三味線稲荷に月の夜(全年齢版)
薄墨を撫でつけたような陰鬱な梅雨の空である。
湿った空気の中、三味線の音だけが鳴り響いている。つま弾くような切ない音だ。嘆くような音だ。
東鬼は、耳に音を聞き、目に天を見る。彼が座るのは、古ぼけた屋根の上。地面から見上げるよりも、空はほんの少しばかり近い。
彼は雲に向かって重苦しい息を吐く。吐いた息が天に届いたのか、突然雨が降り出した。
雲はますます厚みを増して、その裏に隠された月はちらりとも姿を見せぬ。もしこの厚い雲が払われたならそこには美しい月があるはずである。今宵は満月だ。
しかし今は、その片鱗さえも顔をみせない。
そも、ここは吉原の裏、花街の灯りも届かぬ羅生門河岸。
花の街だと歌われながらも闇を背負ったこの場所は、陰鬱な空気がよく似合う。
しかし月よ見えよと、東鬼はふうふうと雲に向かって息を吐く。まるでせせら笑うように雲はますます厚くなり、雨の滴は東鬼の顔をしとどに濡らした。
やがて一曲弾き終わる前に、三味線の音がはたと止まる。
続いて、屋根の下より遠慮がちな甘い嬌声が響いた。
艶やかな吉原の裏の河岸沿いには、百文程度で女郎の買える切見世がいくつも並ぶ。男が近づけば腕に食らいついて離さないから。と、付いたあだ名が羅生門河岸。
いくつかの見世があるものの、いずれも背の高い竹垣に囲まれた長屋が女郎たちの商売場所だ。
働く女は、行く宛のない女郎上がりか他の見世で断られたものばかり。夜鷹や船饅頭など、下級女郎に落ちるよりはまだましと、流れ着くのがこの場所だった。
吉原のように客を選んですげなく男を振るような女は一人もいない。そのせいで男たちが囁く俗称は「晴れ女」。ふられない、というのである。
部屋は長屋を区切って作られた三畳程度の狭いもの。土間の向こうの畳の間には、敷き布団だけが乱雑に敷かれている。
太陽も当たらないじめじめとした場所だ。壁の薄いこの部屋で、男たちは一夜ばかりの恋をする。泊まりでなければ夜着も酒もでない。その程度の郭である。
そのうちの一軒、隅の隅に作られた見世があった。他所と異なるのは、入口に小さな稲荷のお社があること。そして、長屋の屋根に青錆びた鍾馗の像がいくつも飾られていることくらい。
病の気を追い払うといわれる鍾馗は、花街によく信心された。とかく病と切り離せない遊女は、恐ろしい顔の鬼に「どうぞ次の客も病をもってきてくれるな」と祈るのだ。
信心深い門構えだが、ここを訪れる男達はそんなもの一瞥もくれない。
竹垣の門をくぐって中に入れば、入口辺りには腰の曲がった爺さんが、日がな一日煙草などをくゆらせている。
長屋の合間を元気よく走り廻るのは、爺さんが番犬と頼みにする子犬二匹。犬というが、細目のつり上がったその顔は、小ぎつねにも見えた。なるほど、稲荷社が守る切見世の番は狐がよく似合う、というわけである。
爺さんは知らない間に人々が名付けた「稲荷屋」を勝手に屋号とし、もう何年もここで商売をしている。ものにこだわらぬ爺さんであった。
ほかの見世に比べれば、ひどくのんびりとした空気ではあるものの、ここも立派な切見世だ。ここを訪れる男達は妻への言い訳に「お稲荷さまへお参りに」などと言うのだと、東鬼は噂に聞いたことがある。
「あきらめなよ」
西の屋根より声をかけられ、東鬼は顔を強ばらせた……といっても、石で作られたその顔は、もとより強ばっているのだが。
彼は、郭の上に置かれた鍾馗像、そのものである。
彼の持つ記憶は、屋根の上より唐突に始まる。いつの間にか、こんなところに座っていた。座らされていたというべきか。
しかし彼には過去の記憶もなにもない。果たしてどのような罪があり、このような場所に石となって捨て置かれたのか、とんと分からぬ。
つらいつらいと悲痛な声を上げていたのは最初の数年程度。やがて悲しみは怒りとなって、あきらめとなり、それで落ち着いた。
よくよくみれば、屋根の上にはほかにも鍾馗が四体、いるのである。東西南北の屋根の上、自分と同じように置かれているのである。念じれば、会話もできた。それで寂しさは少し紛れた。
……いくら鍾馗同志とはいえ、全員と気が合う。というわけではないのだが。
「煩いぞ、西の」
東鬼は、つい吐き捨てた。
薄闇の奥、西の屋根に小さな石像が笑っている。同じ鍾馗像だが、東鬼の顔より少し頬がこけて優男のように見えなくもない。彫った人間が異なるのかもしれない。
「今宵はずうっと雨だよ。俺の勘がそう告げてらな」
薄ら笑うように、西鬼はささやく。意地悪な声である。
「もし日が変わるまでに、月がでれば」
「無理だね」
西鬼の意地の悪い一言に、東鬼の言葉が詰まる。しかし、月を求めるのは東鬼だけではないのである。今は口もきかない南も北も、そしてもちろん西の鬼も誰もかもが満月を心待ちにしているのだ。
「……月が出れば俺たちは、人になれる……一ヶ月にいっぺんの楽しみだってぇのに」
西鬼は吐き捨てるように、呻くように雨粒に向かって吐き出す。
「いやに意地悪な雨だぜ」
満月が美しく顔を見せたその夜から朝まで、彼らはたった半日、人となれる。
月の一巡、よくぞ悪鬼より見世を守ってくれたと褒められて、月のある時間だけは人の姿となれるのである。
その声は、天より聞こえるようであり、長屋から聞こえるようであり、よくわからない。
それが誰であるかもわからない。名乗りを受けたような記憶もあるが、記憶は遠い。
吉原界隈の裏には弁財天に守られた社もあるし、少し先には稲荷もある。弁財天か稲荷が我らが主であろう、いずれも神や妖怪に近いのだから、我ら鍾馗を使役するのもさもありなん。と、自称、学者先生の南鬼が話したことがある。
しかしそれが誰であろうと、鬼たちにとって関係のない話であった。
人の姿になれば、決まって懐に一両と百文が入っている。吉原の高い店で遊ぶには少し足りないが、中級下級の見世ならたっぷり遊んでも釣りが出る。もちろん、女遊びなどせず酒でも煙草でも飯でも風呂でも芝居見学でも、金の使い道は自由である。
ただし、朝となり月が姿を消せば無情にも、彼らはこの屋根の上で仲良く石となる。
東鬼は幾度か夜のうちに逃げだそうと試みたが、結局どう転んでも朝になればこの屋根に戻るのである。そして忍ばせておいた金も泡のように消え失せる。ならば、一晩遊んで金を使うほうが、いくらも建設的ではあった。
西鬼は少しばかりすねるように、声を震わせた。
「雨じゃあ、月も見えねえ。月が見えねえなら、今宵はお駄賃も貰えねえ。せめて、目を閉じておとなしくお仕事お仕事……」
ふ。と西鬼が声を止める。東鬼も、ぐっとのどを鳴らす。ちょうど、東鬼の置かれた家が揺れたのだ。
がたつく扉が開くと、上機嫌な男がぬっと姿を見せる。大きな腹をゆっさゆっさと揺らす、人の良さげな男である。にこにこと子供のように笑っていた。
「じゃあまた来るぜ、おやま」
「へえ。いつもご贔屓にしてもろて」
男のその後ろで、白い影が揺れる。
結い髪は少し解れて、湿った頬に数本よりかかる。無地の着物は襟元がすかに乱れ、覗いた喉元は驚くほどに白かった。飾り襟の色は赤。彼女のまとう薄闇に、色を落として艶やかさが匂いたつ。頬は白く、目元は赤い。
ふくらと膨れた耳たぶの、真下につけられた赤い印を見て東鬼は溜息を押し隠した。
「ほな、またお待ちしてます」
女は着物の裾を押さえて男を見送ると、家の門にかけられた提灯の火をふう。とかき消した。今宵はもう商い仕舞いだろう。
「あら龍はん。こない雨の日でも、屋根の上やねえ。かあいそうに」
女は雨の滴に気がついたのだろう。顔を上げて、屋根の上を見た……といっても、その目はなにも映さない。
固く閉じられたその目は、鍾馗も、屋根も、雨も、提灯も、客の男も、自分につけられた男の噛み跡も、なにも映さない。
彼女の目は、きつくきつく閉じられたままだ。
彼女は腕を高くあげて、東鬼を撫でる真似をした。鍾馗の姿を見たことなど一度もないというのに、名前なんぞを付けて律儀に声をかけてくるのがこの女であった。
「西の虎はんも、風邪ひかんようになぁ」
笑顔を浮かべれば若く見える。言葉は、郭で聞かれるありんす訛りではなく、上方の京訛り。
彼女は京の祇園の女郎上がりで吉原育ち。かつて吉原では花魁であった、と噂を聞いた。
今では昔の名を捨て、おやまと名乗っているようだ。京女郎の別名だという。彼女は本名さえも捨ててしまった。
京女らしい赤く小さな唇が、はんなり言葉を紡ぐたび、東鬼は目を固く閉じたくなるのである。むろん、石の身ではそれもかなわないが。
「おいお前、あの女に惚れてるな」
西鬼がくつくつと笑ってからかった。
「女郎に惚れて、いいことなんざひとつもないぞ。龍だのと名前を付けられていい気になって、所詮は鬼の眷属だぜ俺たちは」
「わかっている」
吐き捨てた言葉は泣きそうに響く。しかしおやまには、鬼たちの言葉なぞ、せいぜい垣根が風に揺れる音くらいにしか聞こえないのだろう。
そもそも長屋のあちこちからは、昼となく夜となく甘い声が響きわたり、些細な音なぞかき消されてしまう。
だからこそ、鬼たちは屋根の上で好きに喋るのである。
むす。と口を閉ざした東鬼に媚びるように、西の鬼はまた愉快気に笑う。
「まあ、たしかに」
おやまが部屋に入ったとたん、ちん、とん、しゃん。と三味線の音が響く。
つま弾くようなそれは、彼女が吉原で覚えた芸のひとつ。こんな見世では誰も三味線なんぞ聞きやしない。それでも彼女は暇さえあればつま弾くのである。
それは彼女の言葉に似て、優しくどこか甘く切ない。
「……たしかに、上方訛りは、ちっとばかしぐっと来るねえ」
西の鬼が、ほう。とため息をもらすように、耳を澄ます。
じとじとと降り続ける雨の中、三味線はいつもより長く奏でられた。
次の満ち月は、雨があがった。
わん。と、犬が吠える。それに気がついたのか、案内の爺さんが白い眉毛をぴくぴく揺らす。それは、この見世の入り口で繰り広げられるいつもの風景だ。
長い梅雨もあけて本格的な夏がはじまった。日が落ちてもまだ明るく、蝉の声もうるさい。
東鬼は赤い夕日に照らされながら竹垣の門をくぐった。見上げれば青い空の上に、ぽかりと白く丸い月がある。
満月の姿を見れば、東鬼たちは音もなく人へと変わる。熱い夕日が照らしつける屋根の上には今、なにもない。普段なら夕暮れ時には長い影を落とす鍾馗像が、今は一体もないのである。
鬼たちは人に変わるなり、すぐさま姿を消す。西の鬼はここではない別の郭に、南の鬼は江戸の町へ、北の鬼はいずこへ行ったのかも分からない。
そして東鬼は一人遅れて地上に降り立つと、羅生門河岸を意味もなく一周した。そして酒と菓子なんぞを買い付ける。
ほんの少しばかり時間をつぶしたあと、遠くから着たような顔をして稲荷屋の竹垣を抜けたのである。
まだ日が高いせいか、この見世には客の姿はない。表の吉原はそろそろ入り口に篝火などが激しく燃えて、客の入りもにぎやかなことだろうが、河岸の郭がにぎわうのはもう少し、遅くなってからのことである。
稲荷屋の入り口で、ぼけっと座り込んでいる爺さんに声をかけると彼はようやく顔をこちらに向けた。
客引きであるはずだが、客を引いてる様を見たことがない。いつも菓子を喰ったり酒を飲んだり、時には客を案内し忘れることさえある。そんな爺さんなので、鍾馗像が消えたことさえ、気づかないのだろう。
犬がさんざんにほえ、門に立った東鬼が咳払いをすると彼はよろよろと立ち上がる。
「へい、へい」
「うむ」
「らっしゃい。どこにする」
「東の……おやま」
「あいよ」
爺さんは、ずいずいと小さな手を押しつけてくるので、東鬼はその手の上に百文をおいた。
が、爺さんは金を手に乗せたまま引こうとしない。
彼は長い眉毛の隙間から、じろりと東鬼を睨み付けた。
「泊まるか、どうする」
「泊まる」
「ならあと五十文だ」
「前まで、そんな決まりは無かったはずだが」
言い募れば、犬たちが東鬼の側を元気よく飛び回る。兄弟なのか、同じ顔に同じ声。しかし、どちらも尾ばかり振って、番犬になっているのかいないのかわからない。
「ほ。お侍さんのくせに、ひどく渋るね。不満ならよそにいっておくれ」
手と同じく皺のよった口をとがらせて、爺さんは吐き捨てる。
弱々しくみせかけて、抜け目のない爺さんだ。東鬼は、舌打ちを押さえて、爺さんの手に追加の五十文を乗せる。
それを素早く懐へしまいこむと、彼はおやまの家を三度叩いた。中から、ほろほろと三味線の音が響く。それを合図に戸が開けば、布団の敷かれた部屋の入り口、おやまがぴんと背を伸ばし座っている。
目は固く閉じられているものの、そこに卑しい色はない。しゃんとのばした背をゆるやかに曲げると、銀色の髪飾りがさらさらと涼しげな音をたてる。蒸し暑さが払われる、清涼な音である。
おやまは顔を上げて、にこりと笑った。
「そろそろ、来はる頃やと、思ってました」
「む……声もかけず、俺とわかるか」
「空気が、優しおす。声や聞かんでも、門をくぐっただけでわかります」
客ならば誰にでもかける戯れ言なのか、真心のある言葉なのか東鬼には分からない。しかし純たるおやまの顔を見ていると、真心であろうと東鬼は思ってしまうのだ。
おやまは土間に素足で降り立つ。そして東鬼を探すように、その細い腕を宙で揺らす。そっとその手をとれば、東鬼の身体に熱が走った。
細く白く冷たい腕だ。夏でも汗一つ浮かべない、陶器のような皮膚である。身体の芯の熱を押し隠し、東鬼は彼女の手を取り部屋にあがる。
狭い部屋には、敷き布団が一枚切り。泊まるといえば、おやまは行李の中から、赤い夜着を出し布団の上にかけた。が、東鬼は部屋の入り口に腰を下ろしたまま、肩を怒らせ口を閉ざす。
いつまでも近づいてこない東鬼に気がついたか、おやまは小首を傾げる。そして、壁に立てかけてあった三味線を、しゃん。と弾く。
調子を合わせて、その細い腕が、弦を叩くと、驚くほど力強い音が響いた。
「今日も、三味線だけでよろしおすの?」
「うむ」
「かわったお人」
くつくつと、おやまは少女のように笑う。湿度を持つその身体はけして清くはないはずだが、肩を揺らして笑うその顔は、幼い少女にしか見えない。
東鬼はつられて、笑う。と、肩の力が抜けた。
「今日は、それだけじゃない」
懐に隠し持っているのは、酒と菓子。
「酒と、菓子を持ってきた」
「あら、うれし」
竹の筒につめられた酒に鼻を寄せると、彼女はいかにもうれしそうに笑うのだ。
「当ててみましょ。上方の、下り酒」
「うむ」
「ええ酒ちゃいますのん。こない、甘い、甘い、いい香り……」
杯についで渡せば、押し抱くようにその赤い唇が酒を飲む。朱の杯に、なみなみ注がれた酒は水のように透明だ。
江戸の港に着く上方の酒は、灘に伏見にいずれも高級なもの。花街に愛される上方の酒は、杉の樽に詰められて一刻を争い運ばれる。樽から出したばかりのその酒は、遠い上方の香りが染みこんでいるようだった
「……ん、おいし」
水面に、おやまの赤い唇がうつる。彼女は酒を一口ばかし残して、東鬼に、それを差し出した。
「半分こ」
彼女が持てば小さく見えた杯も、東鬼が持てば小さくなる。揺れる酒を見つめ、一気にあおると彼女の匂いが口の中にひろがった。
おやまは見えない目で東鬼を見つめ、やがて三味線をつま弾きはじめる。外は薄暗く、日もすっかり落ちた。隣の部屋からは、別な女の嬌声が響く。見世の前を冷やかし歩く酔っぱらいの声もする。しかしこの部屋は、この部屋だけは妙に静かなのである。三味線の音だけが響くのである。
やがて、糸が切れたようにおやまの首がかくりと傾き、音がとまった。見れば、彼女はいかにも安心しきったように、すうすうと寝息をたてていた。
東鬼は音を立てないように近づいて、彼女の身体を布団に横たえる。その後、彼はまるで鍾馗に戻ったかのように肩を怒らせ、玄関をにらみつける。
隅に置かれた化粧用の丸鏡には、恐ろしい顔の男が映っていた。
それは東鬼だ。人と化したところで、色男になれるはずもない。眉の太い、四角い顔に目つきばかりが鋭く、髭が顔の半分を覆い隠している。
着物ばかりが立派でも、体つきといい顔といい、侍とは言いがたい。浪人か、前科者にしか見えないのである。が、この町では、それを咎めて身元を洗うような野暮な真似など誰もしない。
赤い夜着の上で、おやまは眠る。その小さな肩は眠るたびに揺れ、それと同じく、耳にかけられた髪の毛が揺れる。もう、幾度この風景を見ただろうか。
おやまと出会い、東鬼ははじめて郭というものに足を運んだ。つまり、彼女がこの家に入った次の満ち月より、東鬼はこの家に通い続けている。
そしていつも、彼女は三味線を少し弾いたあとに眠る。東鬼は眠る彼女を側で見守る。それが、いつもの至福の時である。
眠るおやまは窓から差し込む光を纏う。その姿は、まるで菩薩か観音だった。
身体の中に熱が貫くのを耐え、東鬼は小さな窓から空をみた。
美しい、満月の夜である。
「……また、寝てしもぉた」
おやまが身を起こしたのは、朝日が窓に滲む時刻。そろそろ、東鬼の身が鍾馗に戻る頃合い。そっと家を出ようとした時に、彼女はひどくあわてたように身を起こした。
「もぉ、朝?」
髪はほつれ、頬には夜具の跡が残る。彼女は光に気づいたか、あたふたと髪を整え、東鬼の気配を探った。
「お侍はん、まだ居はるの? わて、寝てしもうて……」
「うむ、ゆるりとできたか」
「悪いわ、いつも……お侍はんが来はると、なんでやろ。すうっと安心してもうて、眠ってしもうて……」
「かまわん。俺が寝ろと言っている」
そのまま寝ていろと言ったところで聞く女ではない。おやまは素早く身支度を整えると、顔に白粉を軽くはたいて立ち上がり、東鬼に寄り添った。
戸をあければ光がまぶしい。周囲を囲む竹垣は朝露に濡れ、それに夏の光が反射している。夏の朝はさわやかな湿り気がある。
雲一つない青い空に、半分ほど薄れた名残の月が見えた。いまにも夏の日差しに吸い取られてしまいそうである。気が急くが、朝の別れの切なさが東鬼の動きを遅くさせる。
「なあ、お侍はん」
おやまが、つん。と東鬼の袖を引いた。
「せめて、お名前をいうて。何もせえへんとはいえ、吉原でも、こない通ってくれたらもうお馴染みはんやわ」
「……俺は、りゅ……そうだ、龍之介……」
「龍? まあ、わての知り合いと、おんなじお名前」
おやまはうれしそうに口を押さえると、顔を天に向けた。そして屋根の上を細い指で指し示す。
「そこに、鍾馗様がおらはるでしょ……いうても、わては見えやしませんのですけど。この見世に来たとき、お爺ちゃんに教えてもろてね。いっぺん、おろした鍾馗様の像を撫でさせてもろたことがありますの」
東鬼の身体に、また熱が走った。忘れもしない、そうだ、それは数年前の真冬のこと。ずっと女郎のいなかった東鬼の家の下、このおやまが入ったのである。
ひどく顔色の悪い女であった。目が見えないせいか、足取りも悪く、吐く息も苦しげである。
爺さんが気を回し、屋根の上の鍾馗を地面におろしたのはその翌日。
撫でれば病もよくなるから、と爺さんは孫を労るようにおやまの手を東鬼に載せた。冷たい雪の上に置かれた東鬼の体を、おやまは撫でる。目には見えないが、指から伝わる感覚で形がわかるのだろう。真剣に撫でて撫でて触れて最後は抱きしめ、彼女は声を上げて泣いた。
そのとき降り注いだおやまの涙は、今も東鬼の身体のどこかに染み着いている。
「あの像は、わてにとっては馴染みの深い、お方どす」
今の屋根には、像などない。ただ朝日が照りつけているだけだ。雀が一羽、不思議そうな顔で屋根の上をはねている。
「大陸の鬼はんや言わはりますけど、いつからか花街に飾られるようになって……病気や、デキモンにえらい効力があるいうて」
おやまはなにもない屋根を指しながら言葉を続けた。
「京の祇園では、昔っから商いのおうちに居はったのですけど、だからえらい、懐かしゅうて。東の方角は、上方では青龍。京の都では祇園はんの眷属やから……わて、ここの鍾馗様のことを龍はん龍はん呼んでますの」
彼女が口にする、龍。の響きは甘い。その言葉を聞くだけで、東鬼の身体はとろけてしまう。
「龍之介はんも、なんや懐かしいお人やと、ずっと思っとったのやけど、鍾馗様によぉ似てはる」
「おやまよぉ」
ご機嫌なおやまの声を止めたのは、爺さんである。竹垣の向こうから、遠慮がちに顔を覗かせ困ったように首を振る。
爺さんの小さな背の向こうに、いかにもちんぴらめいた男たちの顔が見えた。
その男の一人がわざとらしく咳払いをすれば、おやまの身体に緊張が走る。が、彼女はすぐさまそれを隠す。そして何事もないように、着物の襟をさっと合わせた。
「お爺ちゃん、ええのよ、通してあげて……」
「でも」
「わてが相手せえへんと、ご機嫌悪いから」
先ほどまでのご機嫌な顔は、今はもうない。東鬼に軽く頭を下げると、彼女はさっと家へと戻っていく。彼女を追いかけ、家に入った男はからげた着物の様子といい、目つきといい、堅気ではない。
「ああ、いやな男だいやな男だ」
気がつけば爺さんが曲がった腰を叩きながら、東鬼の隣に立っていた。呆けたような爺さんには珍しく、目つきが鋭く怒りに口吻が曲がっている。
「あの男は?」
「おやまが前いた見世の男だよ。ああ虫酸が走るじゃぁないか」
汚れを落とすかのように、爺さんは手を擦り合わせる。
普段は呑気な番犬二匹も、おやまの家に向かって歯をむき出し唸っていた。
「おやまは、前の見世でやらかしちまって」
「吉原の……」
「そうそう、あの子は、元は花魁よ」
爺さんはあたりをはばかるように首を回すと、東鬼を手招いた。
家の影に入るなり、爺さんは東鬼の耳にささやく。
「おやまはな、商家のぼんに惚れられて……よくある話だが、おやまも純なところがあるから本気にしちまった。その時期に、わっと江戸を騒がしたのが、心中人気だ。ほれ、芝居にもなってひどく人気の……」
「おやまが心中!?」
「しっ声がでけえよ……そうそう、共に死なんと約束をして、足ぬけした時が真冬の雪の日。あだしが原の道の霜……ってわけじゃあねえが、行き着いたのが、ほれ吉原の外にある稲荷神社の鳥居の前……」
あの細く白い身体のどこに、そんな力があるというのか。冷たい空気に触れたように、東鬼は震えた。
吉原の外というが、稲荷までは少々距離がある。雪の夜、そこへ向かうのは相当な勇気が必要である。
「……男と共に?」
「まさか。男は怖くなって家の中でガクガクよ。情もなにも、あったもんじゃない。一度ならず何度も肌を合わせた女が一人、凍え死のうとしてるというのに……」
もとより色の白いおやまの肌が、白くなっていく。手先も息さえ凍って震えている。手をすりあわせ、闇の向こうから男が現れるのを待っている。そんな幻を東鬼はみた。
「……つまりな、いっぺんあの子は、死んでるんだよ」
爺さんの声が不意に、遠くなった。がくがくと身体が震え、そして目の前が何度も暗転する。
あ。と声を出すより早く、東鬼の目前に広がっていたのは、屋根の上の風景だ。慌てて天を見上げれば、白い月の姿はすっかり光に隠れていた。
足下の家の陰、爺さんは未だ気付かないのか、誰もいない隣に向かって熱弁を振るっている。
夏の気温は鰻登りだ。今年の夏はとりわけ熱い、と皆がいう。それは雨のふらないせいもあるのだろう。あれほど降った梅雨を忘れるように、雨はぴたりと息を潜めた。
そんなからからに乾いた夏の朝。東鬼は珍しくも、像の姿で地面を踏んだ。
ゆっくりと地面におろされると、水を含んだ夏草が東鬼の体に触れる。いつもより低い目線で見る稲荷屋は、どこかのどかな雰囲気である。
と、その音を聞きつけたのか西の家から声が響いた。
「あら、お爺ちゃん。朝から精が出ること」
「ああ。最近雨が降らねェからね。打ち水でもとおもったら、この像も意外に汚れてやがるのよ」
朝から東鬼を地面におろしたのは爺さんである。これから一体一体おろして、水をかけ、磨くのだと爺さんは朝から張り切っている。
「うちの屋根のも頼むわよう。しっかりにらみ利かせて貰わないと、病気でももらっちゃあ、商売あがったりだあ」
西の娘はきゃらきゃら笑うと勢いよく戸をしめる。屋根の上の西鬼が東鬼にだけ聞こえる声で舌打ちをした。
「はいよはいよ。でも俺は爺だからね、一体一体ゆっくりとやるさ」
柄杓で水をかけられ、熱いからだが一瞬で冷えた。その心地よさ、東鬼は久々に生き返る気分である。もとより、生きてなどいないのだが。
夏の風が吹く。朝の、さわやかな風だ。水に濡れた東鬼の視界のむこう、揺らめく夏の日差しのなかにおやまが見えた。
「そこにおるのは、お爺ちゃん? なにしてはるの?」
「おやま、ちょうど像を磨いてるところさ」
「腰わるぅするよ」
朝から湯屋にでもいっていたのか、白粉だけを肌にのせたさわやかな顔である。彼女は爺さんの声を頼りにふらふらと近づいてくる。
爺さんが手を取ると、湿り気に気がついたのだろう。首を傾げて手を宙にさまよわせた。
「像って龍はん?」
「そうそう」
「さわらせて、さわらせて。下に降りるのも、久々やねえ」
まるで子供のようにはしゃいで、おやまは爺さんの手をひく。爺さんはそっと、その手を東鬼の上においた。
……ひやりと、冷たい手である。
「なあ、おやまよう。最近おやまの周りはきな臭くっていけねえや。しばらく、この像は家の前にでも飾っておくかい。こいつのやぶにらみは悪い虫にもよく効く」
「龍はんは、上から睨んでくれはるから、わても安心して仕事ができるんどす」
「確かにあの男は、あれ以来顔を見せないが……」
あの男、という言葉に東鬼の喉が詰まる。あの朝、男は思ったよりも早くにおやまの家を出た。遊びにきたのではないのだろう。代わりに、懐を押さえて男はいやな笑みを浮かべていた。
その懐からは隠しきれない金の香りがしたのである。
「おやまよぅ。俺に変に気遣いをすることなんざねえんだよ」
爺さんはぐずる子を宥めるように、おやまの手を撫でた。
「お前さんは、いっぺん死んだ身だ」
「お爺ちゃん、もうええわ。そないな昔の話……」
「いや、俺は爺だからよ、昔の話が好きなんだ……お前は稲荷の鳥居の目の前で、心中相手を待って凍えたんだ……その綺麗な目ン玉も、その時に、病んで見えなくなったんだろう」
日差しの暑い日だというのに、不意に東鬼の体に冷たい風が吹いた気がした。
それは、おやまの心中未遂を、思い浮かべたせいである。
雪の中、三味線だけを抱いて彼女は倒れていたのだろう。白い雪に赤い鳥居、夜の闇。
きっと彼女は白の着物に飾りのない帯。髪などおろして素足であったに違いない。彼女には、妙な芯の強さがある。
「死んだお前をみつけたのが、あの男よ……郭の、用心棒っていうちんぴらだよ」
「……」
「足ぬけして死んだ女の扱いは、吉原じゃひでえもんだ。決まり通りに、素っ裸に剥かれて荒い筵ににくるまれて……」
ふ、とおやまが小さく笑う。
「心中なんぞ起こして死んだ女は、三流でも花魁でも、最後は決まって投げ込み寺どす」
その言葉通り、規則を破った女の最後は悲壮である。人の尊厳などなにも与えてはくれない。ピンも切りも関係なく、素っ裸のままで寺に放り込まれる。
「でも運ばれる前に息を吹き返したんだ、おやまは」
「ゆらゆら揺れて、さぶうて、さぶうて、目がさめて……いうても、目が焼け付くみたいに、痛ぅて、痛ぅて……ちぃっとも開けられへんかった」
おやまの手が東鬼の頭を優しく掴んだ。丸い爪が、きりりと石を掻く。
それまで見えていた目が、その時の雪の冷たさに病んだのだ。東鬼は、哀れさに震えた。
「わて、びっくりしてしもうて、慌てて起き上がって……」
突然、起き上がった女をみて男たちはさぞや焦っただろう。
日頃、女に恨まれていることは身をしみてわかっているはずだ。死んだはずの女が起きあがれば息を吹き返したと思う前に、恨んで出たとでも思ったのだろう。
「見えへんはずの目に、お稲荷はんの赤い赤い鳥居の色がうっすら見えたのをよぉ、覚えてます」
投げ込み寺へ運ばれることもなく、おやまはその場に投げ捨てられた。
「それを、俺が拾ったのよ。なあ、おやま」
爺さんはため息をつく。その足下に、小さな夏の花が見えた。
東鬼は花の名前など知らぬ。しかし夏に咲き、秋に枯れ、また夏に花をつける。そのように、おやまも生き返った。
「死んだら罪も借金も帳消しだ。生き返った女は、綺麗な体だ。罪も借金も、全部消える。そんな掟もある。地獄にも情はある……なのに何でたって、お前はまだ男に金を渡すんだ。あれはお前が前の見世に残した身代だろう? もう、払わなくてもいい金だ」
「もうわてがあそこで花魁をしていた頃なんて、誰も覚えてはらへんのに」
くくく。とおやまは笑う。東鬼の上に置かれた手が小さく震えていた。
「……花魁の意地やと、笑ろうて」
花魁だの太夫だの華やかにみえて、その身は借金にくるまれている。金を返せば自由の身だが、返すまではとらわれの身だ。死んだ身なら返さずとも誰もとがめもしないのだが、おやまは律儀に返しているのである。
あといくら残っているのか、像の東鬼にはわからない。しかし、安い額ではないのだろう。だからこそ、男は執拗におやまに脅したてるのだ。
おやまの手が、優しく東鬼を撫でた。そして、無理矢理会話をかえるように、爺さんを見る。
「お爺ちゃんはここ、長いのん?」
「そうさな。まあ客は引かなくてよし、この家の子達はみんな美人で気立てがいいってくりゃ、俺の仕事なんざ一日わんころと遊んでるくらいで楽させてもらってるよ」
わん、と犬が誇らしげに鳴く。おやまは笑って、東鬼の体をゆっくりと撫でる。
その手が、背の真ん中でつっと止まった。
「あら。龍はん、こないなところに傷がある」
「ああ。一度、酷い風んときに屋根から転がり落ちたんだ、それ」
東鬼には、自分では見えない傷がある。それは背についた、小さな裂け傷だ。痛みはないが、ひどく綺麗に裂けたとみえ、風がふくとすうすう冷えた。
その傷を優しく撫でて、おやまは東鬼の耳にそっとささやきかける。
「かあいそ。はよう、よくなりますように」
それは、慈愛しか感じられない声である。
次の満ち月が近づくにつれて、東鬼の口数が減った。思い悩むように溜息を漏らした。
西鬼のからかう声にも、反応が鈍くなる。西鬼がつまらぬつまらぬと口をとがらせ、時に優しい声をかけてくるほどになったが、それでも東鬼の重い心は晴れ上がらない。
いよいよ今宵、月の満ちる日。東鬼はようようと声を上げた。
「西の」
「お。むっつりが口ぃ開けやがった。すっかり石に戻ったとばかり思ったぜ」
いつもの軽口だが、どこか嬉しげでもある。そんな彼をじっと見つめて、東鬼は逡巡を捨てた。
「なにも云わず、今宵、一両貸してくれ」
西日がじりりと顔を焼く。夏の日差しは夕暮れ時が一番暑い。目の前の夕陽は、蕩けて地面に崩れ落ちそうなほどに熟している。
東鬼は静かに、続けた。
「次の満月では、俺の金をお前にやるから」
「バカか。俺ぁ、これで吉原のべっぴんを抱きにいくんだ。知ってっだろ」
「知って、知った上で、言うのだ。頼む」
身体が動けば頭を地面にこすりつけさえしただろう。と、身体がふうっと浮かび、気がつけば地面に二本の足で立っている。
月が、姿を見せたのである。
いつでも、この瞬間だけは慣れぬ。身体に血が流れ、心の臓が動き出す。身体の隅々が、息をする。目眩を堪え顔を上げれば、細面の男が東鬼を睨み付けていた。
「……西の」
西鬼は無言のままで懐に手を突っ込むと、そこに入っていた一両を東鬼の手に押しつける。そしてふいっと顔を背けた。
手に増えた重さに目を丸める。願い出たのは自分であるが、まさか西鬼が素直に金を渡すなど思いもしなかったのだ。
「すまない」
「謝るんじゃねえよ。やりづれえ。俺ぁ、百文で、芝居でも見に行くか、違う見世に遊びに行く」
意気に着物を着こなして、袖の端から見える刺青も華やかな西鬼である。どんな女郎でも手玉に取れる。しかし彼は、決まった女を二度は抱かない。
「西の。お前は稲荷屋の、女は嫌いか」
「あの女なんぞ、くそくらえだ」
ぷっと吐き捨てるように彼は言った。彼の家で商売をする女は、底抜けに明るいが底抜けに多淫である。過去になにがあったか知らないが、西鬼は彼女の話題を出すと不機嫌となる。
「与太話なんざつまらねえ。俺が一両返せと言う前に、とっとといっちまえ」
月はまだ上がったばかり。夜の始まりを告げる鐘の音が、ごうんと鳴り響く。
「爺さん、今日は泊まりじゃないが……」
「お侍さん大変だ。あの輩がまた来てやがる。今日、残りの金を作れねえなら郭に引っ張っていくと……」
稲荷屋に入るなり、爺さんが東鬼の手を引いた。普段呑気な爺さんには思えない敏捷な動きである。東鬼は爺さんの身体を押しのけるなり、戸を叩く間も惜しんでおやまの家をこじ開けた。
土間には、例の男が酒を片手におやまの手をひどく、掴んでいた。
おやまは嫌がるように、身をよじる。まるで魚が身を捻るように着物の裾が夕陽の中でちらちら揺れた。
目が見えないせいで、どちらに逃げていいのかも分からないらしい。もがく彼女の声が悲痛に響いた。
「……俺が先客だ」
「龍之介はん!」
東鬼は数歩で家のなかに飛び込むなり、手加減なしに男の手を捻る。と、見た目よりもひ弱なその男は容易く悲鳴をあげた。身を引いたそのすきに、おやまの前に立ちふさがって肩を怒らせれば、男は目を白黒とさせる。
「おま……誰だ、客か。前もいた……」
「おやまの借金は掟では、なくなってるはずだ」
男は魚のように口を大きく開けて、息をするばかり。最初こそ威勢が良かったが、東鬼の顔をみて子犬のように震えた。
鬼のように毛を逆立てた髭ヅラの東鬼は、さぞ恐ろしい顔であるらしい。
怒りが東鬼の身を焼いた。それは人の怒りではない。鬼の怒りだ。怒髪天をつくという言葉のとおり、髪は逆立ち目は尖り、口の端から歯が漏れる。顔は、焼けるように赤くなっているに違いない。
男は東鬼の顔をみて、まるで腰を抜かすように崩れ落ちた。
ひいひいと、喉の奥が震えて情けなく息を漏らすばかり。
東鬼は一歩男に迫り、自分の懐に手を突っ込む。
「おやまの情に、これ以上甘えるな。酷いようなら、俺にも考えがある」
そして男の目前の床に、二両の金を叩きつけた。
「……おやまの借金の足しにしろ」
「ふ……ふん。貧乏な成りをしているくせに、金はあるのか」
男は舌を噛み噛み、必死に口を開ける。だが手だけは素早く、床の金を拾い上げた。
そして隅っこを噛みしめて、ぺっと唾を吐く。
「偽ものじゃあないらしい」
「当然だ」
「……ふん、二両ばっかしか。でもよ、まだ借金は残ってんだ」
埃を払い、立ち上がった男の腰はすでに及び腰だ。流行りの着物も裾が情けなく揺れるばかり。
「今日はひいてやる」
吐き捨てて、よろよろと逃げ出したその背に、爺さんが塩をまく。犬が吠える。這々の体で逃げ出す男の気配が消えてから、東鬼はようやく戸を閉めた。
つつ、と肩から汗が流れ落ちる。いかに鬼とはいえ、喧嘩など慣れてはいない。いかつく肩を怒らせることはできても、刀ひとつ手に取ったこともない。咄嗟に動けたのは奇跡であり、その恐怖が今更ながらにわき上がる。
「……龍之介はん、二両……二両って、今……二両やなんて……あない……大金」
「気にするな」
腰を抜かしたように土間にへたりこむおやまを抱き上げ、そっと布団へ下ろせば彼女は存外強い力で東鬼の腕を掴んだ。
「気にします。家にきても、わてに指一本触れもせん。せやのに、お金ばかり、払ろうてくれる」
「おやま、三味線を……」
泣きそうな彼女に、三味線をそっと手渡せばおやまは袖で東鬼を叩く。嫌、嫌と子供のように首を振る。
が、東鬼が優しくその手を撫でると、彼女はようやく息を吐いて震える指でばちを握った。
一息吸い込み叩いた音は、力強く部屋に響く。いつもより調子の早い、強い音だ。彼女は一曲弾き終えると、三味線を投げ捨てた。じゃん、と弦の揺れる音がする。彼女は三味線に構わず、東鬼の背にひしりと抱きついた。
「なんで」
「……どうした」
「なんで、わてなんかに、優しゅうしてくれはるの?」
「……俺は」
囁くおやまの声は、優しい。月の明かりを浴びながら、鍾馗は目を閉じる。耳の奥に三味線の音が蘇った。それはおやまが初めてこの見世に来た夜。泣くように聞こえた三味線の音色である。
「俺は、生きる意味を持たぬ男だ。毎日死にたいと願っていたときに、お前の三味線の音が聞こえたのだ。お前の三味線の音が、俺に生きよとそう言ったのだ」
なぜ像として生を得たのか、像として生きねばならぬのか。声にならない声で月に叫んだ。その心を代弁するように三味線は泣いて、東鬼も泣いた。この女は、どこか東鬼と同じ悲しみを背負っている。生きたい心と死にたい心が共に身体に染みこんでいる。
「……そう聞こえたのだ」
着物越しにも分かる暖かさが、東鬼の心を揺らした。が、身じろぎもせず、彼は窓の外を見る。
もう、陽は落ちた。黄金の月の明かりは、おやまの皮膚をしらじら照らす。まるで光の衣をまとったようである。
彼女は東鬼の背に押しつけた小さな額を、数度動かす。彼女の指が、薄い夏物の着物ごしに背を撫でた。
「……龍之介はん、背中に、傷」
背についた深い傷は、着物越しにも分かるのだろう。そのくすぐったさを耐え、東鬼は優しく言った。
「ただの古傷だ」
背にある傷跡が撫でられる。痛みはない。おやまの指はあの朝の日のように、優しく、優しく、何度も東鬼の背を撫でる。
「……そう。はよう、よくなりますように」
「しまったな。爺さんに、金も払わずに来てしまった。明日、どやされてしまうか」
暖かさにしばし酔い、東鬼は口元に笑みを浮かべた。いまだ東鬼の背に額を押し当てるおやまも落ち着いたのか、先ほどまでの駄々は息を潜めた。
彼女は身を起こすと、三味線を優しくなでる。ほろほろと、指先から音がした。
「……最近、泊まりが五十文あがったでしょう」
「ああ」
「ほんまは、百文なんやけど、わてのお馴染みはんだけ、五十文高いんどす」
「なぜ?」
「一日、どうしてもお休みほしくて。でも、吉原は外に出るのに、身代のお金を置かへんと、一歩も出られへんでしょう。そのお金をためよとしてたら、お爺ちゃんが、ええ考えがあるから任せとけって」
「休み?」
ふふ。とおやまは笑う。
「お稲荷さんへ、御礼のお参りに」
命の恩人だ。とおやまは呟く。彼女は稲荷の鳥居の下で一度死んでもう一度生まれ変わった。
「もし、よければ、龍之介はんも。一緒にお参りに、ついてきておくれやす」
月の明かりに照らされた、おやまの顔は笑っている。それは、少女の如き笑みであった。
最近の満ち月は、雨が降らない。次の満月の日もまた、暑い夕陽となった。
満月が空に映るなり、東鬼の身体は屋根の下にある。二本の足で大地を踏みしめて、懐に手を差し込めば金の冷たい固さが指に触れた。
同じく地面に立つなり背を向けた西鬼に、彼は慌てて声をかけた。
「西の。金を返す」
「金? 何の話だ」
「先月の」
一両を取り出そうとすれば、西鬼が面倒臭そうに鼻を掻く。そして肩をすくめて見せた。
「とっとけ」
「なぜ」
「好いた女の温もりに、手もださねえようなお前はほんもんの神様だ。そんな神様を見習ってみてえもんだと、お賽銭よ」
言葉に詰まれば、西鬼は小馬鹿にするように笑う。
「男が一度出した金を、受け取れるかよ」
ごんごんと、どこかで鐘が鳴る。吉原の、はじまりを告げる鐘である。男達が、郭に集う時刻である。その音に気もそぞろとなったように、背を向けた。
「俺は今日も吉原よ。せいぜい、いい女と恋をしてくる」
西の家をちらりと横目に見た後、彼は大きく手を振って竹垣の向こうに消えた。
西の家からは、夜ともなればいつも男の気配と女の甘怠い声が響いていた。今は白粉の香りが、ぷんと漂って来る。それを聞くたび嗅ぐたびに、西鬼は顔を歪ませる。その理由を、東鬼は今更に気がついた。
いずれも切ない恋の物語である。
夜は呆気なく更け、黒い夏の夜空に月が浮かぶ。眩いほどの満月である。その黄金に照らされた道を、おやまが楽しげに歩いていた。
吉原を出るのに、ひどく手間取るのではと心配したのは門までの話。爺さんが持たせてくれた書き付けを渡せば、呆気なく門を超えて橋を渡った。何一つ、詮議されることもない。
足抜けのような不安さは消え、ただ散策のように二人は歩く。稲荷へと続く森の参道は、赤い提灯が輝いて、多くの人がぶらぶらと歩いていた。
聞けば今日は、祭の夜であるという。人の多い祭の方が、かえって目立たず済むだろうと爺さんがそういったそうだ。
「お爺ちゃんも、お祭り行きはるんやって。犬ちゃん連れて一足先に、行ってもた」
「自分が遊びに行きたいから、おやまの外出を許したのか」
呆れたように東鬼は呟いて、おやまの身体をできるだけ自分の側に近づける。
普段より地味な着物を纏ってはいるものの、おやまには妙な色香がある。通り過ぎる男達がちらちら見てくるのも不快である。
しかしおやまは気がついているのかいないのか、気にも留めず東鬼の袂をきゅっと握った。
「うれしい。こない、堂々と外に出て、お参りに行けるなんて。お爺ちゃんが許してくれたんも、龍之介はんが一緒に付いて来てくれるからやわ」
「俺のような、身元の不明な男が一緒でいいのか」
「身元よりも、この町で大事なんは馴染みかそうでないか……ああ、龍之介はん。お祭りやから、賑やか……みんな、楽しそうで……」
言いかけたおやまの言葉が不意に止まる。そして肩がかすかに震えた。彼女は、気配を察知したのだ。
顔を上げれば参道沿いの、赤い提灯の下に見慣れた男達の顔がある。
それは、例の郭の男である。今日は数人を引き連れて、嫌な笑みを浮かべてこちらを見ている。おやまが逃げだそうとすればすぐにでも、捕まえる心づもりなのだろう。
「あいつら」
「ええのよ、無視して」
おやまが袖を引く。
「これは足抜けやのうて、手続き踏んで外に出とるんどす。それに、あんな奴、龍之介はんがいたら、何も出来やしまへん」
「おやまよ。ぬけぬけと、自分の死んだ場所に巡礼かい」
一人が、からかうようにそういった。
「お前の昔の恋のお相手は、昨夜祝言をあげたとよ……いいところのお嬢様と、ご一緒になったとよ」
もう一人が、追い打ちをかけるよう続けた。
「女一人に苦労をかけさせ、情けない男だぜ。それを見抜けぬお前の浅はかさ」
「龍之介はん!」
男達の言葉に耐えかねて、東鬼の身体は前に出る。男達が怯んだが、今宵は数を頼みとするのか妙に強気である。酒でも飲んでいるのか、一人が勇み足に細い肩を怒らせ一歩出る。東鬼も、釣られて一歩でる。通りすがる参拝客が、喧嘩だ喧嘩だとはやし立てた。
一歩出れば東鬼とて後には引けぬ。腕をまくり、太い腕をさらけ出し足を踏み出せば、背後より清らかな声が聞こえた。
「……鬼さん」
それは雑踏の中でも良く通る。釣られるように振り返れば、おやまが手を打ち鳴らしていた。
彼女の身体から、後光のごとき灯りがあふれ、まるで闇夜に浮かびあがるようだ。男達も東鬼でさえ動きを止めて目を擦った。
「……手のなるほぉへ」
ぱん、ぱん。と彼女の小さな手が打ち鳴らされる。固く閉じられた目は柔らかく円を描き、赤い唇は緩く微笑む。肌はいよいよ白く、まとった鬼灯模様の着物が不思議と清らかである。
後光に見えた赤の光は、彼女の背にある提灯の明かりであった。
しかしそれは、いつか絵でみた菩薩のように神々しくもあふれだし、まるで後光に見えるのである。
「鬼さんこちら……手のなるほぉへ」
男達も、野次馬さえも毒気を抜かれたようにぽかんと彼女に見惚れる。
東鬼が炎に釣られる虫のようにふらりとおやまの元へと戻れば、彼女はその頭を優しく撫でた。
「よぉ、できました」
「おやま」
「行きまひょ」
「……おやま」
「顔を、見たらあきまへん」
おやまは顔を伏せたまま、音もなく歩きはじめた。
東鬼の手を引いて、おやまはがむしゃらに歩きはじめる。目が見えなくても、吊られた提灯の明かりがあれば、道は分かるのだ。覗き込もうとする東鬼の気配を察したか、彼女は顔を振るいあげた。
冷たい滴が、東鬼の手に落ちる。
「泣いてしもうて、情けない」
「俺がいる」
はらりと、泣いた彼女の顔を見て東鬼は思わず言いつのった。細い肩を掴み、おやまの顔を覗き込む。
「……俺がここに」
しかし、共に逃げようなどという囁きを、彼はできない。
所詮、彼は鍾馗であった。月が消えれば、屋根に戻るのだ。この女を残して。
先の約束もできず言葉を濁した東鬼をなじることなく、おやまは顔を上に上げる。涙に濡れた頬が、黄金の色に輝いている。
「光がきれいやわぁ」
「……見えるのか」
「満月は、明るいでしょう。それにわて、満月は好き、心待ちにしてますの」
しゃん、しゃん、と清らかな鈴の音が稲荷の鳥居の向こうから響く。祭りの神楽がはじまったのだ。髪に花を飾った女たちが、静かな足取りで神楽を舞う。その清らかな音をききながら、おやまの手が東鬼の手を優しく握った。
「……また、次の満月の夜もきっと来ておくれやす、龍はん」
その呼びかけに、東鬼の動きがとまる。その体の上を、高い笛の音と、とうんとうんと響く太鼓の音。
赤い光に浮かぶ鳥居。
「……また、お前の三味線の音をきかせておくれ」
ささやいて手を握る。
それは互いの血を暖かく通わせて、かすかな夏の寒さを吹き払った。