「五章 身勝手な涙とブックカバー」
「五章 身勝手な涙とブックカバー」
(1)
日曜日も孝一は土曜日同様、家で一日を過ごした。夕方頃に散歩も兼ねて、近所の書店に足を運んだ以外、家から出ていない。
結衣とのメールのやり取りは土曜日からずっと継続中だ。彼女は今回のテストの出来が以前より良かったらしく、両親に褒められた事、テストの過去問を渡した孝一に本当に感謝している事を書いてきた。
自分の彼女がテストで高得点を取れたと報告を聞いて嬉しくなる。
孝一は『おめでとう、結衣が頑張ったからだ』とメールの返事を送り、自分も気分が良くなった。また、次のテストになったら、その時は勉強会をすると約束もした。その際には、孝一はまた去年のテストを持って行くつもりである。
日曜日はそう言った風に、結衣とメールをしていた一日だった。
途中、一回飯田からメールが届いたが、特に急ぎで返信する内容でもないので、時間を置いて夜中に返信した。
――月曜日。定期テストが終わり、登校する生徒は皆どことなく笑顔だった。先週までの、必死になって電車内でノートを広げて挙句、歩いている時ですら見ていた生徒は、今日は嘘のように一人もいない。
学校の授業はテストの感想戦が中心だった。
大勢が間違えた部分を重点的に教える授業形式で折角テストを終えて平穏な日常に帰って来た生徒達からしたら、苦痛以外の何者でもなかった。
テスト明けの月曜日は先週に比べて大分頭の回転が鈍くなっており、授業中に眠ってしまう生徒も多かったが、孝一は眠らなかった。単に学校の授業を集中して聞いていたのではなく、放課後が気になり過ぎて眠れないのである。
日曜日の就寝の少し前から、月曜日の放課後までの時間の流れを孝一は、顕著に感じるようになっていた。視界のどこかにカウントダウンのタイマーがある。そんな錯覚があり、緊張にも襲われた。そのせいで全体的に眠りは浅かったが、頭は退屈な授業を前にしても休眠判断をしなかった。
時間の流れは一定速度を維持している大原則が崩れてしまう程に早いペースで月曜日の学校生活は終わっていった。
下校時刻を告げるチャイムが校舎に鳴り響く。
掃除当番ではなかった孝一はすぐに帰る事が出来る。荷物を通学カバンに放り込み、肩に掛けた。教室の時計を見る、今は午後四時半。約束の時間まであと一時間。ジェットコースターの頂上にゆっくり上っているような気持ちで、教室から出た。途中、廊下で飯田に会いゲーセンに行かないかと誘われたが、用事があると言って断った。
掃除当番、部活等の一部を除いて、大勢の生徒が下校するので下駄箱がある昇降口までの道のりはいつも渋滞している。普段はそんな事気にも留めず、周りに歩幅を合わせて適当に歩いているが、今日の孝一はそれが我慢ならなかった。
肩をぶつからせながら強引に人の波を通り抜ける。
その度に嫌な顔をされたが、今の孝一にはそんな些細な事を気にしない。
三階の教室から一階の昇降口まで流れ落ちるように辿り着き、孝一は下駄箱を開けて靴を履き変える。踵を歩きながらローファーに押し込めて、やっと昇降口から出た。後は、グリーンドアまで一直線。
そう思って早歩きで正門に向かっていると、肩を二回叩かれた。
孝一は足を止めて振り返る。
「あぁ~、追い付いた。先輩歩くの速過ぎです」
「結衣……」
振り返ると肩で息をした結衣がいた。今、孝一が最も会いたくない人だった。結衣とは元々一緒に登下校はしていない。その理由は主に二つ。
まず二人の利用する電車が途中で別れるからと言う点が一つ。
さらにもう一つが、二人は付き合っている事を誰にも話していない点である。
仮に偶然通学路で会っても、隣には互いに帰る友人がいる。よって一緒に帰るような事は無かった。無論、時折だが例外は存在する。だが、あくまで例外である為、そんな日は中々やって来ない。滅多にない委員会が重なる日ぐらいである。
二人の関係を周りは知らない。
結衣は周りに話したがっているが、孝一がずっと首を横に振っているのだ。
別に結衣と付き合っているのを冷やかされるのが嫌なのではなく、一年生と付き合っている事実を知られるのが嫌なのだ。もし、彼女と同じ学年ならば、周りに話しても孝一は何ら抵抗がない。
一年と付き合っている事実を知られるのが嫌な理由は、単純に羞恥心からであり真意はない。当初、その旨を告げると結衣は「えぇ~、先輩のケチ~」っと不貞腐れていたが、孝一が長い時間をかけて説得したおかげで、やっと折れてくれた。
最近では、今の状況が満更でもないらしく「秘密の恋人同士って良いですね」っと言っている。
以上の事があって、孝一は登下校時には結衣と帰った事はまずない。
その結衣が今、孝一の肩を叩いて傍までやって来たのだ。恐らく一人で歩いている彼の姿を見て、話しかけても大丈夫だと判断したのだ。だが、それにしても少々、配慮に欠ける行動ではある。いつもの彼女らしくない。
「先輩の後ろ姿を昇降口で見つけて追いかけて来たんですよ~。先輩っていつもあんなに歩くの速かったでしたっけ? いやぁ、疲れた~」
「……いや、ちょっと急いでたから」
「急いでた? 何か予定が?」
「いや、気にしなくていい」
孝一は腕時計を見て時間を確認した。約束の時間まで充分余裕がある。そもそも急ぐ必要はないのだ、ここからグリーンドアまで、普通に向かっても大丈夫な時間を待ち合わせにしている。この時点で外にいるの だから、グリーンドアには、どう転んだって間に合う。
孝一は再び足を動かし始めた。歩行スピードは大分遅い。
それを嬉しく思った結衣が上機嫌で彼の隣に並んで歩く。
「どうした? 機嫌良いな」
「だって、先輩と一緒に帰るなんて本当に久しぶりですから。えっと、前に帰ったのは確か付き合い始めてすぐですよね? 覚えてます?」
「覚えてるよ。委員会の帰りだろ?」
「正解です。あの日の先輩はとても不機嫌でした。訳を聞いても一向に教えてくれないし」
「そこまでは覚えてないな。単にお腹でも空いてたんじゃないか?」
適当に言いつつ、孝一は頭の裏側で当時を思い出そうと思考がフル回転する。
ああ、そうだ。あの日は香澄に誰かが告白するのを聞いたのだ。
体育の着替えの時間に更衣室で、他クラスの男子がそう言っていたのを孝一が聞いてしまった。まだ別れて日が浅く、香澄と付き合っていた頃の残滓が、自分にあったのだ。それが悪影響を生んでしまい、孝一を苛立たせてしまう。
結衣と付き合い始めた事で、とっくに失われたとばかり思っていたのに、ふとした拍子に浮き上がってしまったのだ。
当然、そんな事結衣に言えるはずもなく、孝一はどれだけ事情を聞かれても、答えなかった。
「先輩、その顔は思い出しましたね?」
しばし思考していた孝一の顔を見て、結衣は彼が思い出したのを見抜いて、そう聞いてきた。中々の彼女ぶりだと感想を抱く。
「さあ? もうそんな昔の事は良いだろう。それより、テスト良かったんだってな。おめでとう」
テストと言う言葉を出した途端、結衣の声が大きくなる。
「そうなんですよっ! 昨日メールしましたけど、先輩のおかげですっ! 特に数学なんか自己ベスト更新しましたっ! クラス三位ですっ!」
「凄いじゃないか。彼女が頭良くなって嬉しいよ」
「先輩のおかげで取れたんですよ。私一人なら絶対に無理な点数でしたもん」
「その調子で期末テストも頑張ろう」
「はい、ぜひよろしくお願いします」
中間テストの出来が良かったせいもあって、いつもならあまり良い顔をしない次回のテストの話も笑顔で頷く結衣。そんな彼女を見て孝一は微笑ましくなる。
同時に、もう二人の関係を周りに話してもいいのかも知れないと思った。
この問題の根本は、孝一自身が一年生と付き合っているのを知られたくないだけであり、結衣自身は何とも思っていない。それなのに、彼の意見を尊重してずっと秘密にしてくれている。結衣には多大な感謝をしなければならない。
今回のテストの件を切っ掛けとして、二人の関係を前進させるべきだ。たかが、周りに冷やかされるくらい何だというのだ。冷やかされる事が嫌だと言うのなら、結衣の方だって同条件なのだ。彼女だって、周りから冷やかされる彼女は充分にある。
何よりも自分の我儘で彼女を縛り付けるのはこれ以上良くない。それは、孝一の理想とする大人のする事ではない。
「あのさ、結衣」
「はい?」
「俺達が付き合ってる事、もう話してもいい。って言ったらどうする?」
「えっ? 急にどうしてですか?」
「だって俺が我儘を聞いて黙っていてくれてるじゃないか。結衣だって本当はは周りに言いたいんだろう?」
「うーん」
腕を組んで唸る結衣。
孝一は結衣がこの後了承して、明日から周りに話すだろうと思っていた。
しかし、彼の予想は大きく外れる。
「いや、やっぱり言わなくてもいいです」
「えっ!?」
完全に予想外の答えが返って来て孝一は、驚いて足を止めそうになるが、何とか止まらずに足を動かし続けた。その様子を見ながら結衣は話す。
「正直に言うと、今更かなって。周りに話しても特にメリットがない気がするんですよね。まあ彼氏がいない事になってますから、極稀に告白をされたりもしますけど当然全部断ってます。強いて言えば、それが無くなるのがメリットかなぁ」
「今更か……」
結衣のその言葉が孝一に深くのしかかる。自分の都合で勝手に秘密にした癖に、また自分の都合で周りに話しても構わないと言う。どれだけ勝手なのだと、何様なのだと、自分に酷い嫌悪を感じた。
「それに私、この関係今は結構気に入ってるんです。秘密の関係って、何かいけない恋愛してるみたいで楽しいです」
「いけない恋愛?」
孝一が疑問に思って口に出すと、結衣は慌てた様子で手を左右に振った。
「あぁ~、違いますよ? いけない恋愛って別に浮気とかじゃなくて、違う学年で付き合ってるって意味ですからね? 高学年との境界を越えてる感じがして。でも、私の言い方悪かったですね。ごめんなさい」
「いや、俺が早とちりしただけだから」
結衣の説明中に出て来た浮気と言う単語が、孝一の胸に小さな針が刺さったような痛みを感じた。
そう感じると言う事は今、自分は浮気をしているのだろうか。きっと無意識にそう思っているからこそ、針が刺さったのだ。意識していたら、絶対に針は刺さらない。刺さる前に飲み込んでいる。そう孝一は自己分析する。
孝一は小さく溜息をついて、口を開けた。
「悪い。俺が無神経だった、そうだよな。今更だよな……」
頭を下げると結衣は首を横に振った。
「謝らないで下さい。先輩がそう思ってくれただけでも嬉しいです。だって、人に話しても平気って事は、先輩が私の事を恥ずかしくないって思ってくれたって事ですよね?」
「恥ずかしくない?」
そんな風に捉えていたのか。あの時、孝一は一生懸命話してをして、説得に成功したと思っていた。最後に結衣が頷いてくれたからだ。
ところが現実はそうではない。彼女は決して納得などしていなかった。
ただ、孝一の言う事を聞きつつ、自分の中で納得出来る答えを創造してそれをずっと持っていたである。
そこまで分かった時、孝一は非常に恥ずかしくなり、消えてしまいたいくらいに自分が嫌いになった。無限とも言える罪悪感が孝一の心の中に広がっていく。そしてそれが心の外に出た時、孝一の瞳からは涙が零れた。
「えっ!? 先輩!?」
突然涙を流した孝一に結衣は驚いて足を止める。待ち合わせに遅れないように、これまで決して止まらなかった孝一の足も、とうとう動かなくなる。
「私、何か余計な事を言っちゃいましたか?」
「いや、何でもないんだ。涙が勝手に出てるだけで……」
勝手に涙が出るものか。我ながら馬鹿な言い訳だと呆れながら涙を手で拭う。孝一の涙は流れ続けて、中々止まらない。二人が足を止めたので、通学路を歩く他の下校中の生徒の流れから完全に浮いてしまった。
余計な注目を集め、通り過ぎる生徒が二人を何だろうと一瞥していく。
「コレ、使ってください」
結衣が甘い香りのする水色のハンカチを差し出す。
「ありがとう」
孝一はそれを受け取り目に当てる。涙が次々にハンカチに吸収されていき、ハンカチが滲む。しばらくして涙の勢いも弱くなり、最後には流れなくなった。
勢いが弱くなっていた頃から、止めていた足を再び動かし始めていた。
歩きながら腕時計を確認するとかなり時間が経過している。充分、安全マージンを取っていたのに、その貯金も尽きて時間ギリギリの状態となっていたのだ。
最寄り駅に到着する頃にはハンカチの役目もすっかり終わっていた。
財布から通学定期券を出して改札を抜ける。
エスカレーターを降りてホームに出ると沢山の学生がいた。どこの学校も時下校時刻は間帯が大体同じなのだろう、名月高以外の生徒も大勢いる。
孝一と結衣はホームの端に空いているベンチを見つけたので、腰を下ろす。
「ハンカチは洗って返すよ」
「いいですいいです。使ってこそのハンカチなんですから」
手を差し出す結衣。その行為はハンカチを返してくれと言う意味なのは、孝一は分かっていたが、それでも彼は手にしているハンカチを返さずポケットに入れた。
「大事な彼女のハンカチだからな。ちゃんと綺麗にして返したい」
「もぅ~、しょうがないですね。じゃあ、連休明けに返してください」
「分かった、下駄箱にでも入れておくよ」
結衣のクラスは知っているので、彼女の下駄箱もすぐに見つかるはずだ。
そこまで苦労はしないだろう。そう孝一が思っていると、結衣は人差し指を立てて左右に振った。
「のーん。下駄箱じゃなくて、教室まで返して来てください」
結衣の教室まで行ってハンカチを返す。
その意味が分からない程、孝一は馬鹿じゃない。
「了解、じゃあ一時間目が終わったら行くから、教室で待っていてくれ」
「はい。ああ、楽しみ~」
両手を上に伸ばして、大きく伸びをする結衣。そんな彼女を見て自分達の関係が今少しだけ進んだと孝一は思った。こうやって少しずつでも進んでいけば、いずれは香澄を……。
そこまで孝一が考えていた時、ホームに駅のアナウンスが鳴り響いた。
一日に何十回も再生されているだろう、録音された音声案内を耳に入れながら、孝一は立ち上がった。同じく結衣も立ち上がり、彼の横に立つ。
ホームに散らばっていた学生達は、既に電車に乗る為に綺麗な列を作っていた。孝一達も一番近い列の最後尾に並ぶ。
トンネルの向こうから、オレンジのヘッドライトを輝かせて、電車がやって来た。毎日利用しているから、孝一はもう見慣れているはずが、今日は随分と綺麗に見えた。普段と乗る場所が違うので景色に変化が生まれているからだろうか。
車輪の金属音を鳴らしながら、電車はホームに停車する。孝一達の列の前で両開きのドアが開く。車内の暖気と外の冷気が入れ替わる中、二人は乗車した。二人が並んでいたのは列の最後尾だったので、車内のソファーは全て埋まっていた。仕方なく二人は、奥のドアに背中を預けて立つ事にする。
二人が乗ってすぐ両開きのドアが音を立てて閉まる。
電車が発進してトンネルの中へと入って行く。通学路で使っている電車は市営地下鉄だ。この電車で、結衣はそのまま自分の家がある最寄り駅まで、孝一は途中で私鉄に乗り換える必要があるので、二人が一緒なのは結衣が降りるまでとなっている。
しかし、それは普段ならと言う前提条件付きでの場合。
今回は違う。孝一は結衣が降りた次の駅で降りる。その駅がある街には、香澄と待ち合わせをしている喫茶店グリーンドアがあるからだ。結衣が降りた後なので、普段と違う駅に彼が降りる事になっても気付かれる事はない。
そう考えていた孝一は結衣に自分がドコで降りるかを言わなかった。
車内では。孝一と結衣の間に会話は無かった。乗車するまでにあった出来事に疲れてしまったのだ。元々、二人は結衣が会話の起点を作る事が多いので、彼女が黙ると自然と二人の会話数は減少する。
電車はいくつかの駅に停車して、その都度ソファーに座っていた乗客が腰を上げていく。孝一達は近くのソファーが空いたので座った。
やがて結衣が降りる駅に電車が到着する。
「じゃあ、私。ココで降りますね。バイバイ先輩、また明日」
「ああ、また明日。今日は色々ありがとう」
孝一は感謝の意を伝えた。結衣はそれを聞いて微笑みながら立ち上がる。
立ち上がりホームに降りるまでに軽く孝一に手を振った以外、彼女は一回も振り返る事は無く、電車から降りた。孝一は車内から結衣の後ろ姿を目で追っていた。彼女は大勢の人に紛れて、階段を上がっていく。もう、こちらに気付く事は完全にないだろう。
(2)
孝一は一人になった事で、思わず体の力抜けてしまいそうになった。ソファーに深く腰を沈めると、瞼が重くなってくる。眠ってはいけない、次の駅で降りなくてはいけない。
孝一は閉じかけた瞼を何とか開いて立ち上がった。自分が降りる駅にはもう到着する。眠らないように立っていた方が良い。立ち上がると眠気は薄れていったので、抜けかけた気を再び引き締めれた。
電車が次の駅に到着する。
グリーンドアがある駅だ。途中で立ち止まった時間があるから、きっと香澄は先に到着しているだろう。 腕時計を確認すると待ち合わせの時間に少々遅れ気味だった。孝一は電車を降りて、ホームに出ると迷わず改札まで足を動かす。
過去にグリーンドアに行った経験から、彼にはどこの出口から出るのか分かっている。通学定期券を改札に通して駅から出た。
電車に乗る前より日が傾いており、外の風は肌寒い。
久しぶりにグリーンドアがある駅で降りた。最後に降りたのはいつだったか。一年以内なのは確実なのだが、具体的な日数までは覚えていない。
噴水前広場を抜けて、アーチがあるアーケードの商店街に入る。時間帯もあって買い物をする主婦が沢山歩いていた。その風景を孝一はとても懐かしく思う。
グリーンドアまでの道のりは、体が覚えているので迷わない。街の景色は一年前と何一つ変わっていない。あまりに街が変わっていないので、孝一はまるで自分が一年生に戻ったようだと錯覚しそうになる。
香澄と付き合っていた時、グリーンドアで待ち合わせをした事は一度や二度じゃない。放課後の待ち合わせ場所として、あそこ以上の場所はないだろう。繁華街ではない事から、騒がしくない事に加えて名月高の生徒は基本的に来ない。
その事から当時の二人の関係が第三者に露見する事はなかったのだ。
落ち着いて羽を休める事が出来る場所、それがグリーンドアである。
アーケードの商店街を端まで歩き右に曲がる。
目の前にある横断歩道の向こう側にレンガ造りの小さな喫茶店グリーンドアがあった。街と同じくこの店も、孝一の記憶にある外観と変化がない。
横断歩道は赤信号。孝一は足を止めて信号機が青に変わるのを待つ。
この横断歩道すらも、今の孝一には懐かしく感じる。高速道路のインターチェンジが付近にある影響か、一般道にしては車の流れが速い為、決して信号無視は出来ない。よくココで香澄と信号を待っていた。でも今は孝一だけである。恐らく、今後も香澄と待つ事は無いだろう。
あってもせいぜい今日の最後、帰りの時くらいか?
そんな事を考えながら、信号が青になるのを待つ孝一。
やがて車の流れが止まり、目の前にある信号の色が赤から青へと色を変える。
孝一は一歩、また一歩と自分の足を動かした。等間隔で引かれている白線だけを踏みながら、前へと進む。意識して踏み始めたつもりはないのに、一度始めてしまうと最後までそうしてしまった。
おかしな癖が付いた状態で横断歩道を渡り切ると、孝一の目の前にはグリーンドアがあった。名前の象徴たる緑色のドアが懐かしい。
孝一はドアノブに手を掛けて、目を瞑り深く深呼吸した。
一年前はまさかこんな事になるなんて、当時の自分は予想だにしていない。
人生、どう転ぶか分からないものだ。一年でコレなのだから、来年、再来年なんて更に予想つかない。そんな事を考えて、思わず可笑しくなった孝一は、一瞬小さく笑った後、緑色のドアを開けた。
カランコロン。
ドア上部に付いている、慣れ親しんだ優しいカウベルの音が耳に挨拶をしてくる。
店内に入ると、蜂蜜色の程良い照明とコーヒー豆の香りが孝一を包み込む。肌寒かった外気もココには来なく、代わりに暖房のおかげで店内は暖かかった。外から見ると小さな店だが、店内は意外と広い。孝一より年上で年季が入ったソファー席と背の高いカウンター席が行儀良く並んでいる。
「いらっしゃいっ! おっ、孝一君じゃないかっ。久しぶり、香澄ちゃんなら奥のソファー席だよ」
店内に入った孝一を見て、カウンターの向こうの調理スペースから店主、山科純一郎が挨拶をしてくる。 彼の顔を見るのも当然久しぶりだ。
「お久しぶりです、山科さん」
山科に言われて孝一は店内左奥にある、ソファー席へと向かう。店内には何人かの客がいるが騒がしくなく、読書やノートパソコンをしていた。複数人で来店している客も勿論いるが、彼らの声も決して騒がしくない。
この店の利用客の偏差値は比較的高いのだ。
左奥ある四席のソファー席その一番奥、読書をしている香澄の姿があった。
店内にあるアンティークの壁掛け時計を見ると、当初約束していた時間を十分程超えている。彼女は読書に夢中で、孝一に気付いている様子はない。彼は彼女の下へと向かう。
「香澄ごめん。ちょっと遅れた」
緊張を隠して香澄に話しかける。
話しかけられた香澄はそこで初めて顔を上げた。
「ううん、私もついさっき来たところだから」
携帯電話の受話器越しじゃない。香澄の肉声が耳に届く。
孝一は、手前にあるソファー席に自分の着ている紺のダッフルコートを脱いで適当に畳んで横に置いた。 そして腰を下ろす。その様子を見ていた香澄は微笑んで口を開く。
「そうやって上着をいつも畳むの、変わってないね孝一君」
「そうだな、特に変える必要もない。そう言う香澄だって、椅子に掛けるの変わってないぞ」
「あらら、そうでした」
孝一が腰を下ろすと、それを待っていたかのように、山科の娘である香夏子が銀のトレンチにお冷を二つ乗せてやって来た。孝一が頻繁に訪れていた当時から、彼女はこの店を手伝っている。
香夏子は孝一達よりも二年先輩であり、国立大学経営学部に通う大学生。肩まで届く栗色の髪を後ろで一纏めにしており、青いエプロンを着ている。
部活も入っておらず、また兄弟のいない孝一にとって、香夏子は一番身近な年上と言える存在である。
「二人共久しぶり~。もう随分来てなかったよね?」
香夏子は銀のトレンチから二人分のお冷とお手拭きをそれぞれの前に並べる。
数ヶ月ぶりの香夏子は、孝一の知る彼女と何も変わっていない。流石、グリーンドアの店員だと、孝一は安心した。
「はい、お久しぶりです香夏子さん。大学の方はどうです?」
「楽しいよ。結構好きな授業が多くて、履修登録の時に時間が重なっちゃうのが考えモノだけどね」
「大学って自分で時間割を作れちゃうんですよね? いいなぁ~、自分で決められない高校よりも、そっちの方がよっぽど楽しそうです」
「良いだろう~。でもそう言う香澄ちゃんも来年は大学生だもんねぇ。早いなぁ」
香澄と香夏子は同性と言う事もあって、特に仲が良い。香澄自身は何度も一人でグリーンドアに来ているようだ。進路の相談等もよく香夏子にしている。どうやら、香澄の志望大学は香夏子と同じように国立級の偏差値がある大学らしいが、国立大学級に香澄が合格するには相当の勉強量がいる。
大丈夫だろうかと付き合っている時、孝一は心配していた。
香澄とは逆に孝一はグリーンドアに一人では滅多に来ない。ココは彼にとって香澄と来る場所であって、一人で来る場所ではないと考えている為だ。
ただ、極稀に一人で行く時もある。香澄と喧嘩した時や悩みがある時だ。
一人で足を運んで山科親子に悩みを聞いてもらっている。特に普通自動二輪免許習得の際はお世話になった。
「今日は二人でテスト勉強?」
「いいえ、それは終わりました」
孝一が口を開く。中間テストから派生した結果が、現状に繋がっている。なので、厳密には完全に終わっている訳ではないが、それをわざわざ話す必要はなかった。
「そっか~。じゃあ、ゆっくり出来るね。注文はどうする? いつもので良い?」
「ええ、俺はブレンドコーヒーを。香澄は?」
「私は、抹茶ラテをお願いします」
二人が注文を言うと、香夏子はメモを取らずに一回コクンと頷き「かしこました。ごゆっくり」っと言って、席を離れていった。
孝一は香夏子が注文の際にメモを取るのを見た事がない。たとえ十人以上の客が一斉に注文しても、言われたメニューは完璧に記憶していた。
それだけで彼女の頭の回転が速い事が伺える。
どうして書かないのかと一度聞いた事があるが、理由は単純で、メモを取るのが面倒だからとサラリと言っていた。自分の記憶力に絶対の自信が無ければ出ない言葉である。彼女にとって、メモを取る事は手間なだけなのだ。
そんな彼女を孝一は尊敬をしている。
「変わってないね、香夏子さん」
「ああ、久しぶりに来たのに、まるで昨日来たみたいだ。たった数ヶ月だしな、もしかしたらドコかに変化があるのかも知れないけど」
まだ会って数分。外見的特徴に変化は見受けられないが、もしかしたら、内面が変わっているのかも知れない。けど、きっと良い方向に変わっているはずだ。
そして、孝一は改めて香澄を見た。香夏子も久しぶりだが、それ以上に久しぶりな彼女が今、目の前にいる。外見に大きな変化はない。少し疲れが見えるが、先日まで行われていた中間テストの影響だろう。
「……」
「……」
二人の間に妙な沈黙が流れる。テーブルの上には香澄がさっきまでよんでいた文庫本が置いてあった。藍色の布製のブックカバーがされており、かつてデートの時に雑貨店で購入した物だった。
あの日から今日までずっと彼女と一緒にいるブックカバーを見て、孝一は本当に時間が経過するのは早いと感じた。自然とブックカバーを見てしまっていた彼の視線の先に気づいた香澄は、文庫本を手に取る。
「これ、まだ使ってるんだ。買った時、覚えてる?」
「覚えてるよ、色違いで俺のも買ったしな」
孝一は自身の肩掛けカバンから、茶色の布製のブックカバーに包まれた文庫本を取り出してテーブルの上に置く。
「わぁ、懐かしい。そうそう孝一君の茶色だったんだよね」
「茶色は落ち着くんだよ」
「はいはい」
孝一の根拠のない自論に呆れ顔で微笑む香澄。
このブックカバーが互いの沈黙を破り、会話を発車させる良い乗車券となった。二人はそれから様々な話をした。今回の中間テストの感想から始まり、進路やクラスの状況。来年の修学旅行先である、北海道の話まで出た程である。
土曜の夜の電話と違って時間制限がない分、思い付いた話はすぐに口にしても良い。話ながらその事に気付いた孝一は今の環境がいかに恵まれているのかを再認識した。途中、香夏子が注文していた飲み物を運んで来て「うんうん、いつもの二人だ」と言ってきたので、二人は頬を熱くする。
そして多種多様な会話をしながらも、本題にはまだ踏み込めてないでいた。
互いが自然とその事を避けている。話をしようと思えば、いつからでも始める事が可能な事、一度始めてしまうと、現在話しているような雑多な会話は出来なくなってしまう事が、どうしてもブレーキとなってしまう。まるで一度湯船に入ってその心地良さから、中々出るのを躊躇ってしまうように、動けないでいる。
しかし、いつか湯船から出なければいけないのと同じく、話をしない訳にはいかなかった。孝一は会話の区切りを見つける。
「ところで今日の事だけど改めてありがとう」
「えっ?」
会話が不自然な形で止まり、香澄は若干の戸惑いを見せつつ、首を傾げた。
「正直、当日になってやっぱり来れないって、可能性も考えてた。勿論、その場合はしょうがないから、諦めるしかないんだけどさ」
「約束は守るよ。仮に風邪を引いて来るのが無理だったら、ちゃんと連絡する」
「そもそも、風邪なら学校だって休んでるだろう。来れなくて当たり前だ」
孝一がそう言うと、香澄は軽く笑って頷いた。
「それもそうだね」
孝一は、もう残りが少なくなったブレンドコーヒーに口を付けた。グリーンドアのブレンドコーヒーは、多少温くなっても味わえる。香澄も同じく抹茶ラテに口を付けていた。彼女は猫舌なので、今くらいの方が飲みやすいのかも知れない。
抹茶ラテから口を離した香澄は、コトっと音を立てて、テーブルの上に白いマグカップを置いた。
「それで、直に私に会って孝一君は何を話すつもりだったの?」
香澄の澄んだ焦げ茶色の瞳が孝一を真っ直ぐに捕らえている。
彼女の瞳の色は、孝一が好きな色だった。
「それは……」
いよいよ今回の目的を話す事になる。
孝一がした相手に何でも言う事を一つ聞かせる権利は、この為にあったと云っても過言ではない。話す前にブレンドコーヒーではなく、まだ残っているお冷を口に付けた。冷たい冷水が喉を流れて気分が一新される。
そして口を開いて言葉を伝えようとする。
今回、直に会ってまで伝えようとした孝一の話。
しかし、それは突然妨害された。
まだ、言葉にすらなっていない第一声を発した際、誰かが彼の肩をトントンっと二回叩いたのだ。目の前にいる香澄には相手が誰か見えている、ただどういう訳か、まるで心霊写真を見ているような表情になっていた。
この場で自分の肩を叩くのは、グリーンドアの店員。山科親子しかいない。
当時もしばしば孝一達が座っているテーブルに来ていたので、どうせ今日も来るだろうとは思っていた。だからこそ、香澄の表情に疑問が残る。そんな表情をする必要なんてどこにもない。
香澄の表情を見てそんな感想を抱きつつ、孝一はまさに今大事な話をしようとした時に限って来るとは、なんてタイミングの悪い。っと若干、腹を立てながら振り返る。
「…………えっ?」
振り返った孝一。
直前まで彼が持っていた腹立たしさは瞬く間に消失して、代わりにどうして? っと言う感情がその消失した部分を埋め尽くしていく。
孝一の肩を叩いたのは、山科親子ではなかったのだ。
そこには、新城結衣が立っていた。