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レモンイエローは夜だけ繋がる  作者: 綾沢 深乃
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「四章 友達想いの二人と大きい二点差」

「四章 友達想いの二人と大きい二点差」


 中間テストは月曜日から木曜日まで、四日間行われる。金曜日は、名月高が創立記念日なので今週末は三連休である。それを一つのモチベーションに中間テストを乗り切ろうとする生徒は少なくないだろう。

 月曜日、テスト一日目を軽い足取りで登校する生徒はまずいない。

 皆、電車やバスの車内で最後の足掻きとノートを見直していた。無論、孝一も例外ではなく、朝の満員電車の中で折り畳んで小型化したプリントを目で追っていた。

 天井から聞こえる車掌のアナウンスが降りる駅名を告げたので、孝一はプリントをポケットにしまった。降りる瞬間まで足掻こうとはしない。中には今から最寄り駅を降りて、登校している最中もノートを広げている生徒がいるが、あれは絶対頭に入らないだろうと思っている。足を動かしながら、頭を働かせる事が出来る程、器用な人間なんて、そうそういるものじゃない。

 孝一は駅に着いてから、登校して教室の自身のイスに座るまでは、頭の冷却期間としている。幸い、大分涼しくなったので冷やすには充分だった。

 歩きながら勉強をしている生徒達は歩行スピートが遅いので、孝一は普通に歩いているだけで次々と彼らを追い抜いて行く。正門前にいる生活指導の男教師に挨拶をして、そのまま昇降口へと上がって行く。

 ココでは流石にどの生徒も上履きに履き替える必要がある為、勉強を一時中断する。代わりにクラスメイトと今日のテストについての憂鬱を交換するのだ。

挨拶してきた飯田と適当な話をしつつ、孝一は教室へと向かう。

 下駄箱で上履きを履き替えた生徒は同じ階段を通って、それぞれの教室へと向かう。孝一はその時、視界に香澄を捕えた。彼女は同性の友人と話をしながら、階段を上っている。こちらには一切気付いていないようだった。

 教室の雰囲気がいつもと違う。

 定期テストの日だから当然だが、中学から受けているこの雰囲気を孝一はどこか好きになれなかった。好きな人間などいるのだろうか。

 通学カバンから必要な勉強道具を取り出して空になったソレを机横のフックに掛ける。頭の冷却期間を終えて、最後の足掻きの時間が始まった。

 それから教師が入って来るまでの約十五分。孝一は誰とも話さずにノートに目を通していた。もう何度も読み返した自分の字を、もう一度振り返り、思考精度を高めていく。

 こうして、二学期の中間テストが始まった。

 一日目が、砂時計が落ちるような体感時間で終わり、それが二日目、三日目と繋がっていく。最終日、四日目には体感時間もやっと減速をしていく。

 名月高はテスト返却までの期間が早い。

 他校の定期テストの返却状況を孝一は知らないので、比べようもないが少なくとも全ての教科が返却されるまでに一週間を有する中学の頃よりは早い。

 何せ、一日目の一時間目のテストが、下校時のホームルームには返却されるのである。余程、教師が採点に熱心なのか、単に面倒を早目に終わらせたい気持ちでいるのか、その真意は不明だが、生徒側にしたら有難迷惑以外、何者でもなかった。

 しかし、その有難迷惑も孝一と香澄にとっては、迷惑の部分を除いても良いだろう。最終日、四日目は選択科目のテストなので、二人の勝負には該当しない。

つまり、勝負科目は三日目の時点で全て返却されているのだ。これで、明日の夜には勝負結果を互いに発表出来る。

 ――四日目、テスト最終日が終わり明日から三連休。

 これをモチベーションにしていた生徒が教室で満面の笑顔を浮かべて、放課後遊びに行こうとする。飯田もその一人らしく、孝一を遊びに誘った。

「コーイチ、カラオケ行くぞっ! 佐古と祐樹も来るって」

「りょーかい」

 孝一としては一刻も早くベッド横になりたかったが(四日目が一番勉強が捗らなかったので、結局慣れない徹夜をしている為)折角誘ってくれた友人を無下にするのもいけないと思い、了承する。

「徹夜して大分眠いんで、あまり歌わないからな」

 むしろ寝るかも知れない。ボーっとした今の頭だとカラオケ特有の大音量の部屋でもぐっすり眠れそうだ。孝一がそう思っていると、飯田は一瞬驚いたが、すぐにいつもの表情になる。

「まあいいけどよ。そんな事出来るかな~?」

「んっ? ああ、俺今どこでも寝られると思うから、どんな音痴が歌っても平気」

「いやいや、そうじゃないんだ。実は、さっき言ったメンバー以外にも人が来る」

 悪戯を企んでいる子供の顔をしている飯田に孝一は尋ねる。

「驚けコーイチ。女子だっ! それも三人」

「へぇ~、誰? 高橋達?」

 飯田が誘えそうな女子を、適当に頭に並べて言ってみる。飯田は得意気になって首を横に振って答えた。

「違う、他のクラスの女子だよ。雪原さん達」

「お前、あの人達と共通項あったっけ?」

 飯田の口から出た意外な名前に孝一は驚く。雪原は、クラスでも女子とは話すけど、男子とは話さないタイプの生徒。成績優秀でよく廊下に張り出される順位表の上位陣に名前が載っている。その雪原と追試常連の飯田に接点があるとは思えなかった。

「実は最近、図書室で勉強教えてもらったんだ。やっぱ、頭良い人って教え方も上手いんだな。すらすら頭に入って来たぜ。そんで、勉強見てもらったお礼に奢るんでカラオケ一緒にどうですか? って昨日メールしたら、行くって返信があったんだよ」

「ほー。やるじゃん」

「だろ? もっと褒めろ褒めろ。何でも雪原さんの話だと、後二人友達を連れて行くから、そっちも同じくらい連れて行ってくれって」

「じゃあ、俺いらなくないか?」

 飯田は孝一以外に佐古と祐樹を連れて行くと言った。彼らと飯田合わせて三人。三体三で人数的には丁度良い。 結衣の話した勉強会理論を思い出す。

「それだと俺らが本気で彼女達を狙ってるみたいだろ? 下手に数合わせるより、適当な人数集めました感だした方が向こうも安心するってもんだ」

「成程」

 飯田にしては頭が回る。雪原達を少しでも不安がらせない為の配慮が出来るようになるまでとは。そういう事なら自分も参加するかと孝一は思った。

単なる数合わせだ。そこまで気を遣わなくてもいい。その辺りは飯田の役目だ。

「分かった、ドコで待ち合わせ?」

「駅前の南側広場。佐古と祐樹はもう先に行った。女子達ともそこで待ち合わせ、んで俺がコーイチ誘う役」

「そーかい。じゃあ待たせちゃ悪い、とっとと行こう」

 孝一は通学カバンに荷物を放り込み、肩に掛ける。

 二人は待ち合わせ場所まである、南側広場までやって来た。ここまで来る途中、飯田とテストの出来についての話をした。今回、飯田はかなり自信があるらしい事が分かった。雪原の指導の御蔭だと何度も言っていた。

 駅前の南側広場には見知った顔が何人か見える。彼らも孝一達と同じくテストが終わって解放感に満たされた生徒だ。今日までの勉強疲れを癒すのだろう。

 そう孝一が思っていると飯田が雪原達を見つけたらしく小走りで駆け出した。

「お待たせ雪原さん。ゴメンね、コイツと話してて遅くなっちゃった」

 雪原を見つけてすぐ飯田が彼女に謝る。雪原は別に大丈夫だと笑顔で言っていた。待たせた原因の一つは自分にもある、ここは謝っておくか。そう考えた孝一は、先に行った飯田の後を続いて小走りで、彼女の下へ向かう。

「ごめん、話は大体飯田に聞いてる。何か、待たせちゃったみたいで」

「ううん。気にしないで、全然待ってないから」

「そうか、なら――」

 良かった。っと続きを言おうとして、孝一の口が止まった。不自然に止まった彼に佐古と祐樹が不審な顔をする。雪原も首を傾けて不思議そうな表情だった。

「おい、どうした。コーイチ」

「……あ、ああ。悪い、ちょっと欠伸が出そうになって。行こうか、この時間、俺達みたいのでカラオケは混みそうだ。早く行っておかないと待たされる」

 その場で思い付いた孝一の下手な嘘に、雪原は微笑む。

「そうだね、じゃあ行こっか」

 雪原の一言で全員の足がカラオケ店へと向かう。雪原の隣には、当然のように飯田がいて、今日のテストの出来を話していた。孝一に話した内容と基本的には同じだったが、細部に微妙な変化がある。どうやら、雪原に話す為の練習として、孝一に話した事に気付く。だがそんな事、今は些事でしかない。

 それより問題なのは、右前方で佐古とテストの話をしている雪原が連れて来た女子二人の内の一人。

 成瀬香澄である。

 最初、雪原の後ろにいたから気付かなった。雪原の陰に隠れて見えなかった香澄の姿が申し訳なさそうに現れた時、彼の頭は停止してしまった。

その結果、してもいない欠伸をする羽目になったのだ。

 孝一を最後尾として、それぞれ男女がペアになって歩いている。孝一は激しく後悔していた。飯田には悪いが来なければ良かったと思う。相手側のメンバーを把握していなかった自分が悪いのだが。

 そもそも、孝一は香澄と付き合っていた事を周囲に話していない。仮に話していたら、飯田だってそれぐらいの気は遣えていたと孝一は思う。彼はそういうところはちゃんとしている人物である。

 別にこれと言って、変な行動をしなければ大丈夫だろう。正常な行動を心がければそれで良い。結論を出した孝一は、軽く緊張しながら前を歩く四人とカラオケ店に入った。

 カラオケ店は予想通り学生が多く、孝一達は二十分程度待つ事になった。

 二十分ならココで待ってようと言う話になり、カラオケ店のロビーに座る孝一達。孝一も今からどこかに行く気力は残っていなかったので、待っているのは有難かった。他校の学生も待っておりロビーにも人はいる。空いている席には丁度、四人だけ座れるので、孝一は自分が立つと言って、他の四人を座らせた。

 それは優しさと言うよりも一度腰を下ろしてしまったら、立ち上がるのが非常に面倒だと思った故の行動だった。四人は孝一に礼を言って席に座る。

孝一はちょっと家に電話をすると言って、カラオケ店を出た。帰りに寄り道する件は、ココに来る途中にメールで済ませているので、必要はないが外の空気が吸いたかったのだ。彼の行動を誰も止めない。呼ばれたら連絡を出せばいいし、孝一自身もそこまで離れる気はない。カラオケ店の外に出るだけで充分だった。

「ふぅ」

 一人になった事で改めてテストの解放感を味わう。今回のテストは土曜日の勝負が効いているのか、これまでより比較的良い出来だった。全教科が前より向上している。英語に至っては自己最高得点を記録した

 勝負形式にすると対抗心が出て勉強が捗ると言っていた香澄の予想は、見事的中していた。孝一は、普段の積み重ねが点数向上に繋がると考えていたが、どうやらそうでも無いらしい。

 香澄の方はどうなのだろうか。ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。明日の夜にメールで送るので、今聞く必要はない。しかし、わざわざ明日まで待たなくても聞けばすぐに終わる問題でもある。

 孝一は店内にいる香澄を見る。別れてからカラオケ店に入る機会があるなんて考えてもみなかった。彼が香澄と繋がれる時間は、土曜の夜の一時間。それだって、この前初めて時間を超えてしまった。

 最近、ルールの拘束力が落ちている気がしてならない。大人達が自分達に押し付けて、子供の自由を奪うルールとは違うはずなのに実におかしい。

 自分達自身の自由を制限する為に作ったのに、制限し切れていない。

 これではいけない、今の自分には結衣がいるのだ。こんな関係を続けている身分で、どうこう言えた義理ではないが、せめてココで止めておかないと。

そう言えば、あれをどうしようか。

 孝一は勝利の権利について、何も考えていなかった。

 ルールを作るのに熱中していて、自分が勝負自体はそこまで考えていなかったのだ。これは小学校の時に流行ったオリジナルの人生ゲームを作ったのは良いが、やらなかった感情に似ている。

 相手に何でも一つ命令出来る権利。

 賞品としての魅力は充分にあるが、それを使いこなせるかと問われたら微妙だ。自分には香澄に命令する事なんて、特に浮かばない。

 最初、香澄から聞かされた時、下手な物を賞品にするより、余程良いと思った。

その時の感情に嘘はない。それは今だって同じである。ただ、孝一の中で何時の間にか、勝負自体が賞品より上になってしまったらしい。思えば通話時間が延びた先週の土曜の夜もそうだ。あれも会話の内容より、単に香澄との話が沢山出来た事が嬉しかったのだ。

 しかし、これ以上はさっき考えた通り宜しくない。自分達でルールを作ったと言う事は、自分達の匙加減一つでいくらでも壊す事が出来てしまう。

 大人になると言う事は、自分で物事を決められる事だと孝一は考えている。それはつまり、やって良い事が判断出来るのと同じく、やってはいけない事も判断出来ると言う事だ。そこまで考えた時、孝一に一つ賞品の使い道が浮かんだ。

 それは今の悩みも解決出来る画期的な方法だった。むしろ、なぜ今まで気付かなかったのかと疑問を抱く程である。

「よし、これでいこう。大丈夫」

「何が大丈夫なの?」

 口から零れた独り言に後方から返事が返って来たので、慌てて振り返る孝一。

そこには、雪原が立っていた。

「部屋もう開いたって。ラッキーだね、まだ十分くらいしか経ってないもん」

 予想の半分の待ち時間で呼ばれたカラオケに孝一も首を縦に振って同意する。

「私が塚野君を呼びに来たの。飯田君は、メールで呼ぶからわざわざ行かなくてもいいよ。って言ってくれたんだけど、私もちょっと外出たかったから」

「わざわざありがとう」

 飯田に悪い事してしまった。後で謝罪しよう。そう考えながら、孝一は呼びに来てくれた雪原と一緒にカラオケ店へと向かおうとする。しかし、雪原の足は動かない。その場で固まったままだった。店内を覗くと飯田達の姿は見えない。

先に部屋に入ったようだ、賢い選択である。待ってる時間があるなら、一曲でも歌った方が得だからだ。

「どうした? 俺達も行こう」

「ねえ、塚野君。さっき何でいこうって言ってたの?」

「ああ、大した事じゃない。最近ずっと考えてる事があって、それがたった今、纏まったんだ」

「じゃあ、結構良いタイミングで私は現れた訳だ」

「その通り」

 勝負の賞品の使い道を考える時間は、まだ幾らでもあったが、同じ結論が出るとは限らない。無論、さらに上等な使い道が浮かぶ線も有り得るが、現時点で孝一が最高だと考えているのは、今思い付いた案である。

「そっか。じゃあ、これでスッキリして歌えるね」

「テストで大分頭を使ったからな。歌なんて久しぶりだ、何を歌おうか」

 今の孝一の説明で雪原は納得したようで、固まっていた足を動かし始める。

 最近、結衣とのデートでもカラオケには行っていない。結衣自身はカラオケが好きなのだが、孝一があまり好きではないのだ。

歌う事が恥ずかしいのではなく、外に出ているのに、わざわざ部屋に閉じこもる事に慣れない。

 孝一がそう結衣に話しても、彼女は理解出来なかった。それは当然だと思うので怒る事はない。その話をしてから、彼女とカラオケに行く回数は極端に減った。

 今度、結衣とカラオケに行こう。気を遣わせる必要なんてないし、彼女はカラオケが好きなのだ。誘えばきっと行きたがる。

 そう決めて孝一は歩き出す。自分がいる場所とカラオケ店の距離は近い。百歩以内である。特に急ぐ訳でもなく、孝一はいつもと変わらず歩行スピートで、カラオケ店へと足を動かす。

 店内に入りエレベーターに乗る。

 部屋番号は雪原が聞いているらしく、どの階で止まるのか分からない孝一の横で、サッとボタンを教えてくれた。ああ、飯田が夢中になる訳だ。っと隣で微笑む雪原を見て思った。

 雪原が押した階は四階。到着までにそう時間は掛らない。幸い、エレベーターには彼ら二人しかいなかった。他の階からボタンを押さない限り、ストレートで到着する。孝一は頭の中で何を歌おうかと、レパートリーを確認していた。部屋に着いたら携帯電話で歌詞でも確認しようかと考えていると、ふいに雪原が口を開く。

「あのさ塚野君。一つ、良いかな?」

「何?」

 雪原の顔を見ず、現在の階層を示すエレベーターのデジタル数字を見ながら答える孝一。

「今日、このまま帰ってくれないかな?」

「……」

 視線を雪原に戻す。彼女は言ってしまった事を若干後悔している顔をしつつ、強い意志を持った大きい瞳で、孝一を捉える。

 孝一の頭が急速に冷えていく。怒るのでも悲しくもなく、ただ急速に冷却処理されて、思考指数が飛躍的に上がっていく。

「……香澄が言ったのか」

「流石、察しが良いね」

 幾つかの会話の過程を飛ばして、香澄の名前を出すと、雪原は素直に驚いた反応を見せた。エレベーターが四階で止まる。

チンっと言う音と共にクリーム色のドアが開いた。

 孝一と雪原はエレベーターを降りる。長い廊下があり、雪原がその壁に背中を預けた。これ以上進む気は無いようだった。

「誤解しないで。香澄は何も関係ないよ。私の判断」

「香澄が雪原に何かを言った訳じゃないと?」

 孝一が確認すると、雪原はコクンと一回首を縦に振った。

「香澄にはそんな事出来ないよ。だから代わりに私がやってるの」

「友達想いだな」

 少し攻撃的な部分があるが、それも全ては大事な友達の為。孝一は雪原にそう印象を抱いた。だけど、飯田から聞いている話(ココに来る途中に散々聞かされた)とは随分とイメージに差がある。

「ありがと。私ね、知ってるんだ。塚野君が香澄と付き合っていた事」

「ほぉー」

「香澄は私の大事な友達なの。この学校で一番って言ってもいい。私はあの子の為なら何でも協力してあげたいし、向こうからも頼ってほしいと思ってる。こうして、塚野君に頼んでいるのも香澄の為」

「皆の前とは中々態度が違うんだな、そういうの俺は嫌いじゃないけど。だが、ちょっと強引じゃないか? 香澄はこういうの好きじゃないと思うぞ」

 孝一がそう言うと雪原は小さく溜息をついた。

「知ってる。けど別にいいよ。香澄の為だもん、塚野君に嫌われても構わない。大体、普段こんな行動力は私にはないわ。香澄が絡んでる時だけ」

「そっか、香澄は恵まれてるな」

「分かってもらえて何より。……それでどうかな?」

「うーん」

 孝一は上を向いて考えを纏める。雪原が香澄の為に自分に帰ってほしい。その気持ちは理解出来なくもない。孝一もまた、飯田の為にここまで来ているからだ。彼個人としては、家に帰ってベッドに横になりたいのが本心であって、騒がしい部屋に長時間いたくはない。

 上を向いて目を閉じていると、瞼越しに照明が当たって視界が白くなる。雪原は隣で静かに孝一の答えを待っていた。ココで自分が急かしたら相手がどういう気持ちになるか。彼女は良く知っているようだ、流石頭が良いだけある。.

しばしの長考の後、孝一は首を下ろして目を開ける。

「条件がある」

「香澄には内緒にしろって言うなら、勿論守るわ。元々話す気はないもの」

「それは知ってる。そっちじゃなくて飯田の方だ」

「飯田君?」

 どうして飯田の名前がココで出てくるのか、雪原は本当に意外だったらしく、首を横に傾けて疑問を口にする。

この時点で孝一は雪原が飯田をどう思っているかを理解した。

「どうして飯田君が出てくるの?」

「俺は飯田に誘われてカラオケに来ているんだ。だから俺が途中で帰ったらアイツに悪い。何が悪いって言うのは、お前だよ雪原」

「私?」

「ああ、飯田は俺が帰ったら雪原が気分を害するって考えるはずだ。このままここで俺が帰る、そしてその旨を部屋に入った雪原が皆に伝えると、まず飯田は雪原に謝ってくるだろう。いや、だろうじゃなくて断定出来る。だから、そうなった場合、ちゃんとアイツをフォローしてやってくれって事だ」

 飯田は今、この瞬間にも自分と雪原が中々部屋に来ないのを気にしているに違いない。場の空気を読んでそこまで心配していない素振りをしているが、本当はすぐに部屋を飛び出したい。そんな彼の内心焦っている様子が手に取るように孝一には分かる。

「塚野君も友達想いだね、ちょっと見直した」

「まあ、そっちと方向性が違うけどな」

 塚野も雪原も根本的には友人を大切に想っている。しかし、能動的か受動的かで両者のタイプはハッキリと区別出来る。

 孝一の説明を聞いて少し笑った雪原が頷く。

「分かった、飯田君の事は約束する」

 その雪原の発言を聞いて、孝一は安堵の溜息をつく。同時に自分がいる理由がなくなった。孝一は一度降りたエレベーターのドアまで行き、下向きの三角ボタンを押す。他の階へ移動したエレベーターが再び上がって来るまで、そう時間は掛からなそうだった。

「ごめんね。当たり前だけど、塚野君の分の料金は私が払っておくね。皆には塚野君から貰ったって話しておくから」

「そりゃどーも。あと俺に申し訳ないって気持ちが一パーセントでもあるなら、それを飯田に回してやってくれ。アイツ馬鹿だけど、悪いヤツじゃない。それはココ数日勉強を教えてやった雪原も知ってるだろう?」

 孝一がそう言うと、雪原は勉強を教えていた日々を思い出したのか、口元に笑みを浮かべた。

「ええ、そうね。飯田君、悪い人じゃない。あまり頭の回転は速くないけど」

「あれでも精一杯なんだよ。雪原が速すぎるんだ」

「そう? そんな自覚ないけど」

 首を傾げて呆けた表情を見える雪原。

「嘘つけ」

 孝一の指摘とエレベーターが付くのは同時だった。孝一はそのまま乗り込み、一階ロビーを選択する。孝一がエレベーターに乗ってもまだ、雪原はそこにいた。孝一からしたら早く行ってくれた方がいいが、そんな事は彼女も承知しているだろうと言わなかった。代わりに片手を挙げる。

「じゃあ、お疲れ」

「ええ、お疲れ様」

 雪原も片手を挙げて、孝一の別れの挨拶に返事をする。

 エレベーターのドアが閉まる直前、孝一は雪原の申し訳なさそうな顔を見る。

全く罪悪感がないのではない。そんな感じが見て取れた。雪原と話したのは数分だったが、その類の演技をするタイプじゃないだろう。

 孝一はそんな事を浮かべながら一階ロビーに到着するまで、エレベーターの階数表示を眺めていた。

 一階ロビーにエレベーターが到着して、孝一はそのまま乗るグループと交代で降りる。途中で帰る事をカラオケ 店員に伝えた方が良いのか迷ったが、特に何も言ってこない。料金は雪原が払う事になっているから、そこまで神経質になる問題でもないのか。そう考えた孝一はそのままカラオケ店から出た。

 ――翌日の夜。

 孝一はテストを一教科ずつデスクに置き、携帯電話で写真を撮っていた。その作業を予め約束していたメール送信時間の十分前に行っていたのは、時間ギリギリにならないと動けなかっただけで、深い意味はない。

 孝一と言う人間は決められた物事に優先順位を付けて行動する。ところが今回はそれが正常に機能せず、気付いたら十分前に作業を始める始末であった。

 全ての写真を添付したメールを作成して、時間を確認する。あくまで、確認のメールなので、文章は必要ない。孝一は文面を白紙にした。

 予定の時間までまだ三分はある。そこまで時間通りに済まなさければいけない事でもなかったが、なまじ時間を決めるとそれより早く送信する事に、針のような躊躇いがあった。

 携帯電話をそのままの状態でデスクに置いて、孝一はイスに背中を押し付けて見慣れた白い天井に視界を向けつつ考えに耽る。

考えているのは、商品についてだ。あの日、カラオケに行く際に考えたモノより優れているモノがないかを、ずっと孝一は模索している。

しかし、どれだけ考えても、孝一にはあの日思い付いた事以上は出て来ない。

 一つだけしか言えない以上、それは絶対的な事でなければいけない。先程まで目の前に広げていた(写真は撮り終わったので、もう片付けている)定期テストの見直しよりも、考えを巡らせていたが、結果は同じだった。

「そろそろ時間だ」

 視界を白い天井から携帯電話に戻す。約束の時間の一分前だった。送信中に時間になるだろう。孝一は、最終確認をしてから送信ボタンを押す。

 写真を沢山添付したメールだったので、送信に時間が掛るのかと心配していたが普段と変わらず液晶画面に飛んでいる紙飛行機が雲の上を漂ってから、送信完了と大きく文字が表示される。

 孝一は一仕事終えて溜息をついた。後は、同じように香澄から送られてくるメールを開いて、どちらか上かを確認するだけだ。

三分程待ったら、メールの受信ボックスを開き、新着メールの問い合わせを選択する。送信画面の時とは、逆方向に飛ぶ紙飛行機が浮かぶと、すぐに新着メールありの表示が出た。手に自然と汗が滲む。

 受信ボックスを開いて、そこにある未開封の受信メールを確認する。相手は宛先に表示されているのは香澄。久しぶりに携帯電話に表示される彼女の名前は、孝一を懐かしく思わせる。

 メールを開き文面を読もうとしたが、内容は書かれていなかった。孝一も書いてないので、そこは香澄も倣ったのだろう。

 さて、どうなっているか。

 彼女のメールに添付された写真を開く。携帯電話特有の荒い画質で表示された香澄の中間テストの点数を孝一の瞳が捕える。

 現国は孝一の負けだった。彼女の方が七点高い。

 数学は孝一の勝ちだった。彼の方が五点高い。

 一枚一枚画像を開く度に孝一の心臓の鼓動が大きくなる。自分の点数は覚えているから、わざわざ引っ張り出して見比べる必要はない。ここまでは一勝一敗、非常に良い勝負だ。上手なバラエティ番組だったら、この辺りでCMに入って引き伸ばすに違いない。

 我ながら馬鹿な妄想をしていると思いつつ、孝一は最後のメールを開いた。

 英語は孝一の勝ちだった。彼の方が二点高い。

「……勝った」

 誰も聞いていない勝利の感想を口から漏らす。

 二点差、つまり一問違いの差である。大変な僅差だ、選択問題一つの正否で、簡単に勝利が逆転する程に。

孝一が覚えているのは点数だけでありドコを間違えたまでは記憶にない。大事なのは結果なのだから、そんな事を気にしても意味がないと思っていたが、ココまで僅差だと話は別だ。

 孝一は片付けた英語のテストの答案をもう一度デスクに広げた。

 実際に目の前にある自分の点数と携帯電話の液晶画面に映る彼女の点数を見比べる。孝一の記憶違いと言う事はなく、間違いなく孝一の勝ちだった。

 間違えた箇所を比べてみると、長文読解の選択が大きく、それ以外の正解率は孝一も香澄も大差無かった。結衣と喫茶店で勉強会をしていた際も、孝一は長文の日本語訳を重点的にやっていた。新しい文法が多かったのできっとテストでは得点配分率が高いだろうと予想した為だ。結果、孝一の予想は当たり、長文読解の比率がテストの配点が高かった。

 そこが今回の勝負の決め手となった。仮に孝一が予想を立てず勉強をしていた場合、恐らく負けていただろう。

 孝一の心臓の音はピークを過ぎ去ったのか、何時の間にか平時に戻っている。

 孝一は次の行動の思考を始める。

 今日はまだ電話をしてはいけないルールだ。

 電話をするのは、明日の今頃である。それまで通話をしてはいけない。孝一は、本当は今すぐにでも発信ボタンを押したかった。事実、自然と手は電話帳を選択して、香澄の項目でカーソルを止めている。後は、電話番号の表示にカーソルを決定。発信ボタンを押すだけで済む。済んでしまう。

ダメだ。

 首を横に振り、鼻から息を吐く。体内に溜まった邪な膿を残らず吐き捨てる。

 携帯電話を待ち受け画面に戻して閉じる。一時の感情で動いてはいけない。

 日頃から優先順位をつけて行動している孝一からしたら、反射的な処置をする事は一番してはいけない行為だ。人間は本能のまま動く動物じゃない、思考しているからこそ、一時の感情で動いてはいけない。そうやって起こした動物的行動が、プラス結果を生んだ事など数える程しかなく、その五倍はマイナス結果を生み出している。

 孝一は大きく深呼吸をした。

 それから英語のテストを片付けて、自室を出る。

 キッチンで水を一杯コップに注いで喉に流し込み体を冷やした。

 再び自室に戻り、いつものように寝る準備をして横になる。三連休の一日目の夜。普段の孝一ならばまだ眠ったりしない。

 テスト勉強をしなければいけなかったので、読めていない文庫本がある。

 シリーズ物の小説の後半三冊。

 この三連休で消化しようと楽しみにしていた自分への褒美である。横にした体を起き上がらせて、イスに座らずにデスクのスタンドライトを点けた。デスクの上に置いている文庫本をベッドから身を乗り出して取った。壁を背持たれの代わりにして、文庫本のページを開く。

 楽しみにしていた文庫本のページはやたら重かった。

 一行と一行の間が無性に遠くに感じる。

 それでも、孝一は半ば意地となって文庫本を読み続ける。やがて、脳が慣れ始めたのか、文字がスラスラと頭に入るようになり、孝一の想像上のシアターに物語が展開されていく。

 彼が就寝したのは、文庫本を三分の一程読んだ後だった。

 ――土曜日の夜。午後十一時。

 孝一はいつものように、自室の光源をデスクのスタンドライトのみにして、香澄へと電話をかけようとしていた。

今日一日、ずっと本を読んで過ごしていた。結衣とは会っていないし、外出もしていない。ただ、コーヒーを飲みながら文庫本を読み、最近テスト勉強で使用機会の無かったノートPCでインターネットをしていた。

実に充実した一日である。途中、結衣とメールをいくつか交わした以外は、外界との接触は無い。

 文庫本にすっかり夢中になっていたので、香澄に電話をするという感情は、昨夜の自分からは信じられない程に縮小していた。孝一はそれ程文庫本にのめり込む事が出来たのだ。

 香澄の番号を選択して、発信ボタンを押す。

 今日は初めから耳元に携帯電話を近付けていたので、コール音がハッキリと聞こえる。そして、コール音が五回目になるかならないかで、香澄の声が聞こえた。

「……はい、成瀬です」

「もしもし塚野だけど」

 携帯電話から聞こえる香澄の声は弱々しく元気が無い。孝一は時間を間違えたかと壁掛け時計を見直したが、間違ってはいなかった。

「こんばんは香澄」

「……こんばんは孝一君」

 いつもの挨拶にも元気が無い。体調が悪いのだろうか、ならば今日はもう切った方が良いかも知れない。

「どこか体の具合でも悪いのか? だったらもう切るけど」

「あ、ううん。大丈夫、ごめんね」

 自分の声で相手を心配させたのが分かった結衣はすぐに元気な声を出したが、孝一にはそれが空元気のような気がしてならなかった。でも、それを声には出さない。

「悪くないなら別に良いんだ。それで今日の話だけど、昨日送ったテスト写真を添付したメールは見たか?」

「うん、見た」

「じゃあ、結果は分かってるな」

「その事だけどさ……」

「何だ?」

 孝一が尋ねると香澄の声が止まった。やはり体調が悪いのでは……。香澄は自分の体調不良を隠して物事を行おうとする悪い癖がある。

他人の体調には気を遣うのに何故だが、自分にはしないのだ。本人から言わない以上、周りが気付くしかない。学校を体調不良で早退するのも、保険医に言われるまで絶対にしないタイプなのである。

 やっぱり切るよ。

 そう孝一が言おうと口を開いた時、携帯電話の向こうから香澄の声がした。

「勝負の話だけどさ、やっぱりなしって事には出来ないかな……」

 孝一は一度口を開いたが、言葉を発さずにそのまま閉じた。携帯電話を耳から離して深い溜息をついた。

 どうしてそんな事を言うのだろうか。

 孝一には香澄の考えが、まるで分からなかった。そもそもこの話は彼女から言い出した事である。まさか、負けたから賞品である、何でも一つ命令出来る権利を行使されるのが嫌になって……。いや、あり得ない。

 湧いた可能性をすぐに孝一は揉み消す。

 そう言った筋の通らない事を香澄は絶対にしない。

 塚野孝一の知る成瀬香澄はそんな幼稚ではない。そこに孝一と香澄が恋人同士と言う繋がりは関係ない。一人の人間としての話である。

 故に香澄がそんな事を言うからには何か理由がある。孝一は他の理由を必死に思案した。しかし、前提情報が余りにも少なくて、香澄の考えを予想出来なかった。雪原に何か言われた可能性すら疑ったが、彼女なら直接孝一に電話をするはずなので違うだろう。

さて、どうするか。ココは素直に理由を聞いてみるべきか。

 孝一はそう考えて再び携帯電話を耳元へと近付けた。

「理由を教えてくれないか? まさか、自分が負けたからなんて幼稚な理由じゃないんだろう?」

 それを真っ先に否定してほしくて孝一はそう尋ねる。すると、携帯電話の向こうから大きな声が返って来た。

「違う! そんな事ある訳ないっ!」

「じゃあどうしてっ!?」

 香澄の声に反応して同じボリュームで再度尋ねる。明確な理由を孝一は知りたかった。それ次第では勝負の件は白紙になっても構わない。彼にとっては、香澄と間におかしな溝が生まれてしまうより、何倍もマシだ。

「……香澄?」

 また香澄からの返事が乏しくなる。しばらく待ってみる。すると、幾分かの沈黙の後、携帯電話からやっと香澄の声がした。

「な、な~んてね、冗談だよ」

「どこから?」

「えっと……、最初から」

 冗談と言う香澄の言葉を孝一は一切信じていなかった。香澄が相手を落胆させるような冗談を言うタイプじゃない事は良く知っている。きっと自分の反応受けて、慌てて冗談に変換したのだろう。そこを突いて、香澄が隠した真実を暴く事は孝一には容易だったが、しようとは思わなかった。ただ、そこまでの事なのだと理解出来た。

「怒ってる……?」

 黙っていると、不安そうな香澄の声が聞こえてきた。

「怒ってない」

 言った後、自分でも再度考えたが本当に怒ってはいなかった。

「ごめんね」

「良いよ、冗談ならそれで。でも体に悪いからもう止めてくれよ」

「うん、本当にごめん」

「ああ。話を戻すけど香澄は俺が送ったメールは見たのなら、勝敗は分かるな?」

「私の負け。惜しかったよね、結構良い勝負だった」

「最後の英語を見て勝ったのが分かった時、ドコを間違えたのか確認したよ」

「もぅ~、分かってるよ。長文読解でしょう? 私、あそこに今回あまり力入れなかったからなぁ」

「そこが勝負の分かれ目だったな。でも本当良い勝負だったよ」

 話を進める内に徐々に普段の香澄に戻って行く。孝一はココで初めて今日の電話での緊張が解けたのを自覚した。最初にイレギュラーが起こったので、無意識下で緊張の網を張っていたようだ。網が緩んだ事で初めて自覚出来た。

「負けちゃったか~。返却された時は、そこそこ自信あったんだけどなぁ~」

「悔しいか?」

「勿論。けど、楽しかったのも大きいよ」

「なら良かった。じゃあ約束の賞品。相手に何でも一つ命令出来る権利を行使させてもらう」

「は~い。でも高い買い物とかエッチな事はダメだからね」

 大分調子が戻った香澄は軽口を飛ばす。

「大丈夫、金は掛からない上、変な事でもない」

「へぇ、じゃあ言ってごらん?」

 孝一は目を瞑って一週間を振り返る。電話越しなので、彼の仕草は香澄には分からない。

 勝負をしようと香澄に持ちかけられて、自分が承諾してから今日まで、本当に長かった。一日毎の密度が今までの倍はあった。

 一週間前で助かったと孝一は思う。これが一ヶ月だったら、相当疲労が溜まったに違いない。想像するだけで肩が重くなる。

 幾つかのイレギュラーは発生したが、結果は良好だと言えよう。なぜなら孝一は勝利したのだ。香澄には悔しいかと聞いておいて何だが、仮に自分が彼女の立場だったら、本気で悔しがったに違いない。ココまで苦労して収穫ゼロは精神的に随分応えるだろう。つくづく、孝一は自分の立場の優位性を噛み締めて、テスト勉強を頑張った過去の自分を褒め称えた。

「焦らさないでよぉ~」

 つい考えに耽っていると、携帯電話の向こうで香澄が怒っていた。

「悪い悪い。じゃあ言うよ。俺の命令は……」

「命令は?」

 すぅーっと、口から息を吸い肺に溜めた。確実に次の言葉が言えるように。


「明日、二人で会えないか」


 孝一の口から自然と出た言葉。これこそが、カラオケに遊びに行った時(正確には店内の廊下まで)に思い付いた使い道だった。

 お金はいらない、香澄の羞恥心だって傷付けない。

 ただ単純な命令。むしろ願いと言った方がしっくりくる。

 自分の願いを言った孝一は、携帯電話に耳を当てて香澄の返事を待っていた。

返事も何も命令なのだから、香澄に拒否権は存在しないのだが、それでも孝一は彼女の返事を催促せず、じっと待っていた。

「それだけは……、ダメだよ」

 香澄の声は震えていた。それだけと言う言葉から、香澄もまさか会おうなんて命令が来るとは思ってもいなかったようだ。

「どうして?」

「だってダメだもん。それだけはしちゃいけないよ」

「理由になってない。拒否の姿勢を取るなら、俺が納得する理由をくれ。それによっては、命令を破棄しよう」

 孝一は香澄を追い詰める。

 先程はすぐ引いたが、今は状況が違う。ただ香澄を追い詰める行為は、孝一自身も余り良い気分ではなかった。

 自分の口から出る言葉が、まるで第三者の口から出ているようで、それを客観的に見ている自分は、心底軽蔑した瞳を向ける。

 本人が嫌だと言っているんだから諦めろ。

 誰かにそう言われている気がしたが、敢えて無視をする。

「会ってどうするの?」

 香澄がその先を聞いてきた。孝一は冷静な声色で続きを話す。

「話したい事がある」

「電話じゃダメなの?」

「ダメだ、目を見て直接言わないと意味がない。だから会おうとしているんだ」

 考えをストレートに伝える。ココは変化球を投げてはいけない。そのまま考えを素直に話すだけで充分だった。 孝一が会ってどうするかを話してもなお、香澄は了承しようとしない。仕方なく彼は、使いたくなかった最終手段を使う。

「香澄、賞品を最初に提案したのはお前だ。俺はそれを正確に使用しているのであって、違法なやり方は一切していない。事情を知っている第三者がいたとしても、俺のやり方を間違っているとは言わないさ」

「そうだけど……」

「第一、これは遊びの約束じゃない。勝負に勝った俺が使う正当な権利だ。敗者である香澄は、勝者である俺の言う事は聞かなくてはいけない。そうだろう?」

 孝一は言っている自分が嫌になる程、香澄を追い詰める。

 両者の間に長い沈黙が流れる。

 孝一は香澄の返事をずっと待ち続けていた。自分に言える事は全て言った。これでも話しても彼女が了承しないのなら、それまでだ。

 数分間の沈黙の後、香澄の声が携帯電話から聞こえた。

「いいよ、会おう」

 香澄から了承の声が聞こえて、孝一は左手を握りしめる。電話越しで良かった。目の前にいたら、このニヤケ顔を見られるところだった。っと安堵しながら、すぐに左手を開いた。

「ありがとう」

「我儘を言ってるのは私だもん。実際、孝一君は何も間違ってないから」

 間違っていない、香澄にそう言われても孝一は、さっきの香澄を追い詰めるような話し方をした事を後悔していた。

「いや、俺も強く言い過ぎたよ。悪かった」

「ううん、悪いのは私だから。今日の私、ダメだね。孝一君を困らせてばっかり」

「確かにな、珍しいよ。本当に何かあったのか?」

「何かって?」

「えっと、例えば雪原に勝負の事を話したとか」

「えっ!? 麻衣ちゃん?」

 雪原の名前が出て来るのが意外だったらしく、珍しく大きな声で驚いていた。

その反応で孝一は雪原はテスト勝負について、無関係な事を察した。

「その様子だと雪原は関係なさそうだ。すまん、俺の早とちりだった」

「麻衣ちゃんには孝一君との今の関係は話してないよ。付き合ってる時は話したけどね」

「知ってる。随分と友達想いのヤツだった」

「でしょう? とっても良い子だよ」

「ああ」

 “麻衣ちゃんには“と言う香澄の話し方に、孝一は少々引っかかったが、それを追及する力はもう彼にはない。 優先順位の上位にあるのは、あくまで賞品である命令権である。孝一は「さて……」っと話を雪原から本来の筋へと戻す。

「明日は何時頃なら都合が良い? 頼んでいるのは俺の方だしな。香澄に合わせるよ」

「ごめん、明日は用事があるの。明後日でも良いかな?」

「構わないさ。じゃあ放課後にしよう。適当な場所で待ち合わせって感じで」

 適当な待ち合わせ場所に先日、結衣と足を運んだチェーンの喫茶店が候補として頭に浮かんだが、孝一は言わなかった。

結衣と行った店に香澄と行くのは、どうしても気が引ける。

「適当な場所か~。そうだっ! グリーンドアにしない?」

「グリーンドア?」

 グリーンドアとは孝一と香澄が、まだ付き合っていた頃によく通っていた個人経営の喫茶店である。店主である山科純一郎とも大分会っていない。久しぶりに顔が見たいと孝一は思った。加えてあの店のコーヒーは本当に美味しい。

最近、美味しいコーヒーを飲む機会に恵まれていないので、そういう意味でも丁度良いかも知れない。

「私最近、全然行けてないんだ。孝一君は?」

「俺もココしばらく全く行ってない」

「良かったぁ、二人共しばらく行ってないなら、丁度良いよね? グリーンドアにしよう」

「そうだな、時間はどうする? 五時半ぐらいでいいか?」

「うん、それぐらいに私も着くと思う。月曜日は掃除当番じゃないし」

「決まりだな」

 話が纏まった所で、孝一は壁掛け時計を見る。

 時間は丁度良い具合の時間を表示していた。

「今日はココまでにしよう。時間と場所は決まったんだ。残りの中途半端な時間を無理して使う必要はないと思う」

「そうだね、もう三分しか残ってないもん。今日は一時間がとっても濃く感じたよぉ。凄い疲れたぁ~」

「俺も同じだ、これまで電話している中で一番疲れたよ。さて、もうそろそろだから、切るからな」

「じゃあまた来週ね。あっ、違うか明後日に会うのか」

「不思議な感じだ」

 電話の最後は、いつもまた来週と言う挨拶で閉めていた。それが電話で話す際、最後の言葉にしなくてはいけないと言うルールである。そう勘違いしてしまう程に毎回必ず言っていた。

 だが今日は違う。恐らくこんな事は今日だけで、次回からは通常通りになるだろう。だからこそ、今回のイレギュラーを楽しまなければと孝一は思った。

「じゃあ、また明後日に」

「うん、またね」

 香澄のその言葉を最後に携帯電話を耳元から離した。

 ツーツーっと言う機械音がして、一気に夢から現実に帰還したような錯覚に陥る。孝一は携帯電話を閉じて、デスクに置く。デスクに置いていたテストの答案用紙が入ったクリアファイル(もし、彼女にメールが表示されなかったと言われた時に、すぐ再送信出来るよう、準備をしていた)を手に取り、勝因である英語の答案を取り出した。

 たった二点差。この二点差が今日の電話の大きな主役だった。

 改めてテスト勉強を頑張った自分を褒めてあげたい。

「お疲れ」

 そう小さく呟いて、答案をまたクリアファイルに戻した。

 壁掛け時計の時刻を見ると、日曜日の午前零時十分を指していた。月曜日の約束の時間まで、まだ二十四時間以上ある。

 極端に短いとも思わないが、長いとも思わない。

 上手に言語化出来ないが決して不快ではない奇妙な感覚。

 そんな感覚を受けつつ、また、それを楽しみながら孝一は寝る事にした。

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