「二章 日曜日、いつもの二人」
「二章 日曜日、いつもの二人」
日曜日の繁華街、駅前にある南側広場。現在の時刻は十一時五分。天気も良く、丁度良い数の雲と、太陽が空にあった。塚野孝一は、腕時計の時間を確認する。待ち合わせ時間を五分過ぎていた。彼は、持ってきた小さな肩掛けカバンから、茶色い布製のブックカバー文庫本を一冊取り出して、ページを開く。
待ち合わせの相手が、これまで時間より早く来た事は一度だってない。ならば、遅れているからと言っても、焦る必要はない。先が気になっている文庫本をキリの良いところまで読み進めておく方が時間の上手な使い方だ。
孝一は栞代わりに挟んでいたレシートを抜き取ると指に絡めて器用にページを捲った。日曜の昼間とあって人は多い。彼の無防備な耳には、街の音がいとも容易く侵入してくる。
誰かの笑い声や車の騒音。それに大勢の人間の足音。完全な遮断は出来ない。
外で音楽を聞く趣味が孝一にあれば、ヘッドフォンを耳にして逃げられるのだが、残念ながら彼には、音楽を外で聞く趣味はない。
なので、聴覚を犠牲にして意識を物語に向ける事で、雑音から逃れていた。
紙に印字された無機質な明朝体の文字だけを追い、頭に浮かぶスクリーンに描写を上映する。駅前の太い柱に背中を預けているので、人との衝突はない。
むしろ、本を読む事を邪魔しないでくれるなら、肩が衝突するくらい、苦ではなかった。いくらでも衝突してくれていい。
しばらくすると、雑音から逃げている孝一の耳に、スっと抵抗なく聞き覚えのある声が入ってきた。
「先輩、こんにちはっ!」
肩を二回叩き、本を読む孝一の顔を側面から覗き込むようにして、こちらを見る彼女。
「んっ、ああ。こんにちは結衣」
腕時計を確認すると、先程の時刻に六分プラスされていた。そんなに経っていたのかと、孝一は時間の流れに驚きつつレシートを再び文庫本に挟んで、持ってきた小さな肩掛けカバンに入れた。
「待たせちゃいました?」
「いや、五分くらいだし、文庫本を読んでたから大丈夫」
また咄嗟に適当な嘘を口から流す。彼が本来待っていた半分程度の時間を聞いて、結衣はホっとした表情を見せた。
結衣の肩まで伸びた茶色に染まった髪は、首に巻いている秋物と思われる薄手の濃い青のマフラーに埋まって、フワっとなっている。 マフラーの巻き方一つで髪型を変えられるのだから、女子は凄い。っと孝一は感想抱く。彼の視線は、自然と髪に向けられていたので、結衣は何だろうと顔を傾ける。
「どうかしました?」
「髪がマフラーに埋まってるね」
「あっ、先輩こういうのは嫌いですか? 今、流行ってるんでやってみたんです」
「嫌いじゃない、むしろ好きだ。うん、可愛い」
可愛いという単語が躊躇なく孝一の口から出るくらいには、二人の仲は進展している。結衣は可愛いと言われて素直に「えへへ~」っと喜んでいた。
「それに、髪が広がる心配もないんじゃないか?」
「そうなんですよ~。そのままにすると風で広がっちゃって、結構グチャグチャになっちゃうんです。まあ、マフラーに埋めるのもあまりキツくやり過ぎると、段が出来きちゃうので、力加減が大事ですけどね」
マフラーに埋めるのにも、それなりに苦労がある事を結衣は説明する。
「だが、マフラーの締め具合は調節出来るけど、広がってしまう髪は調節が出来ない。その点、自由度はまだそっちの方が上なんじゃないか?」
「流石先輩、お見事です」
孝一の髪はそれ程長くないので、マフラーを巻いても結衣のように埋まりはしない。だから彼が話したのは、全て推測だ。
だが、結衣の反応を見るにどうやら当たっているらしい。
「まるで女子みたい」
「それは褒めてないだろ?」
結衣の最後の一言が孝一の推測が当たった事を湾曲して褒めていた。
「やだなぁ、ちゃんと褒めてますよ~」
「分かった。じゃあ有難く受け取っておく。行こうか」
孝一の諦めが含まれた小さな溜息を気にせず、結衣は右手を伸ばした。
「先輩、お昼まだですよね? 私、寝坊しそうになって、今日何も食べてないんです。もうお腹ペコペコ」
伸ばされた結衣の右手を左手で包むようにして掴み、孝一は足を前に動かす。
「まず何か食べるかな。今の時間どこも混んでるだろうから、ちょっと待つ事になるだろうけど大丈夫か?」
「平気です。では、レッツゴー♪」
南側広場からすぐ近くにある地下街への階段を下り、孝一と結衣はレストラン街へと向かう。地下街も地上と変わらず人が多い。今日はこの街のどこにいても、人が一定量いる日のようだと、孝一は歩く人々を視界に映しながら思った。
「結衣は何が食べたい?」
「お好み焼きっ!」
「了解」
お好み焼きなら高校生二人で食べてもそこまで財布に響かない。結衣はお腹が空いていると言ってはいるが小食なので、二人で一枚を分ければ、料金を浮かせられる。後は焼きそばやゲソの塩焼き辺りを適当に頼んでおけば充分だろう。
頭の中でシミュレーションを立てつつ、孝一達はレストラン街がある通りに到着した。この通りには、左右に和、洋、中様々なレストランが軒を連ねており、どの店も行列が出来ている。
レストラン街入口付近にある、お好み焼き屋も案の定、何組か店の前行列を作っていた。
店の入口に設置されたボードに、人数とカタカナで苗字を記入して、孝一達は最後尾に並ぶ。ちなみにこの店は完全禁煙が売りの一つらしいので、煙草の煙を懸念する必要はない。
丸イスが一つ空いていたので、結衣を座らせる。
「ざっと三組くらいですね」
「思ったより早く入れそうだ」
レストラン街の入口にあるから、何を食べるか決まっていない連中は、きっと奥まで歩きながら決めるのだろう。そして終点まで辿り着いてしまったら、そこから時間の節約の為に近い店を選択する。この店に並ぶには大分戻らないといけないから、引き返しては来ない。何も考えず奥まで歩いた時点で、時間の節約を考えるだけ無駄なのに。
お好み焼き屋のショーウインドウに反射する、入る店を決め兼ねながら、歩いている男女二人組を見て孝一は軽く馬鹿にしていた。
「先輩はお好み焼きで良かったですか?」
「ああ、大丈夫」
孝一は特に何が食べたいかは決めていなかったので、結衣が言ってくれて良かったと思っている。これで彼女も何が食べたいか決まっていなかったら、さっき馬鹿にした二人組になるところだった。
自分も人の事は言えないと自分の傲慢さを反省する。
結衣とお好み焼きが楽しみだと会話をしながら、孝一達は少しずつ店へと近付いていく。途中から孝一も丸イスに座れたので、楽になった。
『二名様でお待ちのツカノ様どうぞ~』
頭に白い三角布を巻いた女性店員に名前を呼ばれて孝一達は腰を上げた。
「待ってましたっ!」
店と体の距離が近くなる程に強さを増していたお好み焼きのソースの香りに鼻をヒクヒクさせていた結衣は、名前を呼ばれて勢い良く立ち上がる。
煙と匂いが充満する店内のテーブルに座り、イスの下に二人は上着と荷物を入れておく。こうする事で、お好み焼きでの煙は服に貼り付かない。
そしていざ注文してみると、孝一の読み通り、結衣はブタ玉一枚を食べ切れず、四分の三くらいでお腹が一杯だと言った。孝一が同時に注文した焼きそばとゲソの塩焼きを一口ずつ食べた上での事なので、普段よりは食べた方である。
彼女の残したブタ玉と焼きそば、ゲソの塩焼きで孝一の胃は充分満たされた。
食べ終えるとまだ外には人が並んでいるので、特に話をせず、二人は早々に店内から出る事にする。
ピークは過ぎただろうが、まだ人の波は終わらないようだ。改めて働いている店員は大変だなと孝一は、お冷を持ってくる女性店員を見てそう思った。
会計は孝一の奢りである。
結衣は「私の食べ残しを先輩が食べてくれたんですから、お会計は私が払います」っと強くレジ前で主張してきたが、そこまで高い値段でもない上に、レジ前でウダウダしているのも店に迷惑になるので、ここは一先ず自分が払うから、外で差額を貰うと言って彼女を納得させた。
外に出ると暖かった店内と、地下街とは言え、季節柄どうしても低い外気の差を肌で感じた。同時に、染みついたと思っていたお好み焼きの匂いが、外気に吸われて薄くなっていく。
「あ~、美味しかったぁ」
お腹を擦りながら満足気な結衣。
「ココで久しぶりに食べたけど、やっぱり美味しかった。繁盛してるだけある」
「さて、次はショッピングに行きましょう」
「何か買う物があるのか?」
「いいえ、まだ決まってません。けど店の前を歩いているだけで、もしかしたら何か欲しくなって買うかも知れないないじゃないですか。それがショッピングの楽しみ方ですよ」
「そうなんだ」
孝一の中でのショッピングは、予め買うと決めた物を買いに行く行為であり、行くと決めた店以外には基本的に行かない。
自分の定義するショッピングとは趣向がまるで違う。そんな考え方もあるのかと孝一は結衣の考え方に感心する。
「先輩はそういうダラダラするの嫌ですか?」
「嫌じゃない。案外そういう方が良い物が買えるかも知れないしな。最初から買う物決めてしまうと、それしか見えなくて視野が狭くなるから」
「何か理屈っぽくて意味不明ですけど、嫌じゃないなら良かったです」
「理屈っぽいは余計だ」
二人でレストラン街を抜けて突き当りを右折、中央ホールに出る。そこから左の通りのショッピング街に入った。ここまでの道のりは、いつもの定番のコースとなっておりこれに時折、カラオケやゲームセンターが混ざる。
手を繋ぎ、結衣の歩幅に合わせながら孝一は歩く。
ショピング街は、レストラン街と同様、左右に大小様々な店が並ぶ通りである。
だが様々と言っても店のジャンルにはある程度の規則性を有しているようで、今二人が歩いている通りは主に洋服店のゾーンとなっていた。
孝一としては、もう少し先にある地下地上合わせて四階立ての大型書店を覗きたいが、特に欲しい本がある訳ではないので、このまま歩く。
結衣は両目を輝かせて、店頭に並ぶ洋服を見ながら歩いている。彼女一人だったら、まず人に衝突しているに違いない。
季節は冬に差し掛かっているので、売っている洋服は全て秋物から冬物へと変更され始めている。
「あっ、あのダッフルコート可愛い」
独り言を言うと、スっと孝一との手を離して、結衣は吸い寄せられるように、洋服店へと足を踏み入れて行った。
軽く外から店内を見回してから、孝一は結衣の後を歩き店内に入る。
店内には女性物の洋服しか置いておらず、彼が入っても見る服はない。
結衣は売り物である緑のダッフルコートに夢中だった。ハンガーから外して姿鏡の前で自分の体に当てている。
そして姿鏡に映っていた、後方にいる孝一の方を振り向いた。
「先輩、このダッフルコート可愛くないですか?」
「可愛いよ、良く似合ってる」
「けど高いんですよぉ」
結衣は恨めしそうに襟元の値札を裏返す。横から覗き込むと、確かに高校生が簡単に購入するには難しい値段だった。
「あぁ~あ。良い物って何で高いんでしょうね。このダッフルコートがもう少し安ければどうにかなったのにぃ」
結衣の疑問に孝一は、つい昨夜の電話を思い出して生唾を飲む。その動揺を決して彼女に気付かれないように、彼は努めて平静を装った。
「高額なのはそれなりの理由がある。デザインだったり、生地だったり様々だ。このダッフルコートにはそう言った価値があるんだろう」
「そう言われると……、これだけ可愛いデザインですものね。高い訳だ」
「頑張ってお金を貯めるか、アルバイトでもするしかないな」
「でも、ウチの高校。バイト禁止じゃないですか。それさえ無かったらなぁ」
孝一と結衣が通う名月高は、私立なのもあり固い校則が多い。それは一年時の学年集会の場で、生活指導の教諭によって、雛鳥状態の生徒達に刷り込まれる。
ただ、大人達の刷り込み程、生徒に効かないモノはない。それも教師となれば、自然と反発心が育っていく。月日が経つに連れて、生徒を縛り付けていた校則と言う名の鎖は細くなっていく。
孝一達、二年生は、最早その鎖は完全に千切れている。
彼の友人には学校に隠れて、アルバイトをしていたり、運転免許を習得していたりと様々だ。彼らは皆、鎖を解き自身の判断で行動している。
そして例に漏れず、孝一もまた自身の判断で二輪の運転免許を習得している。
当然、学校には隠している。
結衣の中にある鎖は未だ繋がっているようだが、いずれ切れるだろう。
そうなったら、欲しいダッフルコートを値段一つで諦めるような状況にはならないのかも知れない。
大人になると言う事は、自分で物事を決められるようになると言う事なのだ。
孝一は何年か前、その事実を読んだ小説から学んだ。
それを読んで納得をしつつも、まだ社会的に子供である自分が知ってはいけない事を知ってしまったようで、怖くなった。
「しょ~がない、諦めよっと。いつか将来お金持ちになったら買います」
口をへの字にさせて、結衣はダッフルコートを名残惜しそうにハンガーに直した。そして、残った未練を捨てるように孝一の手を掴む。
「先輩、行きましょう」
「もう良いのか?」
まだ見たい洋服がありそうだったので、孝一は結衣に尋ねる。
彼女は一回、店内を軽く見回して、頷いた。
「いいんです。まだ他にも見たいお店ありますし」
「そうか、分かった」
二人は店を出て、再び人通りの流れに乗る。
しばらく無言で歩いていたが、孝一がふいに結衣の方を向いて口を開いた。
「さっきのダッフルコートも似合っていたけど、結衣が今着ているそれだって充分似合っているよ」
結衣が今日着ている秋物仕様の赤いPコートは、彼女にとても似合っている。本来は、最初に会った時点で言うべきだったが、こんな 時間になるまで、言いそびれてしまっていた。
正直、今更感は否めないが、それでも永遠に言わないよりいい。
孝一がそう言うと、結衣は頬を膨らませる。
「今頃ですかぁ? 褒めるならもっと最初に褒めて下さいよ~。会ってすぐの時とか」
「ごもっとも」
結衣も孝一の考えている事と同意見だった。今言ったところで、フォローとしか受け取れない。そう訴えるように、彼女は頬を膨らまして不満そうにしている。
しかし、次の瞬間には笑顔へと切り替わった。
「けど、悪い気はしませんね」
繋いでいる手の力がちょっと強くなった。照れ笑いの結衣が無意識に力を入れたのだと孝一は分かる。彼は彼女のこういう部分が好きだ。
「それは良かった」
「デートで彼氏に服を褒められて、喜ばない女子はまずいません。例えそれが、自分の中のお気に入りランキングが微妙であってもです」
自信満々に解説する結衣。
「えっ? その服ランキングでは微妙なヤツなのか?」
そうなると、自分が褒めたのはあまり良くなかったのかも知れない。驚いて聞くと、彼の心情を見透かしたように結衣は笑う。
「そんな訳ないじゃないですか。彼氏とのデートにお気に入りランキング微妙な服なんて着ませんよ。この服はランキング上位です」
「ふぅ、今日一番驚いたよ」
驚き疲れた孝一とは対称的に結衣は御機嫌で満足だった。
「あのダッフルコート、買わなくて正解でした。おかげで先輩を驚かせられたんですから」
ニコニコしながら話す結衣を見て、どうやらダッフルコートの未練は完全に無くなったと分かり、気付かれないよう安堵する。
二人はそれから通りを抜けて、いくつかのお店に足を踏み入れる。雑貨店や洋服店が中心だった。結衣は途中入った雑貨店で、B5版のノートを買った。
ショッピング街の終点に辿り着き、知らない間に時間は大分進んでいた。
お好み焼きを食べたのが、なんと二時間近く前である。
この事実を孝一は足の棒加減で納得する事が出来た。結衣も同様で、ブーツの歩幅が少しずつ狭くなっている。
「ちょっと、どこかで休憩しようか?」
ショッピング街の終点地にある、案内図の前で足を止めて、孝一はそう結衣に提案する。結衣は彼の提案に素直に首を縦に振った。
「賛成です。足がちょっと疲れちゃった」
結衣の了承を得た孝一は案内図を見て、喫茶店への道を覚える。ここから一番近い喫茶店はチェーンのコーヒー店だ。場所は丁度、レストラン街とショッピング街の中間にある。上手い具合にあるものだと孝一は感心した。
二人は喫茶店までやって来た。外から店内を軽く覗いて混み具合を見る。
時間帯もあって混雑を予想したが、予想は外れて混雑はしていなかった。
なぜだろうと不思議に思ったが、空いているのはむしろ運が良いと思い直して、店に入る。全席禁煙の店内からはタバコの匂いは無く、コーヒーの匂いだけが充満していた。ますます空いている事を不思議に思った孝一だったが、取り敢えず隅のソファー席を確保して、孝一はコーヒー、結衣はカフェモカを注文する。
二人共、外の寒さで体が冷えたのでホットを頼んでいる。
ようやく腰を下ろして落ち着いていると、天井からガタンゴトンと大きな音が響いた。
「成程、真上を電車が走ってるのか」
「みたいですね」
孝一は店が空いている理由をようやく理解する。この店は丁度、真上に電車が走っていて、一定の間隔で天井から走行音が発生して、振動もある。
「空いている訳だ」
コーヒーを啜りながら感想を言う孝一。確かにこれならば、あまり長居したいとは思わないだろう。寝るのは勿論、勉強や仕事の集中は難しい。良く観察すると店内に入る客は持ち帰りが多かった。この店が潰れない理由はそれだ。
「店を変えるか?」
もう注文してしまった後だが、孝一は結衣に尋ねる。知らなかったとは言え、この店は自分で選んだ。だから、仮に彼女が店を変えると言った場合、孝一は彼女の分のコーヒー代を出す気でいる。
しかし結衣は首を横に振る。
「私は別にいいですよ。この雰囲気、秘密基地みたいで面白いじゃないですか」
「秘密基地? まあ、結衣が構わないなら」
結衣の例えの意味は分からなかったが、取り敢えず店を変える気はない事は伝わった。
「先輩は今日のデート楽しかったですか?」
唐突に結衣に、一瞬驚きつつも、孝一は素直な感想を述べる。
「楽しかったよ、自分の知らない考えを知る事が出来て大きな収穫だ。お好み焼きも美味しかったし」
「そうですか、なら良かった」
「そう言う結衣は楽しかった?」
同じ質問を結衣に返してみる。彼女は笑顔で頷く。
「ええ、とっても楽しかったです。先輩と一緒にいるといつも時間があっと言う間に過ぎちゃいます」
「それは俺も思ったよ。お好み焼きを食べてから、こんなに時間が経ってたなんて」
「先輩と一緒に授業を受けると、明日からの学校も早く終わるのかなぁ」
日曜日の午後二時半は、こうして喫茶店にいるが明日の今頃は授業の真っ最中だ。きっと睡魔と戦いながら、授業を受けているに違いない。
孝一は、二十四時間後の自身の姿を考えていた。
考えている彼を見て、結衣はさらに口を開く。
「あ~あ。先輩が一年生だったらなぁ。同じ授業受けられるのに」
「そしたら先輩じゃなくなる」
言葉の矛盾を指摘すると、想像した結衣が声に出して笑った。
「そしたら先輩の事。名前で呼びます、孝一君って」
同じクラスに結衣がいて自分の事を名前で呼ぶ。想像するとおかしな光景だ。
同時に去年の光景が頭に浮かんだ。
自分の事を名前で呼ぶ同じクラスの彼女。それは結衣の空想ではなく、実際にあった出来事だった。当時、結衣はまだ入学前だから知る由もないが、孝一は今でもすぐに思い出せる。
去年の今頃孝一は結衣ではなく、香澄とこうしてデートをしていた。
その事実がとても奇妙に感じる。もしかしたら、来年の今頃は結衣でも香澄でもない、第三者とこうしてお茶を飲んでいるのだろうか。
我ながら馬鹿な妄想をしている。孝一は頭に浮びかけた妄想をシャットダウンした。意識を現実に戻すと、黙っていた孝一を見て結衣はニヤニヤしている。
「どうした?」
「先輩、照れてますね? 私に名前で呼ばれるのを想像して」
結衣の勘違いにここは乗っておこう。そう判断した孝一は苦笑して頷き、コーヒーに口を付けた。時間の経過によって、熱さを忘れていくコーヒーはもう啜らなくても、舌を通す事が出来た。その仕草が結衣には照れ隠しと受け取ったらしく、嬉しそうに微笑み、自分のカフェモカをスプーンで混ぜていた。
その仕草を見て、すかさず孝一は攻撃する。
「結衣も照れてるんだろ?」
「えっ!?」
かき混ぜるスプーンが止まった。当たりだ、と孝一は思った。
「見てれば分かるさ、彼氏なんだから」
「あっ、あはは。先輩には何でもお身通しですね。こりゃ嘘はつけないな」
照れ笑いを浮かべる結衣が正面にいると、コーヒーが美味しく感じる。どうやら結衣が正面にいると、コーヒーが温くなっても不味くならない。
これからも飲む際には常にいてほしいものだと孝一は感想を抱く。
この発見は自分だけのモノにしておこう。頭の金庫に鍵をかけて保管しておき、孝一は残りのコーヒーを全部飲んだ。
居心地の悪い喫茶店かも知れないと最初は思ったが、座ってみると不快感はなく、天井から聞こえる電車の走行音が心地良く感じて、何時の間にか、二時間近くそこにいた。
いくら店内が混んでいないとは言っても、コーヒーを飲み終わってからも暫く話をした事は、孝一に多少の罪悪感を作った。混み始めたら、すぐに出ようと言う気構えでいるが、依然として新規客は入る気配はない。
二人は色々な話をした。
孝一の方が一年先輩で、学校生活を知っているせいか、結衣はそこの部分を主に質問してきた。
卒業式は一年生も出席するのか。文化祭と体育祭はどんな感じなのか。十二月の学年末テストは成績が悪いと即留年に繋がるのか。等、質問三昧だ。孝一は知っている範囲で、彼女の質問に全てに答える。
結衣が知りたがっているのは行事のようだったので、これからの学校生活については何も話さなかった。性別が違うし、そういうのは学年毎、グループ毎でルールが制定されるモノである。
孝一が一年生の頃こうだったからと言って、結衣まで同じとは限らない。
つまり、孝一達にはダサいと酷評されてきた、あの学校指定のベストを好んで着用する可能性がある。結衣があのベストを着ている姿を想像して、案外似合いそうだと思った。実際に彼女が着て目の前に現れたら、すぐ褒めるだろう。
「さて、そろそろ出ようか」
壁掛け時計の短針を確認しながら、孝一は結衣に言う。
「そうですね、結構長居しちゃった。飲み物もとっくに空っぽですし」
「ああ、これ以上はお店に悪い」
二人はイスから立ち上がる。孝一が手際良く二人分のトレーを重ねて、マグカップを並べる。
「持って行くから」
「あっ、すみません」
Pコートに腕を通している結衣に孝一はそう言って、返却口まで持って行った。返却口はレジの横にあり、持って行くと何もなく綺麗な状態だった。
店内に客はまだ数組いるが、まだ誰も返却口には置いてないらしい。厨房の奥にいる男性店員と目が合い、軽く会釈をして孝一はトレーを返却口に置いた。
テーブルに戻るまでに後ろから水の音がする。
食洗器が元気に稼働しているようだ。
二人分のマグカップを洗うのは五分もかからないだろう。次の客が返却口に持って来るまで、あの店員はずっと厨房で何をしているのだろうか。
まさか、ただ立ってるだけじゃあるまい。そんな無意味な事を考えながら、孝一はイスの背中にかけたコートに腕を通す。
Pコートを着た結衣はイスにもう一度座り、孝一を待っていた。
「お待たせ、行こうか」
「はい」
二人は喫茶店を後にする。結衣が伸ばした右手を自然と孝一は掴んだ。
時刻は午後五時。少し早い夕食を食べるのか、レストラン街を一瞥すると、何組かの客が店の前でショーウインドウを物色していた。
「夕食は何が食べたい?」
レストラン街の混雑状態を見る限り、まだどこも並びはしない。決めるならば、今の内である。
「ごめんなさい、今日はもう帰らないといけないんです」
結衣は両手を合わせて、申し訳なさそうな顔になった。
「珍しいな、家族と何か約束してるのか?」
普段のデートでは夕食まで一緒に食べる。夕食を食べに行きたがるのは、孝一より結衣の方であり、昼食時同様に彼女のリクエストでメニューを決めるのが定番となっていた。
「本当は先輩と夕食食べたかったんですけど……」
「気にしなくていい。家族との約束を優先するのは当前だ」
家族を大切にしてほしいと孝一は思う。自分との夕食なんて別に次に回して構わない。何も今日が最後ではないのだから。
「そう言ってくれると助かります」
「改札まで送るよ」
「ありがとうございます」
二人は乗っている電車の路線が違う。
孝一は私鉄で、結衣は市営地下鉄だ。だから中継点となるこの繁華街の駅を除いて、帰路が一緒と言う事はあり得ない。そして、デートの最後に改札まで相手を送るのは、孝一の仕事だった。
この日も例外なく、孝一は仕事をする。
地下鉄の改札は、地上に出る必要がなく地下街を歩けば辿り着ける。改札まで来ると、結衣はゆっくり孝一の手を離す。
欲しいダッフルコートを発見した時とは違う。意識的に離しており、彼女の名残惜しさが窺えた。
「では先輩。また明日」
「ああ、また明日」
明日になったら二人共学校がある。とは言っても学年が違うから最速で会えるとしたら、運が良くて放課後だ。大体、今から約二十四時間後である。
孝一がそう思っていると、目の前の結衣が何かを言いたそうにしていた。
「どうした?」
「……先輩、ギュってしてもいいですかっ!」
「ダメ」
こんな人目がある所でなんて、絶対に出来ない。孝一は、そう言った輩を一瞥しては、心の中で馬鹿にしている。自分が馬鹿側になる訳にはいかない。
「えぇ~。勇気だして言ったのにぃ~」
恨めしい声を出しながら、わざとらしく涙目で孝一を睨む結衣。
孝一は観念して溜息をつく。
結衣のその顔は孝一は苦手であり、そんな顔をされると彼は抵抗出来ない。
最後には折れる形になる。今回も同様、彼は自身が嫌悪する馬鹿側になるしか無かった。
「じゃあ――」
少しだけなら。っと言おうとした瞬間。目の前の結衣が飛び込んで来る。
「わーい♪」
「早い、まだ最後まで言ってない」
「なんて言おうとしたか想像付きます。ちょっとだけとかでしょ?」
分かっているからこそ、言わせない為の強行突破。結衣らしい対処法である。孝一の視界のすぐ下には、落ち着いた茶髪の結衣の頭部があり、そこから甘いシャンプーの香りがした。
昼にお好み焼きを食べたのに、その煙は言う程、吸い込んでないようだった。
大勢の人の足音が聞こえる。
中には自分達を見て、馬鹿にしている人もいるだろう。
視線が孝一の背中に突き刺さる。背中がカーッと熱くなった。まったく、地下街のせいだ。外の風がここまでは入って来ないんだ。
孝一はそう言い訳を作った。
おもむろに結衣の背中に手を回す。
手が結衣の背中に触れた瞬間、体がビクッと反応する彼女を孝一は見逃さなかった。回した両腕をガッチリ合わせて、彼女を拘束する。
「十、九、八、七……」
「何のカウントですかっ!?」
「俺の手が離れるまでのカウント」
淡々と答えているが、孝一の心臓は早鐘を打っている。今着ている、カーキ色の上着の生地はそこまで厚くない。バレていないか、冷々していた。
孝一はカウントを続ける。
「三、二、一……」
カウントがとうとうゼロの手前まで来た。黙っていた結衣の口が開く。
「はーち、く~」
「こら、カウントを弄らない」
結衣の悔しそうに唸る声を聞きつつ、孝一はそっと回していた両手を離した。
「あぁ~」
「はい、お終い」
孝一が少し下を向いて離れたのは、自身の顔が赤くなっているのを彼女に知られない為だ。鏡がないから確認出来ないが、赤くなっている自信がある。
「続きはまた今度ですね」
名残惜しそうに離れた結衣が、改札の向こうにある電光掲示板を見た。そろそろ、次の電車がやって来る。この駅が乗り換えの中継点となる駅で、大勢の人が乗り降りする。とは言っても、そろそろ並ばなければ席を確保出来ない。
「そうだな、また今度」
「ではっ、先輩。今日は楽しかったです、また明日」
「二回目だ、また明日」
何回明日があるのだ。そう考えておかしくなった孝一は、軽く笑って結衣を見送る。彼女もおかしくなったらしく、「本当、二回目ですね」っと言って、手を振りながら、予め購入していた切符を出して、改札を通った。
改札を通り抜けて、結衣は下のホームにエスカレーターで降りる。彼女は完全に孝一の姿が見えなくなるまで、手を振り続けていた。
孝一もまた、結衣の姿が見えなくなるまで手を振るのを止めなかった。
「帰るか……」
結衣と別れた途端、空虚感が孝一を襲う。そのせいなのか、自然と溜息が口から漏れる。孝一は体を反転させて、自身の乗る私鉄の駅へと足を向かわせた。
特に何も考えず、体だけが動く。
切符売り場で通学定期が補える範囲までの切符を購入して、ホームへ向かう。結衣とは違って、孝一の乗る私鉄は上にある為、地上に出た。
久しぶりに見た空は暗くなりかけていた。遠くには、まだ夕方が残っており、孝一の頭上は暗く、それが変に不気味な印象を持たせる。
彼はホームのベンチに腰を下ろす。待ち合わせの時のように文庫本を読む気にはならなかった。
眠気はないが、自然と瞼が下りる。瞳が外の世界を映すのを拒否しているのだ。電車が来たらアナウンスが流れるので、特に困らない。誰も知り合いはいないのに、腕を組んで下を向き寝たふりをしていた。
数分待って、電車が到着するアナウンスが音割れしたスピーカーから届く。孝一はようやく、瞼を上げた。首を軽く回して調子を整えると、電車に乗る為の列の最後尾へ並ぶ。
遠くから二つの丸いヘッドライト光らせながら、餡子色の私鉄が滑り込むように、ホームへ入って来た。並んでいる列の丁度前で停車して、ドアが開く。
電車内に詰まった空気が降りる人と共に吐き出される。
全員が降りた後で、孝一達が並んでいる列は、電車へと足を踏み入れた。最後尾だったが、孝一は運良く横へ並ぶシートに座る事が出来た。
電車のドアが閉まり、ゆっくりと東へ動き始める。
外を見ると、先程までいた繁華街の景色が見える。
孝一は、ここで初めて思考を再起動させた。
それまで回転を止めていた脳内の歯車が再び回り出す。外の空気が鼻から入ってきた。ヒーターが良く効いている。
正面に座っている人物の背景にある、外の景色を遠目で眺める、それだけで孝一には目的の駅までの大よその時間が計算出来た。
それは、彼がここ一年の通学で覚えたからだ。目に付く大きな看板。線路沿いにある幼稚園。孝一はいつの間にか組んでいた腕を解いて、ポケットの中にある携帯電話を取り出す。
結衣は地下鉄を使っているから、メールはまず来ないが万が一を考慮して、受信メールの新着問い合わせを行う。
届いていない事を教える液晶画面の文字を目で追うと、携帯電話を使う理由は特にないので、すぐにポケットにしまった。
次に膝に乗せた小さな肩掛けカバンから、ホームでは読む気のしなかった津茶色い布製のブックカバーに包まれた文庫本を取り出した。栞代わりに使っていたレシートを器用に指に絡めて、物語の続きに意識を傾ける。
物語に孝一の意識が入って行く中、電車はガタンゴトンと一定のリズムを刻みながら、彼を目的地の駅まで運んで行く。
心地良いリズムは孝一を完全に物語の世界へと誘う事に若干の障害になった。
瞼が段々と重くなり、目で行を追っているスピードに支障を来たす。何度か同じ行を読んでしまいそうになる。結局、数ページしか話は進まなかった。
口を閉じたまま、小さく欠伸をした孝一は、コレ以上は読めないと判断して、本を閉じた。栞を挟んで膝に乗せていた肩掛けカバンに入れる。もう部屋に帰るまでカバンを開ける事はないだろう。
肩掛けカバンを抱きしめるようにして持ち、目を閉じる。
意識がゆっくりと落ちていくのが分かる。現実と夢の境界が曖昧になっていく。孝一は意識を夢に落ちるまで、今日のデートを振り返っていた。
お好み焼きで昼食を食べて、その後ウィンドウショッピング。途中寄った雑貨屋で結衣はB5版のノートを買い、最後に喫茶店へ。
孝一は結衣と沢山の会話をした。
その会話の中で、彼は随所に昨日の電話中の会話を思い出してしまう場面や、一年前の自分を思い出す場面があった。
特に顔に出ていなかったので、結衣には気付かれていないとは思う。
では、良いと言う訳では勿論ない。
自戒の意味を込めて、目を瞑る力に力を込める。眼球が圧迫されて僅かな痛みと共に眠気が消えた。もう意識は夢には落ちない。かと言って、文庫本を読む気にもならない。
短く鼻から溜息をつく。
今、自分が付き合っている相手は成瀬香澄ではなく新城結衣。
混ぜてはいけない。頭の中で自身に言い聞かせて、孝一は再び目を開ける。
窓の外に映る景色は未だ自分の降りる駅の近くを走っていなかった。