。
許されるなら孝一はココから逃げ出したかった。荷物も何もかもを捨てたっていい。この異常な閉塞感を生むテーブルから抜け出して、外の新鮮な酸素を吸いたい。熱暴走している脳を冷却水のプールに沈めたい。何も考えず冷たい布団の中で、静かに目を瞑りたい。
そんな現実逃避ばかり頭に浮かぶ。それが無駄な処理となり、ますます孝一の脳は熱くなる。完全な悪循環だった。せめてもの応急処置として、目の前のお冷に手を伸ばす。時間の経過によって多少溶けていたものの、四角い氷は依然として大きいまま健在だった。しかし、そんな事は構わず口に放り込む。
口の奥に氷が衝突して、容赦ない冷たさに一瞬むせそうになる。右奥歯ですぐに噛み砕き即席の季節外れのかき氷を作成して、細かく砕いた氷を飲み込んだ。
砕かれた細かい氷が喉元を通る。直に喉が冷やされたおかげで、若干の脳の冷却処理に成功した。
結衣の発した言葉をもう一度、頭の中で再生する。
彼女が言ったのは、香澄と結衣のどちらかと付き合い続けたいかと言うモノ。
これを聞く事が彼女の目的だと言った。それはつまり、結衣は一つ勘違いをしているという事だ。
そこまで考えた時、孝一は意識を頭の中の小部屋から現実世界へと戻した。
正面にいる香澄と自然と目が合う。ずっと下を向いていた彼女も今は、孝一の言葉を聞こうと、顔を上げて彼を見ていた。その為、孝一が前を向くと勝手に視線が交差する。
それがいけなかったようだ。
隣にいる結衣から大きな溜息が聞こえた。
それはただの溜息ではなく、何かしらの感情が込められている様に聞こえた。ただ、それがどういう感情なのかまでは、孝一には理解出来なかった。
「もういいです。私達の方は別れましょう。それで先輩は自由の身です。どうぞ、この人と付き合い続けて下さい。良かったですね、これで電話だけの恋人関係なんて、ちっぽけなものじゃなく堂々と出来ますよ」
「いや、そういう訳には……」
曖昧な言葉を口にしつつ、孝一は香澄に視線を向ける。彼女もどうしたら良いのか分からないと言った表情をしていた。
結衣は、自分の問いを答えるのに愚図った孝一とひたすら戸惑う香澄の目が交差したのを見て、一つ勘違いしている。そこに孝一は気付いた。
それは誤解だと結衣に言わなければならない。
このままでは、孝一と結衣は本当に恋人同士では無くなってしまう。
「そういう訳? 何ですか、それ。もう答えは出てるんじゃないですか? そうやって二人で見つめ合っちゃって。大事な事はアイコンタクトで分かり合えるみたいなの、気持ち悪いですよ。あー、ヤダヤダ」
結衣の言い方で孝一は完全な確証を得る。
やはり彼女は誤解をしている。一刻も早く真実を伝えないと、取り返しのつかない事になってしまう。孝一は焦りながら口を開いた。
「結衣、俺の話を聞いてくれ」
「嫌です。もう先輩とは恋人じゃないんですから。いつもみたいに変な理屈で私を丸め込もうとしないでください。負けませんから」
両手で耳を塞ぐポーズ見せた後、結衣は席から立ち上がった。
「私はこれで失礼します。後はどうぞ、お二人だけで素敵な時間をお過ごしください。それとさっき先輩に渡した大事な彼女のハンカチは、もう返さなくて結構ですので。間違っても教室に届けに来ないで下さいね」
結衣は赤い長財布を取り出して、キャラメルラテ代をテーブルに置く。
それでもうこの店での最低限の礼儀は終えた。そう言わんばかりに結衣は、自分の紺のダッフルコートを手に取って、袖を通す事をせず手に持ったまま素早く立ち上がる。足元に置いた通学カバンを片手で持ち上げて、肩に掛けた。
そして、体を反転させると、店の象徴となっている緑色のドアへと向かう。
その間、彼女は一度も孝一と香澄を見る事は無かった。まるで最初から一人でココに来ていたかのような雰囲気を纏っている。
結衣がテーブルから離れて出入口まで後数メートルまで歩いた時、香澄がガタッと音を立てて立ち上がる。
「結衣っっ!!」
香澄の大きな声がグリーンドアの時間を一時的に止めた。自分達以外の客と山科親子の視線を避雷針のように自分に集めさせる。
店内は一気に静かになり、空気を読む機能が搭載されていないジャズだけが、流れていた。
数メートル歩いた結衣も香澄に時間を止められた一人である。彼女は意識的にやっているのかと疑いたくなる程悠長な動きで振り返った。
二人の視線が今度こそ本当に交差する。ずっと香澄を無視し続けて、まるでいないモノとして扱っていた結衣は、発射寸前のミサイルのような攻撃的な瞳を香澄に向けている。
ミサイルを向けられた香澄は先程とは比べ物にならない小さな声量で「待って……」っと言うのが精一杯だった。そんな彼女を嘲笑うように、結衣は片方の口元を斜めに上げた。
「気安く話しかけないでください、成瀬先輩」
冷たく言い放ち結衣は、再び緑色のドアに向かって歩き出す。
「もう帰るの結衣ちゃん?」
途中で香夏子が彼女に向かって話しかけた。(同じ空間にいるのだから、雰囲気は把握しているはずなのに、敢えて通常通りに話しかけるトコロに彼女の神経の太さを孝一は感じた)結衣は頭を十五度程下げて、特に口を開かなかった。恐らく香夏子の顔すらまともに見ていないだろう。
香夏子に頭を下げたのが、今の結衣が辛うじて出来る理性的行動だった。店側に迷惑をかけてしまった事を、少なからず悪いと思っているのかも知れない。
緑色のドアに手を掛けて結衣は外に出た。
カランコロン。
慣れ親しんだカウベルが店内に響く。結衣がドアを開けた時に入る外気は、奥にいる孝一達にまでは、決して届きはしない。この時孝一には、冷たい風が頬を通り抜けた錯覚があった。
カウベルが鳴り止んで緑のドアが閉まってから数秒が経過する。
店内の時間はゆっくりと動き始めた。誰しもが何事も無かったかのように振る舞う。店内に流れるジャズにまた少しずつ人の声が再び混じり出した。
グリーンドアは客層が静かである。そんな印象を孝一は持っていたが、今こうしてジャズに混じる人の声を聞くと、完全なる静寂では無かった事を知った。
ずっと立ち上がっていた香澄がゆっくりと腰を落とす。
残された孝一と香澄の前に香夏子が近付いて来た。水が入ったピッチャーを持っており、香澄のお冷に水を注いでテーブルに置いた。
「事情は良く分からないけど、大丈夫?」
「香夏子さんごめんなさい。お店に迷惑をかけて……」
半分より上まで注いで貰ったお冷を置かれた香澄は、心底申し訳なさそうに香夏子に頭を下げる。香夏子は首を横に振った。
「気にしないで。そりゃまぁ、他のお客さんはちょっと迷惑に感じたでしょうけど、私達店員は迷惑に思ってないから。あっ、孝一君もお冷いるでしょ?」
「はい、いただきます」
ずっと喉に渇きを覚えていた孝一は即答する。彼の返事に香夏子は微笑みつつ、空になったお冷を手に取った。
空になったお冷に香夏子の手で注がれる水はとても透き通って綺麗だった。
注ぎ終わったお冷を香夏子から直に手で受取り、そのまま喉へ流し込む。
喉の欲求のまま、ひたすらに水を流し込み、一気に八割以上を飲み干した。
「おお、凄い飲みっぷり! そんな孝一君にはお代わりをあげちゃおう」
「いただきます」
孝一は軽くなったコップを香夏子に差し出す。つい今し方、注いだのと変わらない量の水を彼女は注いで、孝一に手渡した。彼はそれもすぐ飲み干せるくらいに、まだ喉の欲求が収まっていなかったが、流石にそこまで品が無い行動は出来ない。家の水道水ではないのだ。
孝一の記憶では、グリーンドアの水は天然水を使用しているはずである。
再び注いで貰ったお冷をテーブルに置く。今度は少しずつ飲もうと決める。
「ありがとうございます、香夏子さん」
孝一がお礼を言うと、「んっ」っと笑顔で頷き香夏子は離れて行った。
香夏子が来てくれた事で、このテーブルにあった空気が弛緩した。香夏子は最初、事情は良く分からないと話していたが、あれはきっと嘘だったのだろうと孝一は思う。より正確に言うと最低限の事情だけどうにか把握して、そこから自分に何が出来るかを導き出して、行動に起こしたと言ったところだろう。
つくづく、孝一が憧れる理想の大人像である。
「香夏子さん、凄いね」
孝一の考えている事と、大体同じ事を考えていたらしい香澄は、離れて行った香夏子の後ろ姿を見ながらそう言った。
「あの人のああ言うところ。本当、憧れるよ。どうなったらあそこまで賢くなれるんだろう。きっと、頭の回転数が俺とは根本から違うんだろうな」
悲観めいた事を口から零すと、香澄は静かに首を左右に振る。
「そんな事ないよ。私は孝一君が賢いのをちゃんと知ってるもん。いつも誰かと会話をしながら、相手の事を考えてるでしょう?」
「それは普通の事。小学校の道徳で教わる、相手の気持ちを考えて話しなさいと言うのと同じ」
孝一が出来るのはそこまでだ。香夏子は、その一つ上の段階として、相手が次に何を話すのか、また相手に何を話せば最良の結果が得られるかを予測する術を心得ている。考える事しか出来ず、失言や暴言をしてしまう孝一とはその点が大きく異なっている。
「私からしたら、孝一君だって香夏子さんと同じくらい尊敬してるけどなぁ~」
「お世辞が過ぎるぞ」
「そんな事ないよ? 本心だから」
話が逸れていた。これ以上、この会話をしても無意味である。そして、孝一が余計な自虐心を見せたせいで、香澄に気を遣わせているこの現状は、彼には受け入れ難い。早く軌道修正する必要があった。
孝一は会話の流れを白紙に戻す為に、テーブルに置いてあるお冷を手に取り、口に含んだ。全てを飲まず、最後の楽しみ分を残したら、気持ちを切り替えようとに小さく為息をついた。
「話が逸れたな。本題に入ろう」
「私としては、この話を続けても構わないけど?」
微笑みながら首を横に傾ける香澄。
「ダメだ、こういう話はまた金曜日の夜にすればいい」
「あらら、残念」
ダメだと答える孝一に素直に諦めた香澄は、「じゃあ話そっか」っと言った。
そして、右手で拳を作り親指を口元に付けて唸る。香澄が頭の中で話を纏めている時に行う癖だった。孝一はそれを久しぶりに見て懐かしく思う。
教室も違う、会話をするのは相手の顔が見えない電話だけ。そんな環境で今、香澄の癖を見ると去年は彼女と同じ教室だった訳だから、癖なんて毎日のように見る事が出来た。
些細な癖一つが、こんなにも懐かしく思えるのは、それまで孝一と香澄が余りに近い距離にいたからであり、また現状どれだけ離れているかを表している。
孝一の懐かしむ視線に気付いた香澄が、手を口元に当てたまま首を傾けた。
「どうしたの? ニヤニヤして」
「あっ、いや何でもない」
恥ずかしくなった孝一は自身の口角が上がっている理由を香澄に話す事が出来ない。
「変な孝一君。折角、人が真剣にドコから話そうかなって考えてたのに」
「ごめん、邪魔する気は無かったんだ」
「はいはい」
香澄は微笑みながら、自身のコップを手に取り水を口に含んだ。
孝一の瞳に上下する彼女の細い喉が映る。
「さて、じゃあ今度こそ話を始めるね。まず、前提として言っておくけれど、結さっき結衣が話した事に嘘はないよ。全部、本当の話」
結衣の話を肯定する香澄。孝一もそれに無言で頷き答える。
「そして、姉妹なら苗字がどうして違うのかと言う点。多分、ここが孝一君の一番知りたいトコロなんじゃないかな?」
「ああ、その通りだ」
仮に二人の苗字が同じであったならば、孝一は確実に二人に何かしらの繋がりがあると、考えただろう。苗字が同じ人間なんて日本には大勢いるが、それでも少しも考えないのはあり得ない。
香澄の話す次の言葉を待つ。しかし、香澄は中々口を開こうとはしない。
「…………」
視線を孝一の瞳から、少々下降させて何かを考えている。
これが核となる論点なだけに、香澄は上手に話す言葉を頭の中で探して、文章を作成中なのだろうか。いや、それだったらまた、癖が出ても良いはずだ。
では、ただ単純に話すのを躊躇っているのだろうか。
孝一に二つの考えが浮かぶが、下を見る彼女の表情が垣間見えた時、どちらなのかは一目瞭然だった。
「……言いたくないのなら、言わなくてもいい」
下を向いている香澄の顔を見て、自然とそんな言葉が出る孝一。
当然だった、今の香澄の顔は、孝一が見たくない顔である。
正直な話、そんな香澄の顔を見るくらいなら、どうして二人の苗字が違うかなど知りたくない。話す事が苦痛になるのなら、無理して話す必要はない。
話さない事、それ自体が一つの意味を成しているので、孝一は大よその察しはつく。香澄の言葉を待ちながら、そんな事を考えていると香澄はゆっくりと顔を上げた。そして、微かに潤んだ宝石のような瞳を孝一に向ける。
「やっぱり孝一君、香夏子さんと同じだ。頭が良くて優しい」
孝一は即時否定したかったが、今回は敢えてそれはしないでおいた。
「無理をする必要はないさ、話したくないって事だけで大体の察しはつく」
「流石、さっきお水を持って来てくれた香夏子さんみたい」
「あの人には負けるよ」
苦笑しながら孝一は答える。香澄は「ありがとう」っと短く言って話を続けた。
「孝一君の気持ちは本当に嬉しい。思えば、一年前から孝一君はいつも私の事を第一に考えてくれた、その優しさにはいつも甘えちゃう」
「存分に甘えてくれて構わない。その方が俺も楽なんだ」
彼女に無理をさせず、自分に寄り掛からせる方が孝一は嬉しい。しかし、それが可能だったのは、一年前の話であり今ではない。
彼はずっとこう考えていた。
自分が甘えさせる相手はもう香澄ではないのだと。
けれど、今の孝一にだって香澄を甘えさせられる。それが彼にはとても強い心の支えだった。結衣との和解に必要な大きな武器にすらなり得るかも知れない。
仄かな満足感を得ている孝一に香澄は話を続ける。
「でもね、いつまでも孝一君に甘えてる訳にはいかないよ。だってこのまま孝一君に甘えたら、その分だけ結衣を傷つける事に繋がるから……。だから、私はもう孝一君には甘えません。今ちょ~っと怪しかったけど、うん。大丈夫、ちゃんと話すよ、孝一君には隅から隅まで全部話します」
弱さと勇気が混じった香澄の本音は、今しがた考えていた愚かな孝一自身の考えを根本から否定するモノだった。
孝一はどれだけ自分が矮小な存在かを改めて認識する。
「強くなったな、でも無理だけはしないでくれ。これ以上は話せないって思ったら、いつでも止めていいからな?」
最後の最後まで、いつでも止めていいと口から馬鹿な言葉を垂れ流す。
前を向こうとしている香澄を妨害している自分に心から嫌悪した。
最終安全地帯など、用意するのは無粋の一言に尽きる。
それを重々承知しておきながら、孝一の口はついそれを話してしまった。頭では理解していても、口は止められなかったのだ。
これのどこが香夏子と同じなのか。
注いでくれたお冷に視線を一瞬落として、香澄に気付かれないように、テーブルの下で自分の太腿を叩いた。それぐらいの罰が孝一には必要だった。
「さっき結衣は話さなかったけれど、両親が離婚した原因は、そもそも私達にあるんだ。中学の頃、私達家族はお父さんの仕事の都合で、とある地方に一年の初めの寒い時期、三ヶ月だけ引っ越した事があるの」
「三ヶ月? 随分と短いな。それぐらいなら転校しない方が、何かと便利だったんじゃないか? 単身赴任とかあるだろう? ……いやそうじゃない、のか」
「うん、孝一君の考え通り。本来の予定は三ヶ月だけじゃない。もっと長くいるはずだったんだ。本当ならきっと今だって、ココにはいないと思う」
「成程。それで、予期せぬ転校をした理由は?」
「結衣がね、転校先の学校に馴染めなくて……」
香澄は言い辛そうに話す。
それは先程までいた結衣の口からは出なかった事実だった。
「元々、地元の空気色が強い。ちょっと閉鎖的な街だったから。最初から、私達家族をそこまで心良く受け入れてくれなかった。そりゃ、近所付き合いとかは普通だよ? 向こうも大人だからね、むしろ引っ越した私達を歓迎してくれた。だけど、問題は子供の方、私達姉妹側にあった」
「そういった街だとあれか? 幼稚園からずっと同じ顔ぶれで育って来たって事なんだろう?」
「私達は動物園のパンダと一緒だった。都会の学校だと、転校生って珍しくないじゃない? けれど、その学校では転校生なんて私達だけだった。学年でじゃないよ? 学校全体でだよ? ホント、今まで無かった体験だったんだと思う」
辛そうに話す香澄の頭に浮かぶ当時の様子を孝一は想像する。
孝一はこれまでに転校経験がないが、学年が変わり目、所謂節目の時期に転校生がやって来る事はあった。その際、彼らに対して特に何も考えなかったし。第一、転校生なんて言うものは、日常的な現象だったので興味が湧く訳もない。ただ、香澄達姉妹が行った学校は違ったようだった。
「私は中学三年生、結衣は一年生。丁度、今の私達と同じ。学年は違っても動物園のパンダな事には変わりない。むしろ姉妹で転校した事で、余計に注目を集めてしまった」
そこまで言って香澄はお冷に手を伸ばす。
喉を鳴らして渇きを潤す。透明なコップに残ってる残量は半分を切っていた。
「香夏子さんにまたお代わりを貰おう」
「水ばかり悪いよ。何か別の飲み物を頼まない?」
「じゃあ俺が奢るよ。何が飲みたい?」
テーブル横に立て掛けられている、ラミネート加工された二つ折りの手書きのメニュー表を手に取る。今はこれを見ずに注文出来る程、二人の頭には余裕が無かった。
「ありがとう。でも自分で払うから」
「気にしないでくれ。元を辿れば、ココに呼んだのは俺なんだから。結衣が来なくても、会計は最初から俺が払う気だったんだ」
こちらの都合で根本的なルールを捻じ曲げてまで会ったのだから、奢るくらい当然だ。本当は結衣の分も払いたいが、当人はもう代金を置いて行ってしまった。テーブルには今も結衣が置いたキャラメルラテ代が残されたままである。
孝一は二つ折りのメニューを広げるが、決して香澄には渡さなかった。それは彼が奢るという意思表示に他ならない。メニューを香澄に渡してしまった時点で奢るのは難しくなる。
香澄は最初、メニューを孝一から受け取ろうとしたが、彼は見やすいように向けるだけで、決して手渡そうとしない。そんな彼の態度に不思議に感じて、首を横にしていた。やがて、彼がそうする動機に気付いて小さく微笑んだ。
「しょうがないなぁ。ココは孝一君のお財布のお世話になりますか」
「それでいい。どれにする?」
「ん~とね。じゃあ、コーラフロート」
可愛らしいイラスト(これは香夏子作だと、本人から聞いた事がある)とオレンジ色の柔らかい手書きフォントで書かれた文字を指差す。孝一は「ああ」っと頷いて、ついでに自分も何か頼もうとメニューに目を通した。
「孝一君の分は私が奢ってあげようか?」
「却下。それじゃ意味がない」
「ケチだなぁ~」
「ケチとは違うと思うけど」
視線はあくまでメニューに向けたまま、上から降って来る香澄の声に答える。
「俺はメロンフロートにしよう」
炭酸と適度な甘さが欲しかった孝一は、香澄の頼んだコーラフロートの下段に記載されているメロンフロートを頼む事にする。
「意外、孝一君がそういうの飲んでるトコロ見た事ないや」
「そうか? まあ、たまにはいいじゃないか」
普段、そこまで甘い物を好んで飲まないので、香澄に意外と思われたようだが、孝一自身もそれは重々承知していた。それ程疲れているのである。
孝一は店内をウロウロしている香夏子を探す。
香夏子は新規で入った客の注文を聞いていた。邪魔しちゃ悪いので、そっちが終わるまで手を挙げたりせず、待機する。同時に、グリーンドアの弱点はこの点だと孝一は感想を抱いていた。
一人で店内全ての客の相手をするのは難しい。絶対的に店員の数が足りていないのだ。無論、香夏子の卓越した能力(三つのテーブルの客の注文をメモも取らずに一度に聞いて覚える等)は凄いし、またテーブルから聞こえてくる声を拾って、既に調理を始める香夏子の父、山科純一郎の能力も素晴らしい。
しかし店員の少なさは、どれ程二人の能力が高かろうと、補えるモノではない。
テーブル四席、カウンターが十席と決して大きくない店内。だが、やはり二人では完全に回すのは難しい。せめてあと一人くらいホールの従業員がいれば話は変わって来るのだろう。やはり、以前のように、自分が期間限定で手伝った方が良いのだろうか? また、時期を見て両親の許可を貰おう。
孝一がそこまで考えていると、香夏子が振り返り孝一達のテーブルへ真っ直ぐ向かって来た。後ろを向いているのに、なぜ呼ぼうとしている事に気付いたのか、孝一には分からない。
「ごめんね~、お待たせしました。あっ、お冷のお代わり?」
「いいえ。そうじゃなくて、追加で注文しようと思って」
孝一の答えに香夏子は小さく驚く。
「おっ、ありがとうございます。何にするかは決まってる?」
「はい、コーラフロートとメロンフロートを」
「かしこまりました。珍しいねぇ、二人がウチで炭酸系頼むの。特に孝一君が」
香夏子がそう言うと、孝一達は軽く微笑んで口を開ける。
「まあ、たまにはいいかなって。ここのコーヒーが凄く美味しいのは知ってるんで、それを再確認する為にも、たまには違う物を飲んでみようって。なっ?」
多少強引に会話のボールを香澄へと繋げた。
自分へ投げられた会話のボールを香澄は上手に掴む。
「うん、それに今日は結構長い時間いるから。迷惑もかけちゃったし……」
香澄の言う迷惑とは結衣の件だろうと、孝一は瞬時に思った。しかし、香夏子にはそれがピンと来なかったらしく、不思議そうに首を傾ける。
「あれ? 何かあったっけ?」
「ええと、さっき結衣が……」
「結衣ちゃん? さっき帰っちゃった子?」
結衣が店内を出る際にグリーンドアの客の音を一時的に奪った事など、香夏子はすっかり忘れているようだった。いや、もしかしたら呆けているだけかも知れない。孝一は油断しないように、最低限の警戒心を維持した。
ところが、次に香夏子が話す言葉で、それは馬鹿な事だったと自分の哀れさを恥じる事となる。
「ウチの店はお客さんが数組入っただけで、すぐに煩くなるからね。結衣ちゃんが、帰る時にリセットしてくれて、私としては嬉しかったよ? ちょっと疲れてたから、ココのテーブルのお冷を組みながら適当にサボれたしね」
「そう言ってくれると、私も助かります」
「大丈夫大丈夫。じゃあ、ちょっと待っててね。すぐに持ってくるから」
そう言って、香夏子は二人が注文した物を厨房へと伝えに行った。
孝一は香夏子の後姿を見て、彼女のようになりたいな。と心底考える。結衣と香澄の喧嘩の事情を彼女は知らない。なのに、まるで全てを把握した上で行動しているかのような、ついさっきの彼女の言葉。最低限の警戒心なんて意地の悪い事しか考えられない自分には絶対に届かない思考。そしてそれは、香澄を癒す事にも一役買っている。香澄の顔を見れば、それは明らかだった。
「じゃあ、お互いのフロートが来るまで、話は一時中断するか?」
孝一は香澄にそう提案する。今回の話には小休憩が必要だと考えたのだ。
だが香澄は、首を左右に振って拒否の意を示す。
「平気だよ。甘い物が来るって知ってるからね、まだ辛い話も頑張って話せる気がする。いやぁ~、コーラフロートの力は偉大ですなぁ」
「そうか。本当に強くなったな、去年とは違う」
孝一は去年の香澄と比較した感想を告げた。
香澄は微笑みながら、得意気になる。
「ありがと。孝一君のおかげだよ」
「俺の? 何かしたか?」
「付き合ってる時に、色々教えてもらったもん。だから、私が強くなったって感じるなら、それは孝一君のおかげ」
「嬉しいよ」
自分と付き合った事で香澄に何か得るモノがあったのなら、それだけで孝一には付き合った事の意味がある。
「じゃあ話を続けよう。えっと、どこまで話したっけ?」
「香澄達姉妹が、転校した中学校でパンダみたいだったってところかな?」
「了解。そこからだね。えっと、転校した先で私は特に学校生活に困らなかったの。理由は簡単。三年生って受験でしょ? 転校生で盛り上がったのなんて最初だけ。あとは皆受験勉強に一生懸命だった」
「まあ、そうなるのも分かる」
公立中学から高校への受験。誰もが経験する初めての受験だ。当然緊張する。
そんな時期にやって来た転校生に、最初こそ興味は湧いてパンダにしても永遠に構っている暇はないのだろう。
「クラスの何人かは、都会の私立を狙っていた。生まれた時からずっと同じ街で育って飽きちゃったのか、遠くの都会の学校に憧れ始めたみたい。だから、学費を浮かす為に特待生狙っていた。特待生になれば、学費が免除されるでしょう? そうなれば、たとえ通学費が高くてもどうにかなるから」
「じゃあ尚更クラスの雰囲気は受験一色になっていくのか」
「その通り。周りの空気に飲まれて私もすぐに受験勉強を始めた。私の場合、受験する高校の名前かすら知らないから、大分スタートが遅れている。だから深く考えず、近くにある公立高校に行こうと思っていた。私は別に都会の私立に憧れていないもの」
そこまで言って香澄は当時を思い出したのか、目を瞑りしばらく沈黙する。
やがて、小さく息を吐いてから話を続けた。
「ただね、これはあくまで私達三年生の話。結衣がいた一年生とは違う。どう違うのか。直接その場にいた訳じゃないから、詳しくは知らないけど。簡単に言うと、私が周りに飲まれて受験勉強をし始めた時期になっても、結衣はまだパンダだった」
「一年生だからな、受験はまだ先だ。学校生活が面白くて仕方ない時期でもある。入学から季節も変わって、やっと学校生活に慣れ始めた頃に滅多に来ない転校生がやって来たら、注目される期間は長いだろうな」
孝一の推測に香澄は頷く。
「そう、注目されて毎日毎日。結衣は都会の質問漬けにあっていた。同じような事を毎回聞かれて、彼女もうんざりしてたんだろうね。ある日、こんな事を言ってしまったの。都会とココは大差がない。テレビのチャンネル数とお店の数が違うくらいだって。結衣は本心を言ったんだろうけど、それを周りはどう受け取ると思う?」
「嫌な気分になる。自分達の長年住んできた街を馬鹿にされていると」
「そう、正解。結衣の発言に悪気は欠片もない。けれど、聞く側にとってはそんなの関係ないよね? 彼らは都会から来た結衣に馬鹿にされたと受け取った。それからは結衣を囲む空気がパンダから一転してしまう……」
「随分と勝手な連中だ」
孝一は香澄の話を聞きながらそう感想を呟いた。
勝手に聞いて置きながら気に食わない反応をされると、すぐ手の平を返すように態度を変える。一体、何様のつもりなのだ。
「それから結衣に対するいじめが始まった。無視から始まって、ついには昼休みに席を外して、教室に帰ったら、自分の机と椅子がひっくり返されていた。始末が悪い事に結衣の味方は誰もいなかったの。先生すらね」
「先生すら? 教師はこう言う時こそ味方になってくれる存在だろう?」
それでは何の為にいるんだ。そういう時の教師ではないのか。孝一は話を聞きながら自分の機嫌が悪くなっていくのを感じていた。それを抑えようと、鼻から肺に溜まった二酸化炭素を排出する。
「最初に言ったでしょ? そこの街は地元の空気がちょっと閉鎖的だって。だから先生も地元で育った人が多い。そうなると、先生と生徒の距離が妙に近い。皆、同じ街に住んでるから。まるで友達のように、休日に一緒に遊んだりね。そんな先生が結衣の味方をする訳がない。結衣のクラスの担任だった男の先生。名前は忘れたけど、その先生は特に生徒との距離が近く、人望も厚かったみたい」
「少なくとも俺の知っている教師の休日じゃないな。嫌悪すら感じるよ」
「そんな先生が結衣のいじめの事情を知って何て言ったと思う?」
「余り想像したくないが……」
幸い、頭に明確な言葉は浮かばなかった。それでも煙のように曖昧に浮かんでしまった言葉は、どれも嫌なイメージでしかない。
「普通、そういうのってまず公平な全体像を把握しようとするじゃない? そうして全てを知った上で教師としての判断に基づき、冷静な行動を起こす。それが私の考えるいじめが発生した場合の教師の行動だけど、間違ってる?」
語尾を強くして聞いてくる香澄に、孝一は首を横に振った。
「良かった、その先生ね。結衣に一回だって話を聞かなかったんだよ? 全部クラスの、それも自分の周りにいる生徒からだけ聞いてたの。当然、公平な全体像は知り得ないし。冷静な判断なんて出来るはずもない。ただ、一方的に与えられた歪んだ情報だけを頼りに、悪いのは結衣だって決めつけてしまったの」
「異常だよ、教師のやる事じゃない」
「多分、結衣は、今でも根本的に教師という存在を信用してないと思う。あの子は賢いから、あの人が教師と言う人種の全てじゃないのも重々承知しているだろうけど。それとはまた別の……、感情論として、あの子は絶対に教師には心を開かない。それは名月高でも変わらないと思う。表面上は開いているように見えても、内面は完全に閉じているはず」
彼女が教師にされた事を考えたら当然であると孝一は思った。子供しかいない限定的な空間において、唯一の大人である教師の存在は大きい。
それなのに、その大人から見向きもされなかったら、完全に味方はいない。
集団の中で孤立してしまう。
「後から分かった事なんだけど、結衣ね。先生にお前は元いた地域にまた転校し直したらどうだって言われたんだって……。しかも、職員室じゃなくて教室で、朝のホームルーム中に言われたらしいの。他の生徒がいる中、晒し者みたいに」
香澄の話す状況を想像して、孝一の気分は底抜けに悪くなる。体が重い。早く頼んだメロンフロートは来ないだろうか? 厨房に視線を移すと、現在調理中のようで、それ用と思しき二本のグラスが並んでいるのが見えた。
「結衣はその日、気分が悪くなって学校を早退したの。それが引き金になって、段々分かって来たんだ。それまでは、私達家族は誰も結衣が学校でどんな扱いを受けているかなんて知らなかった。本当に知らなかったの。情けない話だけどね。あの子がずっと隠している事に気付けなかった……」
自身の置かれた状況を隠した結衣の思惑は成功している。
だが、最後まで成功し続ける事は出来ず、最後に周りにバレてしまった。
孝一の正面にいる香澄。その表情は儚く、瞳にじんわりと涙を浮かばせて、ゆっくりとした速度で顔を下に向けた。きっと、彼女は当時、気付かずに学校生活を過ごしてきた自分に現在も後悔し続けている。香澄が下を向いてしまったので、話は一時停止されたまま、沈黙だけが流れる。孝一は暫くの間、無意味に天井を見上げていたが、やがて諭すように静かな声で香澄に続きを促した。
「……それで、発覚してからはどう解決したんだ? 結衣がこれまで受けて来た苦痛を知った家族。特に両親が学校側に激昂したのは容易に想像出来るが」
孝一がそう尋ねると、香澄は顔を上げる。彼女の瞳からは、涙が流れていた。
涙が流れた痕跡がある頬をスカートのポケットから白いハンカチを取り出して、涙に当てる。涙が当てられたハンカチは、白色から水分を染み込んで灰色へと変色していく。
暫くしてハンカチを頬から離した香澄は苦笑して、口を開く。
「ごめん、思い出しちゃって……。話の続きだけど、結論から言うね。さっき孝一君が話した容易に想像出来る両親像と現実のウチの両親は重ならない」
「どんな風に?」
「お父さんとお母さんで意見が割れたの。お母さんは、それはもう怒ったよ。そこは孝一君が想像で合ってる。違うのはお父さんの方。どうしたと思う?」
「分からない」
孝一の考えでは、むしろ父親の方が不当な扱いを受けている娘を助ける為に行動を起こしていると考えていたが。
香澄の話は孝一の想像の全くの逆である。
「ウチは元々転勤族で引っ越しも多かったけど、あの時の引っ越しは希望したものじゃないらしいの。簡単に言うと飛ばされたんだ。そんなお父さんが、娘が学校でいじめられたから転勤したい、なんて会社に異動願いを出したいと思う? 本人からしたらココで成果を上げて、都会に返り咲いてやるくらいに考えていたんだよ?」
「働いた事はないから、想像でしか言えないが……。まあ、良い印象はない」
「でしょう? お父さんもそう思ったみたい。だから、お父さんは結衣を助けようとはしなかった。あと二年じゃないか、どうせ高校に行ったら別れるような連中なんだから、それまでの辛抱だ、……って。それが結衣には相当応えたんだ。あの子は今すぐにでも助けて欲しかったんだもん」
「ショックは相当だろう」
教師という、本来ならば公平な立場なはずの大人からは裏切られて、今度は自分の絶対的味方であるはずの、血の繋がった家族。それも経済力や決定力を強く持ち、絶対逆らう事の出来ない父親に裏切られたのだ。
「結衣にとって唯一の味方だったのは、お母さん。やっぱり毎日学校から帰って来るあの子を直に見てるから。どことなく、雰囲気がおかしいって事に気付いていたらしいけど、新しい環境だからまだ慣れてないだけと思っていたみたい。毎日毎日、両親は夜中になると激しく言い合っていた。娘の為にココを離れた方がいいと主張するお母さんと、それは断固として出来ないと主張するお父さん」
「それで、意見が合わなくて離婚したのか?」
孝一の問いに香澄は首を横に振る。
「ううん。まあ、それも一つの原因なんだろうけど、決定的な事は別。結衣がね、学校で倒れちゃったんだ」
「それって誰かに突き飛ばされたとかそういう……」
孝一が言い終わる前に、香澄は手を左右に振って否定する。
「そういうのじゃないよ。結衣はそもそも直接的な暴力を受けている訳じゃなかったからね。外見上の変化が見受けられなかったからこそ、私達家族も気付くのが遅くなったのだけど……。とにかく、あの子自身が一人で倒れたの。極度の緊張とストレスが原因でね」
「ストレスか。誰も味方がいないって言うのは辛いんだろうな。それに早退するまでは、本人が家族にも隠し続けていた訳だ。それが発覚したからって、それまでの苦痛が帳消しにはならないだろう」
「私もそう思う。まだ発覚する前の話だけど、結衣がね、毎日夕食の時間にいつも学校生活の事を話すの。誰々とこんな話をしたとか、今度誰々と遊びに行くとか。でもそれは全部嘘だった。少しでも感づかれないように必死に騙してたんだ」
「凄いな、徹底してるじゃないか」
「普通分からないよ。私も学年は違うし、友達と遊びに行くと言った日、結衣は本当に出かけてたもん。一人で図書館とか行って時間を潰してたみたい」
そこまで周到なら家族でも気付かなくて当然だ。騙す対象が他人ではなく家族という点も大きい。家族ならば、自然と警戒心が落ちるからだ。
結衣が話す学校生活にわざわざ疑った姿勢で耳を傾けない。
「最初、結衣が倒れたと聞いた時、私達家族は、純粋にあの子の体調面を心配した。けど、それは大間違い。原因は精神面だった。その時に初めて結衣が中学校でどんな生活をしていたか分かった……。そして明らかになっていく結衣のいじめ。さっき話した両親の喧嘩もこの後だよ。長い話し合いの末、最後に両親は離婚した。今、私はお父さん。結衣はお母さんの下で暮らしてる。お母さんは元々司法書士の資格を持っていて働いていたから、結婚して休職していたとは言っても、再就職に大きな苦労は無かったみたい。今は二人でマンションに暮らしてるよ。私は月に一回、お母さんに会ってる。そこで色々話すけど、結衣の話題は積極的には話さなかった。だから私の方からは結衣について殆ど何も知らない。時々、お母さんから近況を教えてくれるから無知じゃないよ。結衣が名月高に入ったのも知ってはいたし」
「妹が同じ高校に入学したと知って驚いたか?」
孝一の問いに香澄は下を向いて、言葉を貯めて一気に顔を上げた。
「そりゃ……、もうっ! 私が名月高に入学したのは知ってたはずだから、結衣は絶対に違う高校へ行くと思ってたもの。それが名月高に入学するって聞いて、本当に驚いたよ」
「やっぱり、結衣には嫌われてるのか?」
先程の二人のやり取りと、今の話から孝一は出た限りなく事実に近いであろう可能性を彼女に問いかける。
香澄は一瞬、目を伏せたがやがて、孝一の目を見て弱弱しく頷いた。
「うん、そうだね。私はあの子から嫌われている。理由は明白なんだ、当時、私の学校生活が順調だったからなのと、私が結衣を助けなかったから……」
「助けなかった? それはしょうがないだろ? 気付かなかったんだから」
「結衣はそう思ってないよ。あの子は両親が自分のいじめ問題について、知らないのは当然だと言っている。けれど、私が知らないのはあり得ない。ずっと私が知らないふりをしていたって主張しているの。同じ学校だから分からないはずないって」
確かに通学している学校が同じ、加えて姉妹と言う事であれば、香澄が自分の置かれている環境を知らない訳がないと主張するのも理解出来る。
「……でも、本当に知らなかったんだろう?」
仮に香澄が結衣の問題を把握していたら、彼女は絶対に見て見ぬふりをしたりせず、行動を起こすのを孝一は知っている。なので、これは答えを承知の上で聞く一種の確認作業である。孝一の問いに香澄に首を縦に振る。
「私は本当に知らなかった。多分、当時の結衣がもっとも警戒していたのが私だから、一番注意して隠していたんだと思う。だけど、いくら知らなかったって弁明しても決して信じてもらえなかった……」
人を信じるには客観的事実を除けば主観的事実しかない。
この場合、香澄が自分は知らなかったと主張する事でしか、事実を証明する術がない。だが、それは結衣に信じさせる程の力は無かった。
「難しいな……」
「だから私は今も結衣に嫌われている。名前を呼ばれた事なんてもう何年もない。そもそも会う機会がないから。私がお母さんと会う時は決まって結衣の姿はない。毎回、私が結衣は来ないのって尋ねるけど、お母さんは弱弱しく微笑みながら首を横に振るだけ。毎回、そうだから私は聞く前から結果を知っている。お母さんが毎回首を横に振るのが苦しいのも分かってる。だけど、聞くのを止められないの。心の何処かで、遅れて結衣がやって来るって返事を期待してしまってるから」
絶対にないと分かっていても、淡い希望を捨てられない香澄。
香澄の心情を察すると、孝一はとてもやるせない気持ちになった。そして、同時に一つ疑問が浮かび上がる。
「なあ、香澄。話の腰を折ってすまないんだが、一つ質問いいか?」
「ええ勿論。何でも聞いて」
「じゃあ遠慮なく。姉妹が連絡を一切取ってなかったのは今の話を聞いたら、分かる。けれど、最近は違うんだよな? そうじゃないと、結衣がそもそもココにに来る事すら出来ないんだ」
孝一の疑問に、香澄はゆっくりと頷く。
「うん。今言おうと思ってたんだけど、先に聞かれちゃったね。答えは簡単。あの子が名月高に入って少ししてから、向こうから急にメールが届くようになったの。アドレスお母さんから聞いたんだと思う」
「成程」
「その時の私はにかく嬉しくて、もしかしたら昔みたいに結衣と仲良く出来るんじゃないか。ううん、それどころか一緒に登下校だって出来るんじゃないかって考えたの。我ながら馬鹿だよね」
「無理もないさ」
当時の香澄の心境を考えたら、きっと孝一だって同じ事をしていたに違いない。孝一が頷いてから、香澄は話を続ける。
「どうしていきなり結衣からメールが来るようになったのか。私にはさっぱ理由が分からなかったけど、段々分かった。あの子は私から孝一君の事を聞いてきた。それもずっと」
「俺?」
まさか自分の名前が出るとは思っていなかったので、孝一は驚く。
「それっていつ頃の話だ?」
「えっと、孝一君と付き合い出して一年が経った丁度の辺り。私は、そんな事を聞いてくるあの子の意図が分からなかったけど、ココで私から返信を止める訳にはいかないって思って。聞かれた事には正直に全部答えていた。孝一君と結衣が付き合い始めた辺りから、それは無くなったんだけど、最近ちょっとずつ、メールが来るようになった。どうしてか分かる?」
「土曜日の夜の電話だろ?」
「そう。その通り、私達が電話している事を私が話しちゃったんだ。ごめん。でもあの子に内緒を作る訳にはいかなかったの」
「構わないさ、香澄の気持ちは良く分かる」
「ありがとう。でも毎回の内容を隅から隅まで結衣に伝えていた訳じゃない。これは本当。信じてほしい。ただ、たまにメールが来て内容を聞かれてたの。だから、この前のテスト勝負も知っていた。黙っていて本当にごめんなさい」
香澄が頭を下げた。先程から、何度も気にしていない風を装っていた孝一だったが、実はそこまで平気でもなかった。結局、何も知らなかったのは自分だけだったのだ。その事実は大きい。
彼が深い溜息を鼻から出したのと、注文していた飲み物を香夏子が持って来たのは、ほぼ同時だった。
「は~い。お待たせしました、コーラフロートとメロンフロート」
「あ、どうもありがとうございます」
頭を下げる孝一。
「いえいえ。はい、どうぞ」
微笑みながら、香夏子が二人の前にそれぞれのフロートを置く。
シュワシュワと炭酸の弾ける音と、コーラとメロンの甘い香りが二人のテーブルの空気を和やかにする。先程までどうしても話のせいで、暗くなってしまったテーブルを変えてくれたフロート達を見て、二人は自然と笑顔になった。
「わぁ~、美味しそう」
「本当だ。話はここまでだな、もう結衣についての全体像は話しただろう?」
「うん、あの子について、伝えなきゃいけない事はもう全部話したよ」
「じゃあ話は終わり。フロートを食べよう」
「そだね、私もずっと話してて疲れちゃった。アイス食べたい」
ずっと頭の神経を焼くような会話を続けていた二人は、このフロートを食べながらも話を続ける気にはなれなかった。目の前のフロートに夢中になる方が疲れた頭にも優しい。
孝一が細長い先割れスプーンでアイスを一口分に削り、口に含む。バニラの甘さとアイスの冷たさが無造作に口の中に広がっていく。
「美味しい」
感想が口から漏れる。目の前にいる香澄も同系統の感想だったらしく、アイスを口に含んだまま、笑顔で頷いていた。そんな二人の様子を見て、傍にいる香夏子が笑顔になった。
「美味しいでしょ~。さっきから二人が深刻な話をしてるみたいだったから、持って行くタイミングに迷ったけど、でも良いタイミングだったみたいだね。良かった良かった」
「ええ、ベストタイミングです。コーラフロートとっても美味しい」
「もう、香澄ちゃんは可愛いなぁ。よし、じゃあ良い物をあげちゃおう。ちょっと待ってて」
香夏子はそう言って、早歩きで厨房まで向かい、奥へと入って行った。普段、奥まで入らない彼女が奥まで行くのは珍しい。
孝一は彼女の言う良い物とは一体何だろうかと期待する。
しばらくすると、厨房の奥から白い皿を持って香夏子がやって来た。
「はい、コレが例の良い物です」
香夏子が二人のテーブル中心に白い皿を置いて、掛けられているサランラップを剥がした。中身は、一口サイズの四角い市松模様のクッキーだった。それが何枚か白い皿に乗せられている。
「わぁっ! 可愛い。香夏子さんが作ったんですか?」
「うん、私の手作り。まだ、試作品だけど、いずれはココで出せたらいいなって。手作りだから、手間がちょっとかかるだけで、値段が下げられるからね」
「凄いですね、そんな大事な物を戴いていいんですか?」
試作品ならば、自分で味を見なければいけないのではないだろうか? 貰える事は嬉しいが、後ろめたい気持ちは隠せず孝一は質問する。
「大丈夫大丈夫。まだまだ沢山あるから。コレはお姉さんからのサービスだよ。勿論、お金は取らないから安心してね」
「ありがとうございます。けれど、どうして?」
「さっきも言ったけど。何か難しい話をしてたみたいだから。甘い物はいくらあっても困らないかなって。あっ、美味しくなかったら残してくれて全然構わないからね? あと、他のお客さんとお父さんには内緒でお願い」
人差し指を口に当てて、語尾の部分の声量を落として話す香夏子に、孝一と香澄は可笑しくなり、笑いながら首を縦に振った。
香夏子がテーブルから離れた後、二人は彼女作の市松模様のクッキーを口に入れる。コーヒーに合うように甘さを調整してあるのか、そこまで甘くなくサクサクとした歯応えが口内で反響する。まだ出来上がってから、そこまで時間が経過していないらしく、さほど冷たくなっておらず、湿気てもいない。
実に孝一の好みの味だった。
「美味しい。香夏子さん、美味しくなかったら残してくれて構わないなんて言ってたけど、そんな事ないよぉ~。コレとっても美味しいよ」
「同感。甘さを抑えてる感じが市販のクッキーでは出せない丁度良い美味しさを生み出してる。あの人、料理まで上手なんだな」
「本当だね、今度料理を教えてもらおうかな?」
「良いアイディアだ。その時は俺も呼んでくれ。味見係を引き受けるから」
孝一が冗談を言うと香澄は「もぅ~」っと笑っていた。数分前までしていた話の毒気がフロートとクッキーで全て解毒された。辛そうな表情をしていた香澄の顔は、香夏子のクッキーによってすっかり元通りになってくれた。
孝一は笑う香澄の顔を見ながら、色々あったが、今日会った事に間違いは無かったと感想を抱いたのだった。