鬼童丸異聞:衝
こんにちは。せっかく来ていただいたのにこんな格好でごめんなさいね。それで、童様のことでしたね?もうずいぶんと昔のことですので、朧気なところもありますけど。
はい、あの日はたいそう暑うございました。大江山より少し南にある雲原と言うところでございます。そこで童様はお産まれになりました。お母君はかつて、京の都で桜御前と称されておりました伊予国経友の奥方様にございます。奥方様は京の都でお住まいになられていたのでございますが、ある時神かくしにおあいになり、それ以来大江の山にてお住まいになられておりました。私めが初めてお会いしたのも、大江の山にありました鋼の御所でございます。
奥方様は大江の山にてお住まいになるうちに、いつしか酒呑童子様とお近づきになられ、源頼光公が酒呑童子様をお討ちになられた時にはすでに童様を身篭っておられました。
えぇ、酒呑童子様のお亡骸を目にされた時は、大変なお取り乱しようでございました。源頼光公をあらん限りの言葉で責め立てられ、私や他の女衆が止めねば切りかかっておられたやもしれませぬ。頼光公といたしましても、朝廷の命を受けてのことでございましたゆえ、致し方のないことでございましょう。されどそこは女子の性でございます。子を宿すほどに思い添い遂う者が骸となり、手を下した相手が目の前にいるとなれば、怨みも積もるものでございます。結局、奥方様は京の都へお戻りになることをせず、大江の山にほど近い雲原の地に粗末な小屋を見つけ、そこに住まわれるようになりました。
えぇえぇ、そのとおりでございます。私めも奥方様に倣い、雲原の地に残ることにいたしました。何と言いましても奥方様は身重の身でございますから、誰ぞお傍に残るのが必定でございましょう。その点、私めであれば幼き頃より酒呑童子様のお近くにございましたので、奥方様も気安かろうと他の女衆らも申しましたので。
雲原での奥方様は常に気鬱の病に悩まされておいででした。酷い時はそれこそ3日3晩泣き通され、お食事も喉を通らないほどでございました。そのせいもありましょうか、童様はお産まれになったその時には歯が生えそろい赤子とは思えぬほどのお力をお持ちで、その日のうちに這って動かれるほどでございました。
私めもかつて酒呑童子様よりお聞かせいただいたことがございました。酒呑童子様はお生まれになったとき、すでに髪は伸び、歯は生えそろい、3日とせずに歩き回られたとか。童様は紛うことなき酒呑童子様の忘れ形見にございました。
奥方様も童様のありようをご覧になてはたいそう喜ばれ、気鬱の病も平癒に向かうものと思っておりました。
はい、私めの前ではうらみつらみの言葉を仰ることはなくなったのでございます。されど、童様にはお告げになっておられたのでしょう。あのようなことになろうとは・・・。
童様はすくすくと大きくなられ、6つか7つの頃には、山に入り石を投げて鹿や猪などを獲られるようになりました。鬼の子などと申す者もおりましたが、それはそれ、酒呑童子様のお子ですので。それに、童様がそうなされたのにも理由がございました。奥方様は産後のひだちが悪く、床に伏せられる日が多かったのでございます。雲原の者よりいくばくかの食料を分けて頂いてはおりましたが、それだけでは暮らしていくのもままなりませぬ。そこで童様が山に入られ鹿や猪などを獲っていたのでございます。
そうして幾年もの時が過ぎ、童様もたいそう立派になられました。酒呑童子様のように天を衝くほどのお体に5人力とも10人力とも言われるお力があり、時には3日4日かけて摂津国の方まで獣を獲りにいかれることもございました。
ここからは私めも伝え聞いたお話でございます。討ち手の中にも憐れと思てくださった方がおられたということでございましょう。
その日、童様は摂津国まで遠出をされておりました。いつものように鹿か猪を獲られていたのではないかと。その折になんの因果か源頼光公の弟君、源頼信公が童様をお捕えになったそうでございます。童様は無理に抵抗なされず、なされるがままに頼信公のお屋敷にて囚われの身となられたそうでございます。
悪いこととは重なるもので、その日、頼公のお屋敷に源頼光公が訪われ、予期せぬ対面となったそうでございます。
頼光公は「やれ、このような鬼子を放ち置くとは何事ぞ。誰ぞ鎖にて引きおかれよ。」と申されたとか。頼信公は兄君のお言葉に従い、童様を獣のように鎖で縛りお屋敷の片隅に捨て置かれました。
童様もこのような仕打ちに・・・それもお父君の仇である頼光公が相手とあっては憤るのもやむなしと言えましょう。辺りが真っ暗になるのを見計らい、その5人力とも10人力とも称されたお力で鎖を引きちぎり、頼光公のご寝所の様子をうかがわれたそうでございます。頼光公もさすがは都で一番と呼ばれるお方でございます。童様が息を潜めおられることを見抜き、「明日は鞍馬に参拝するとしよう。」と言い放たれました。童様としてはお父君の仇討ちと意趣返しの好機と思われたのでしょう。そのまま夜道を駆け、 市原野にて放し飼いにされていた牛を穫りてその皮を身にまとい、頼光公が来られるのを待ち構えておられたそうでございます。
はたして頼光公は、渡辺綱様をはじめとするご家来衆とともに蔵馬への道に姿をお見せになりました。そして、童様が実を潜められているのを見るや、お供衆に命じて、雨のように矢を放たれました。童様が気づいた時にはすでに遅く、幾本幾十本もの矢が雨のように降り注ぎそれは無残なお姿であったと聞き及んでおります。さりとて童様も鬼子と称された酒呑童子様のお子、せめて一太刀だけでもと刀をお抜きになられましたが、頼光公は素早く駆け寄りて勢いそのままに討ち倒されたそうでございます。
おそらくは、一目見たその時に頼光公はお気づきになられ、策を用いられたのでございましょう。討ち討たれるのが世のならいとは申せ、頼光公は童様を恐れたのやもしれませぬ。されど、酒呑童子様のみならず童様までも卑怯な振る舞いにてお討たれになったのは、私めからいたしましても腹立たしいことこの上ございませぬ。ましてや、野盗ずれにも名乗りを上げて討ち果たすのが、武士の矜持とされておりましたかの時にでございます。
えぇ、童様の顛末をお聞きになられた奥様はたいそう気落ちされ、また床に伏せられるようになりました。食は細り、平癒の祈祷もお受けになることはなく。
えぇ、それから100日足らずでございました。まるでお眠りになるかのように静かに息を引き取られました。雲原の者も憐れと思ったのでしょう。小屋にほど近い七曲りの畑の脇に弔い、小さな石とさやごの苗を植えていただきました。今ではさやごの木も大きく育ち、まるで童様が奥方様の傍にお立ちになっているようでございます。
いえいえ、拙い昔語りのお耳汚し、失礼いたしました。せっかく来ていただいたのに、お役に立てましたかしら?
えぇ、またいつでもお越しになってくださいな。えぇ、それでは。
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