開戦前夜と戯れて510
たかさん曰く。
「人間存在とは差別し合い、憎しみ合い、殺し合う存在だから、それを正確に未来予想図として記したのが予言書としての聖書でしょう、違いますか?」
アチきは否定したのでありんすね。
「いや、違うな、たかさん、仮にそう言った予知予言がなされたとしても、一元論的に絶対慈愛しかない神の詔は、その殺し合いを回避して、人間存在同士が愛し合う詔、予知予言になっている筈じゃないか、違うかな、たかさん?」
たかさん曰く。
「そうですね」
と言ったのでありんスガ、諸兄よどう思う?お笑い草か?ほほほほほほほほほほほほほほほほ(ToT)(;>_<;)(^_^)(^.^)\(^-^)/(^-^)(;>_<;)\(^-^)/(ToT)(^.^)
アチきは言ったのでありんすね。
「例えば聖書を書いた聖人が神に祈りを上げて、神の意思と一体化したとして、何故慈愛しかない神の慈愛意思から、これから起きるであろう血塗られた殺し合いの予言を残すのだ、たかさん、そんなの慈愛しかない神の意思と矛盾しているじゃないか?」
たかさん曰く。
「でも予言は神の子たる人間存在の未来についての予知ならば、そうなるでしょう?」
アチきは言ったのでありんすね。
「慈愛しかない神からの詔は、論理的に突き詰めて考えても、慈愛しかない事は自明の理であり、仮に予言が本当にあったとしても、その予知予言は慈愛そのものであり、けして殺し合いの予知予言ではない筈だろう、たかさん」
たかさん曰く。
「人間存在とは差別し合い、憎しみ、殺し合う存在なのだから、それを正確に未来予想図として記したのが予言書としての聖書でしょう?」
アチきは否定したのでありんすね。
「いや違うな、たかさん、仮にそう言った予知予言がなされたとしても、一元論的に絶対慈愛しかない神の詔は、その殺し合いを回避して、人間存在が愛し合うだけの詔、予知予言になっている筈じゃないか、違うかな、たかさん」
たかさん曰く。
「そうですね」