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レモンイエローは夜だけ繋がる  作者: 綾沢 深乃
3/10

「三章 勝負を受ける土曜日、断る日曜日」

「三章 勝負を受ける土曜日、断る日曜日」


(1)

 月曜日から土曜日までの時間が速く感じる。

 特にここ最近はそれが加速して、気付いたら土曜日と言った状態になっており、自身の体内時計が順調に狂っているのを孝一は感じていた。

 土曜の夜、午後十一時。一週間前と同じく孝一は、デスクのスタンドライトのみを光源とした自室のイスに座り、二つ折りの携帯電話を開いていた。

 液晶画面に映し出される時刻は、まもなく十一時一分を指そうとしている。開いたまま、陶器のように動かず冷たい携帯電話の液晶画面を見つめているだけで、ボタンを押す仕草は彼にはなかった。

 オートで液晶画面から照明が消えて数秒後、冬眠から目覚めた熊のように携帯電話のバイブレーションが鳴った。低い唸り声を上げながら、着信を知らせる。

 孝一は安堵の表情と共に、通話ボタンを押す。

「もしもし」

「孝一君? 私、成瀬だけど今平気?」

「ああ、平気」

「こんばんは、孝一君」

「こんばんは香澄」

 いつもの挨拶を終えて、土曜日の電話が始まった。

「ちょっと遅かったかな?」

「いや、一分くらいだし誤差の範囲だろう。寝てたのか?」

「ううん、お風呂入ってて遅れちゃった。今日私の番だって、さっき慌てて気付いたの」

 土曜日の電話のルールとして、制限時間の他に電話をかけるのは、交互に行う。っと言うモノがある。こうする事で、通話料も均等になるからだ。

 最初にそうルールを制定した時、そういう理由の下にお互いに納得した。いざ、実際に始まると本当に交互にする事にして良かったと孝一は心底思う。

 相手に電話をするのが元々得意ではない孝一は(電話をかけるのが得意な人間がいるなら、ぜひコツを教えてもらいたいとさえ思う)香澄に自分からかけるのが苦手だった。メールと違ってタイムラグがないからだ。

 正直、自宅の固定電話にかけて本人の代わりに家族が出るくらいの方が、まだ心は軽い。取次ぎの存在が初回の緊張を稀薄にしてくれるのである。

 ところが、携帯電話は個人所有の番号なので、取次ぎが存在しない。受話器から聞こえる第一声は、香澄の声なのだ、逃げようがない。

 この緊張感はかける側になってみないと分からない。

 交互になってかける事で共有しているこの緊張感を、孝一はいつか香澄に話したいと考えているのだが、自分だけが大袈裟に考えていたらどうしようかと邪推が働き、今尚話せないでいた。

「風呂に入ってたって、着替えは? 大丈夫?」

 裸で電話なんて馬鹿な真似を香澄がしないのは承知しているが、それでも一応、聞かずにはいられなかった。

 仮にバスタオル一枚って答えが返ってきたら、孝一は迷わず電話を切るつもりである。

「孝一君のエッチ。今、変な想像したでしょう?」

「……していないと言えば嘘になる」

「ほらっ、普段はそういうの興味ありませんって態度の癖に。やっぱり男子なんだー」

「どっちかって言うと、香澄が風邪を引かないか心配してたんだけど」

「ほ~、相変わらず孝一君は口が上手いなぁ。じゃあそういう事にしてあげましょう」

 仕方なく妥協するような物言いの香澄に対して、孝一は自分の無実を引き続き証明したかったが、グっと堪える。妥協しているのは、彼女より自分の方だ。っと心の中で訴えておいた。

「っとそんな話をしたいんじゃなかった」

「何か話があるのか?」

 今まで予め決めていた話をするのは、香澄より孝一の方が多い。香澄からの話とは一体何だろうか。少量の不安を残し孝一は香澄に尋ねる。

「来週から中間テストだよね」

「ん? ああ、そうだな」

 名月高は来週から四日間。中間テストが行われる、二学期始まって最初のテストだ。最後に行ったのが、夏休み前の期末と言う事で、大分日数が開いている。

 その為、二学期の中間テストは一学期の時よりも、内容が難しいと錯覚してしまう。去年受けた時、孝一も含めて全体的に平均点は低かった。季節が変わった状態に加えてのしばらくぶりの中間テストだ。無理もない。

 去年に一度味わっているので、今年は油断しないよう孝一は九月中旬から、まだカレンダー上では大分先の中間テストを視野に入れていた。

とは言っても、あくまで視野に入れておくだけなので、普段の勉強量に増減はないが、それでも授業を受ける姿勢に多少なりとも変化はある。

「それでさ、良かったら私と勝負しない?」

「……はっ?」

 勝負と言う単語が香澄の口から出た違和感と、テストの勝負と意味の分からなさで、孝一の思考は一時停止する。

「それってどういう意味?」

「えっと、つまり今度の中間テストの点数で勝負しようって事」

「ああ、そういう事か」

「そうそう」

 孝一はようやく意味が理解出来た。むしろよく友人とやっている、テストが返却される前に、片方が勝負を持ちかけ高得点の方がジュースを奢ってもらう。

 普段はテスト返却時に話題に上るので、まさかテスト前からするとは思わなかった。しかも香澄の雰囲気からして、友人とやるような冗談な勝負事ではなく、真剣勝負なのが伝わった。

「それで、どうかな?」

「別に構わないけど」

 断る理由は特に孝一にはない。何も警戒せず素直に了承する。彼が了承すると、受話器の奥から安堵の溜息が聞こえてきた。そこまで緊張するモノなのかと、孝一は不思議に思った。

「勝負形式は? テストの科目が選択で違うのだってあるだろ?」

 二年になれば、いくつかの選択授業が存在して、生徒達はそれぞれ学習意欲のある教科を受講する。

孝一の記憶では、香澄とは選択授業の教科は違うはずだったが。

「うん。取り敢えず選択授業の分は外して、共通授業で勝負しよう」

「じゃあ、社会と理科は外して残りの三教科で勝負?」

 社会は日本史、世界史。理科は物理、生物等で分かれている。

 残った共通している強化を頭に思い浮かべながら、孝一はそう言う。

「うん、それでいこう。丁度、勝負科目が奇数だから同点はないし」

「成程、勝負になっている」

 孝一の知っている香澄は、そこまで勝負事に拘る性格ではなかった。それはテレビゲームでもトランプでも変わらない。確実な勝利の為に頭から終わりまで作戦を考えるのではなく、楽しく勝負が出来る為にある程度までは考えて、後は勝てたら良いなと運頼み。そう考えるタイプだ。

 よって、付き合いが長くなるに比例して、孝一は香澄と勝負系の遊びをしなくなった。勝つ為に作戦を考える彼にとって、彼女との勝負は楽しくなかったのだ。

 平和主義と言えば聞こえは良いが、単に勝負事が嫌いだからだと思っている。

 その香澄が勝負の発案や具体的な方法を言っている。しかも、即興で言っているのではなく、予め話す予定だった。

 孝一は香澄が何を考えて話をしたのか、その目的を深く考える。

「孝一君?」

「えっ、ああ。ごめん、ちょっと色々考えてた」

「考えてた?」

 孝一の言葉に意味が分からないようで、香澄は聞き返す。

「香澄って普段勝負とか好きじゃないから。珍しいなって」

「あっ、だよね。いつもの私らしくはないかも」

「いやいや、それが別に悪いとは言わないさ。ただ、どうしたのかって」

 孝一は考えている事を隠さずに直球で聞く。

「特に深い理由はないよ。勝負形式にした方が対抗心が出て、勉強が捗るかもって思ったから」

「それだけか?」

 そんなはずはないと孝一は深く追及する。すると、香澄は小さな溜息をついた。

「実はもう一つあるんだ」

「もう一つ?」

「せっかく勝負だから、賞品があった方がいいじゃない?」

「賞品?」

「うん、って言っても物じゃないんだけどね」

 物じゃない商品と言われて、孝一の頭は混乱する。混乱している孝一を携帯電話越しに察したのか、香澄の声が引き続き聞こえた。

「相手に何でも一つ命令出来る権利。っと言う賞品はどうでしょうか?」

「相手に何でも一つ命令出来る権利……」

 香澄の言った賞品を孝一は反復する。確かに物じゃない賞品だ。

 使用方法次第では、引換券でも何でも作れるのだから、物としても通用しそうである。そう頭に浮かび口から出そうになったが、孝一はグッと飲み込んだ。

「どうかな……?」

 黙っている孝一に香澄が聞いてくる。恐る恐る聞いているのは彼女の声に緊張が混じっているのだろう。

 電話越しだが、目を瞑れば表情すら浮かび上がって来そうだ。

 しばしの長考をしてから、孝一は短く感想を述べる。

「悪くない」

 賞品と言うだけの価値はある。これがくだらない代物だったら、すぐに否定しただろうが、香澄の提示した権利には魅力を充分に感じる。

「本当っ!?」

「嘘は言わない。欲しいと思わせる賞品としては、中々だ」

「良かったぁ。ずっと黙ってるから、てっきり嫌なのかと思ったよ~」

孝一の言葉に安心したらしく、先程までの震えていた香澄の声は、いつもの落ち着いた声になった。若干、声色が高いのは安心から来ているのだろう。

「物じゃない賞品って何だろうって考えていただけ。深い意味はないよ。こういう権利の方が下手な物品よりずっと良い。よし、勝負しよう」

「今、確かに聞いたからね。負けても取り消しは出来ないよ?」

「そんな小学生みたいな真似はしないさ。そっちこそ、負けたら本当に言う事を聞くんだな?」

「勿論、そうじゃないと勝負にならないもん」

「よーし、今の言葉ちゃんと覚えたからな」

 笑いながら、孝一と香澄はそれぞれの意思を確認する。土曜の夜に話す電話としては、久しぶりに当たりの電話だなと、孝一は話しながら考えていた。

 ダラダラと互いの近況報告をするより、余程有意義である。

しかし、有意義な時間と言うのは、総じて時を短縮させる効果を持つ。

 部屋の壁掛け時計を確認すると、残り時間はそう無かった。

「そろそろ時間になる。細かいルールを決めておこう」

「だね、えっとまず……」

 二人は詳細なルールを制定した。

 一、互いのテストを携帯電話で撮影したのち、写真添付をしてメールで送る。

 二、全てのテストが返却されてから送る。

 三、メールを送るのは、土曜日に話をする為に金曜日の夜。

 四、仮に返却されていなかったら、次の週に持ち込む。

 五、全てのテストの点数が同点の場合、二人同時に権利が与えられる。

 建設した城の補強工事をするが如く、二人は次々と詳細なルールを口にする。互いにとって不利のないように、現状浮かぶ限りのルールを並べていった。

 孝一は口には出さなかったが、ルールの一つである、金曜日にテストを写真添付してメールで送る点が新鮮に感じていた。孝一はここ一年間、香澄とメールを一切していないからだ。最後に送ったメールなんて、とうにメールボックスから消えてしまっている。香澄のメールを一通も保護しなかった孝一の携帯電話には 受信・送信ボックス一覧から、もう彼女の名前が表示される事はない。

 代わりに増えていくのは、結衣の名前。

 上から新しい砂をかけて、古いモノを覆い隠す。そう錯覚してしまう程に今の孝一のメールボックスは結衣の名前で溢れている。友人、家族から届くメールを呑み込む勢いで、液晶画面一杯に結衣の名前が箇条書きで書かれるのだ。

 当初、まだ香澄の名前が若干残っていた時期は、結衣の名前が増えていく事に違和感があった。だがそれも、香澄の名前が完全に消えた事で失った。

 二人の名前が液晶画面に並んでいた時、孝一は言葉に出来ない空虚感に襲われたのを今でも覚えている。

 なので今回、久しぶりに香澄からのメールが届く予定がある事が孝一は嬉しかった。内容は関係ない、液晶画面に彼女の名前が表示される事に意味がある。

 タイムリミット限界まで二人は、話し合いを続けた。(会話にキリを持たせて、次の週に持ち込ませない今までとは違う)そして、互いが納得する形でルールが制定される。最初に生まれたルールで事が足り、追加される事はなかった。

 片方が新ルールを提案しても、もう片方がそれに反論して潰していたからである。それは、決して無駄な行為ではない。互いが納得する形で今日の会話を終わるには必要な事だ。

「これで大体出尽くしたな。まだ何か思いつく?」

「ううん、もうない。大分言ったもん、全部孝一君が反論して、潰れちゃった」

「しょうがないだろ。流石に無理な事はある。そりゃあテスト当日に風邪で休んだ場合と言うのは、考える必要があると一瞬思ったが、追試があるから、それで補えばいい。追試は内容が違うから勝負にならない。とはいかないさ」

 まさか、勝負に勝つ為だけに意図的に欠席して追試を受けはしない。テストを作成している教師側だって追試の作成には特に気を付けているのだ。内容が違う事が=点数の差に影響するとは孝一には思えない。

「うん。まぁ、孝一君の言いたい事も分かるけどね」

 分かると言っているだけで、完全には納得していない事を香澄の口ぶりから、孝一は察する。

「そもそも体調管理に気を遣うのは当然だ。言ってしまえば、もう今から勝負は始まってるんだよ」

「うぅ……。分かった、分かりました」

 降参したような香澄の声が何だか面白くて、孝一は笑いながら言った。

「分かったなら良し。明日から頑張ろう」

「はーい。絶対負けないからねっ!」

「望むところだ」

 壁掛け時計を見ると時間は、限界時間より七分程過ぎていた。

 笑っていた孝一は一転、慌てて口を開く。

「香澄、時間過ぎてる! 悪い、気付かなかったっ!」

「いいよ、孝一君のせいじゃないんだから謝らないで。今回は特別」

「分かった、ありがとう」

「うん、じゃあまたね」

「ああ、おやすみ」

「おやすみなさい」

 寝る前の挨拶を最後に孝一の携帯電話から香澄の声が消えた。

「ふぅ~」

 盛大に溜息をつき、イスに持たれる。リクライニングの機能はないので、ギシギシと背もたれが軋む音をさせながら、孝一の体重を支えていた。上を向いて目を瞑る。

心臓の音と緊張を意識的に封じ込めようとした。瞼の裏しか見えない視界で、孝一は大きく深呼吸を二、三回繰り返す。

 ゆっくりと目を開いて携帯電話の通話履歴を出す。通話時間は一時間九分と記録されていた。自分が気付いてからさらに二分の時間が経過したようだ。

 一週間前に遡り通話履歴を確認する。そこには、五十八分と記録されていた。

 携帯電話のは嘘をつかない。今日、自分は香澄と一時間以上話をしたのだ。とてもいけない事をしているような反面、危険な賭けをして勝った時の独特の高揚感が生まれ、孝一の心を満たしていく。

 土曜日の最後の一時間だけ話すのが絶対的なルール。

 それが今回は、日曜日の最初の九分まで延びたのだ。勿論、こんな事は香澄本人も言っていた通り、例外である。次はない。

 だからこそ、この高揚感は今回だけだ。

 孝一は立ち上がり、スタンドライトを消して光源を失くす。エアコンをタイマーと携帯電話のアラームをセットして充電器に指す。ベッドに潜りこみ、枕に頭を沈めた。

 その間、彼の口元は緩んでいた。意識している訳ではないのだが、自分の口元が上がっている事が分かる辺り、あながち意識しているのかも知れない。

 自室が暗い為にそれを確実なモノとして確かめる術はない。ただ、口元の筋肉が上がっているのを感じているのを、孝一本人だけが知っている。

 ベッドに入った彼は、暗い部屋で幸せな気分に浸りながら、夢の世界へと入って行った。


(2)

 ――次の日。

 孝一はいつものように、結衣と繁華街にいた。

 ただ先週と違ってウィンドウショッピングはしない。先週入った喫茶店で来週からのテストの為の勉強をしている。前回入った際、このお店の環境がテスト勉強にうってつけなのを、孝一は理解していた。

 一定間隔で天井から聞こえる眠気覚まし的な電車の走行音。そのせいで客が疎らな店内。まるでテスト勉強をする為に用意された喫茶店と言っても過言ではない。

 もっと他に勉強する客がいてもいいものだが、それすらいないのでこの場所が余程希少なのだろう。孝一は、今週の日曜日はテスト勉強をすると決まった時点で、場所はこの喫茶店か図書館の自習室にしようと考えて、結衣に提案した。

 すると、結衣は迷わず喫茶店を選んだので、今二人はここにいる。

 孝一は目の前の結衣を見る。

 顔をノートに向け目と目の間に皺を寄せて、難しそうな顔をしている。

 せっかくの可愛らしい彼女の顔が崩れている。そこまで難しい問題があっただろうか。孝一はシャーペンを走らせる手を止めた。

「どこが分からない?」

「えっと、大体分からないんです……」

 頬を掻きながら、答える結衣。困ったように眉が下がっていた。

「じゃあ分かる所まで遡るしかないな」

「いや、それは危険です」

「危険?」

「遡れるページにも限度があります。私の場合、とにかく全体を万遍なくやって点をかき集めないと」

 そういう勉強のタイプか効率は悪いな。孝一はそう思ったが、口には出さなかった。彼が今更どうこう言っても完成された結衣の思考スタイルを変える事は出来ないからだ。仕方がないので、彼女のスタイルに合わせた勉強を教えるしかない。結局、勉強するのは自分ではないのだから。

「今やってるのは数学だよな」

「はい」

 孝一は肩掛けカバンから、クリアファイルを取り出した。

 そこから、去年の二学期の数学の中間テストの問題と解答を取り出す。

「ほら、これが俺が一年の頃の数学のテストと解答のコピー」

「先輩~っっ!!」

 孝一が差し出した数学のテストと解答を結衣は丁寧に両手で受け取り、目を輝かせる。皺が寄っていた結衣の表情はみるみる柔らかくなり、元の可愛い笑顔に、孝一の好きな顔になった。

 涙目になっている結衣に軽く笑う。

「泣く程じゃないだろ。オーバーリアクションだ」

「だってぇぇ~。本当にダメかもって思ったんです~」

 この数学のテストを作成したのは山本と言う堅物の中年男性教師。ああ言ったタイプは毎年出す箇所にそこまで大幅な変更は行う事はしないだろう。

 あくまで孝一の予想だが、あのタイプの教師は教科書に頼らず、自分で教えた方が良いと独断で判断した部分を重点的に教えたがる。

 教科書や問題集を補完程度にしか使わず、授業の大半を黒板の板書とお手製のプリントで進めるのが良い証拠だ。だから彼の数学に限っては前回のテストを見て大体の予想を付け、プリントとノートで勉強するのが一番効率が良い。

 七割程度ならこれで充分なはずである。

「あっ、この問題。プリントと数字が違うだけだ、今年も出そう」

「そういうのを列挙して解き方覚えとおく。それでどうにかなるだろう」

「ありがとうございますっ! 先輩、大好きっ!!」

「ああ、うん。ありがと」

 突然の告白に戸惑いながらも、礼を言う孝一。今、結衣の口から出た大好きの意味合いが分からない程、彼は子供ではない。だが、頭では分かっていても体は自然と反応してしまい、止める事は出来ない。

 幽霊が怖くなくても、突然死角から驚かされたら、反射的にビックリしてしまうお化け屋敷と同一原理である。

 案の定、赤くなってしまった孝一を見て結衣はニヤリと笑う。

「もぅ~、照れちゃってぇ~」

 さっきまでと立場が一瞬で入れ替わった。

 こういうのは先に隙を見せた方が負けなのである。一年前に孝一はそれを学んだ。それなりに力も持っていると自負している。だがどういう訳か、結衣相手だとそれが上手に生かされない。

「手を止めない。せっかくプリントを渡したんだから。留年しないでくれよ?」

 結衣の発言に下手に反応せず、目の前の問題を冷静に対応する。結衣は片手を上げて「はーい」っと言って、素直に勉強に戻った。渡した数学のテストを見ながら、勉強の範囲を選定している。

 結衣のシャーペンを走らせる音に先程までと違って、迷いが消えている。

これでもう数学は心配しなくて良さそうだ。安心した孝一は、自分の勉強を再開する。

 暫く二人に会話は無かった。元々、勉強は一人でやる行為なので、これが正しい。以前、放課後の教室でスナック菓子を広げながら、シャーペンより口を動かす女子を何度か目にしている。彼女達は勉強会と言う名目上、集まっているに過ぎない。では、最初から勉強会と言う事にしなければいいのでは。と孝一は思う。

 わざわざノートを机に広げて、シャーペンを置いていても使わなければ意味がない。その上に広げるスナック菓子の油がノートを無駄に汚すだけだ。

 推測するに勉強会と言う名目が必要だから、ポーズだけ取っているのだろうが、そこに意味はあるのか。

 目の前でせっせとシャーペンを動かしている結衣の方が余程勉強していると言える。まあ、彼女達の勉強会なんてどうでも良いのだが、そのままでいるのは、どうにも気分が悪い。結衣なら答えを知っているだろうか。

「あのさ、結衣?」

「何です?」

 シャーペンを動かしたままの結衣が孝一を見ずに返事をする。

「あのさ、よくクラスの女子数人が放課後の教室で、勉強会って言って、集まっているんだけど、お菓子を広げて話をしているだけ。どう見ても俺には勉強している風には見えないんだよ。あれって、本当に意味あるのか?」

 孝一の疑問を聞いて、結衣は初めて手を止める。

 シャーペンを置いて首を傾けて目を瞑って唸る。やがて目を開いて言った。

「ないですね。勉強会なんて形だけです」

「あ、やっぱり」

「正確には、人数によると思いますけど」

「人数?」

「ええ、これは私の考えですけどね。そのグループが奇数か偶数かで、勉強会をする気があるのか分かります」

「へぇ、それは知らなかった」

 予期せぬ新事実に孝一は感心する。普段、孝一が結衣に何かを教えている機械が多いのだが、今回は逆転している。それが面白いらしく、彼女は得意気に説明を続けた。すっかり温くなっただろうカフェモカを喉に流して、人差し指を立てる。

「つまりですね、そのグループが奇数なら勉強する会、偶数ならしない会です。勿論例外はありますが、概ねこの法則で間違いないでしょう」

「どうして、偶数だと勉強しない会なんだ?」

「偶数って話やすいんですよ。だから二人だけの勉強会もダメですね。人数が少ない分、一度話し始めると盛り上がっちゃって、勉強する意欲なんて失われます」

「今みたいに?」

「私達はちょっと違います。先輩は本当に勉強をしようとしているし、私も本気です。何より互いの勉強科目が違いますしね。お互いの意思が堅牢だから、相乗効果で一人よりも集中出来ます」

「成程」

「でも基本的には偶数はダメです。人数が多かろうが少なかろうが、二で割れる時点で小グループが作れてしまう。対して奇数ですが、これも一部の例外を除いて、会話自体が成立し辛いんですよ。一人余る可能性と言うか、三人全てが共通した話題を続けるのって、結構疲れるんです。だから、自然と一人余ってしまう。その一人は、なあなあで話を聞くか勉強をする。誰かが勉強している横でずっと話せませんから、残りも自然と勉強をします。大体、こんな感じですかね」

 結衣の解説に孝一は素直に感心した。両手が合わせて彼女に拍手を送る。

「凄いな結衣。君が賢く見える」

 孝一が賞賛すると、結衣照れながら礼を言う。

「ありがとうございます、でも今話した事を真に受けないで下さいね」

「例外があるから?」

 そう尋ねると、結衣は「い~え」と首を横に振った。そして、笑顔で答える。

「今の話、全部冗談ですから」

「はっ?」

 思いもしなかった結衣の告白に、孝一の開いた口が塞がらない。

 驚いている孝一に結衣は心配そうに尋ねる。

「もしかして、怒っちゃいました……?」

「別に怒ってはいない」

 それは嘘だ。っと自覚出来るくらいの怒りは孝一の中にはある。もっとも孝一の怒りの矛先は結衣の話した勉強会理論ではない。そんな事で一々怒っている程、彼は短気ではない。彼女の理論を賞賛してしまった自分に怒っているのだ。更に正確に言うと、この感情は怒っているのはでなく、悔しいと感じている。

 なぜなら、孝一は結衣にすっかり騙されてしまったのだから。

 頭を冷静にしようと、カップに残っていた自分のカフェラテを一気に飲む。喉元を通る、温くなったカフェラテの美味しさが頭に溜まった膿を溶かしてくれる。コーヒーは人類の偉大な発明の一つだ。孝一は小さい溜息をつきながら、そう思った。

「ごめんなさい、調子に乗り過ぎました……」

 小さい声で頭を下げる結衣。

「なぜ謝る? その必要はないさ。結衣の話には、少なくとも俺が納得する説得力があった。上手く騙されて悔しいくらいだ。この先、誰かに話す事は無くても、今の数分の話は中々面白かった。ただ、賢いってのは返却してもらわなくちゃいけないけど」

「えぇ~、それは返したくないです」

 孝一が本当に怒っていない事が分かった結衣は口を尖らせて駄々をこねる。

その仕草に少し救済措置をあげようと孝一は思った。

「分かった、じゃあ半分だけ返してもらう。元はと言えば、俺が結衣に聞いた事から始まったんだし」

「半分ってどういう意味ですか?」

 意味が分からないと言った顔をした結衣に孝一は答える。

「前から考えてたのを言ったんじゃなくて、その場の思い付きであそこまで話を伸ばせた事に免じて、半分賢いと言ったのを残してあげようって事」

「ああ、成程。確かにもう一回、丸々同じ事を話すのは無理ですから」

「だと思ったよ」

 笑みを浮かばせながら納得する結衣につられて、孝一も笑みを浮かべる。

「さて、じゃあ休憩も終わったし勉強を再開しますか」

「そうだな、また何か分からない箇所があったら教えてくれ」

 あれを休憩と呼んだ結衣にまた笑いそうになった孝一だったが、それを何とか表面上は出さず(これ以上話すと、また隙が生まれて勉強が進まなくなるからだ)二人は勉強を再開した。

 それからしばらく二人は、黙々と目の前の勉強に集中する。

 孝一も英語の読解問題を解く事に集中して、電子辞書を使いながら、ノートに日本語訳を記入していく。一回、視線を結衣に向けると、彼女は孝一の渡した数学のテストのチェックをほぼ終わらせているようだった。

 孝一の視線に気付いたのか、結衣が顔を上げる。二人の目線が合った。

「んっ? 何ですか?」

「いや、何でもない」

「変な先輩」

 首を傾けて笑みを浮かべながら、結衣は再びシャーペンを動かす作業に戻ろうとする。しかし完全には戻らず、少々走らせてまたすぐ顔を上げた。

「先輩」

「どうした? どこか分からない所があった?」

 数学以外の去年のテストも持って来ているので、聞かれたらすぐに出せる。

だが、結衣の返事は孝一の予想とは違った。

「違います、そうじゃなくて。先輩にお願いがあるんです、いいですか?」

「お願い?」

普段お願いがある時は、前以て許可を得ようとせず、いきなり話す結衣が今日は普通に許可を得ようとしている。それ程、特殊な事を頼むつもりなのだろうか。

いつもとは雰囲気が違う結衣のお願いに、孝一はある程度覚悟をして臨む。

「分かった、言ってみな」


「来週からの中間テスト。私と点数で勝負しませんか?」


「……えっ?」

 孝一の時間が停止した。

店内のざわめきのボリュームがみるみる内に小さくなる。

 目の前にいる結衣が孝一の返事を待って、じっと彼の瞳を見つめている。心臓の鼓動が煩わしい。いっそ止めてしまいたい。手が自然とカフェラテが入っているカップへ伸びる。口に付けるが、一向に流れて来ない。そうだ、もう飲み干したのだ。忘れていた事実を思い出して、カップから口を離して、テーブルに置く。

鼻息だけで深呼吸をした。視線を結衣から外して、自分が先程まで記入していたノートに向ける。

 落ち着け。

 頭の中で非常ベルが鳴り響いていた。下手に動揺する事はない。香澄は別に関係ない。テストで勝負なんて良くある話だ。偶然に二人が同じ事を提案しただけであって、それだけで変な動揺を見せて、結衣に不信感を抱かせるようになってはいけない。

 とにかく、今は広げたノートを見て、どうしようか考えている風を装う事。

やるべき事に優先順位を付けて、孝一は自分を落ち着かせる。やがて、平常心を取り戻した孝一は、微笑みながら口を開いた。

「それは無理だ。だって学年が違うじゃないか」

「でもほら、先輩は去年のテストがあるじゃないですか? 一年前の先輩のテストと今回私が受けるテストで勝負するんです。それなら公平でしょ?」

「ダメだ」

 結衣の話す勝負方法に間違いは無かった。大筋は通っている。去年も今年もテスト範囲に然したる差はない。勝負自体は決して不公平でも不可能でもない。

 しかし、孝一は否定した。首を横に振り短く否定の言葉を口にする。いつもの彼なら、そこで理由の一つでも言うのだが今回は言わなかった。いや、言わないのではなく、言えなかった。いくら頭で説得力のある否定理由を検索しても出なかったのだ。

「ケチ~、先輩のケチ~」

 唇を尖らせて抗議する結衣。何かを勘付かれた様子はない。普段の彼女だ。

 孝一は心の中の平常心をさらに膨張させる。先程まで、頭に鳴り響いていた非常ベルはすっかり消えた。店内のざわめきのボリュームも元の音量にまで回復している。

 いつもの塚野孝一に戻ったのだった。

「ダメなのモノはダメ」

「どうしてですか~? 理由を言って下さい~」

 理由なんかない。つい反射的に言ってしまいそうになる孝一だったが、それを言ったら最後、どういう結果になるかは自分が一番理解している。なので、先程の結衣のした奇遇数の勉強会理論と同じく、すぐに頭に浮かんだ嘘を口に出す。

「去年の俺のテストの点数を結衣は知っているだろう? それは高得点が取れる大きな参考書だ。だが去年の俺は残念ながら、一昨年のテストがない状態だった。だからダメだ。これは前提条件に差が出過ぎている」

「先輩のケチ~」

「ケチで結構」

 自分の意見を手早く伝えて、孝一はこの話を終わらせようと、恨めしそうにこちらを見る結衣の視線から外れて、勉強を再開する。孝一の説明に一応の納得したのか、結衣はそれから何も言わず、勉強を再開した。

 しばらくの間、二人は再び勉強の世界に頭を浸からせる。

 孝一も次第に先程の会話の緊張感は薄れていき、今は英訳に集中していた。

 だからこそ、彼は気付かない。

 今、結衣がどんな表情で孝一を見ているのか。

 夢中になって勉強している彼には、彼女の表情を見る事はなかった。

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