念のため病院行っとく? いやいや現実です
2013.1.29 大規模改修完了
公園灯の青い光に満たされた空間で対峙する、エステラとおっさんシューマイ。
薬をやめたらだめじゃないか! あれ、やっぱり? いやいや現実です。確かにシューマイの香ばしく湿った匂いが鼻をくすぐっているし。ちなみにニオイはナーヴメットの3+1感ではサポートされていない感覚だ。
公園の周囲は白い霧のようなもので包まれ、近隣の家々は十重二十重の霞の奥に消えていた。普段なら通奏低音のように低く流れている町の騒音も一切途絶えている。にわかに空気自体が性質を変え、音を吸収しはじめたかのように。
静寂のなか、エステラ様が地を蹴る音がはっきりと聞こえた。と、瞬きする間にエステラ様の姿がシューマイの間近に出現した。
――転移!?
念のため病院行っとく? あれ、やっぱり? いやいや現実です。現実だよな。自分が何を観てるのかうまく把握できない。ここはどこ? これは現実? そもそも俺は実在するのか?
これがもし現実なら、きっともう気が狂っているのだろう。全て気のせいだとすれば、やはり俺はもう気が狂っているのだろう。つまりそれって、どっちに転んでもルナティック化してるってこと? えっと、まあいいや。それにしてもエステラはやっぱり腰が砕けるほどお美しいです。
考えても分からないので、とりあえず素直にエステラの可愛さを堪能することに決めた。
エステラの存在感は圧倒的だった。挙動の一つ一つから、気迫がひしひしと伝わってくる。これが幻だとはとても思えなかった。
OWOでゲーム中盤から後半にかけて、パーティーに加入してもらうと非常に心強いNPCがエステラだ。いつも無口で怒ったようなキツイ目つきをしているが、その強さは折り紙つき。人間プレイヤーで彼女に太刀打ちできる者はいない。たぶん。
これは今時どうなのかとは思うが、シューマイが半端なく小物感にじむ台詞を口走った。
「一人でのこのこ出歩くとは運の尽き。この手で打ち滅ぼしてミステル様への手土産にしてやろう」
甲高く叫ぶシューマイに、エステラは冷めた声で応じた。
「戦う気はない。話がある」
おお、あんな変なバケモノと対峙して、まずは話し合いでの解決を試みるとはさすがエステラ。マジ天使。
しかしシューマイはけしからんことに、エステラの優しい心づかいを拒否する。
「怖気づいたか、醜いグレイナーめがっ! その手には乗らんぞ!」
瞬間、シューマイの白い皮が膨れたように見えた。高速回転している? 違う、あたかも回転するコマに似て、煙のごとく空間に滲んでいるのだ。
白煙と化したシューマイが哄笑を発する。
「ハ、ハ、ハ、重ね合わせ化したわたしを倒せるかな? ダウンアローを失った今の貴様には不可能!」
エステラが身構えた。高速回転しているように見えるシューマイが何かを放つ。ほぼ同時に公園のコンクリ製遊具が微塵に砕けた。
「だから待ちなさいって」とエステラ。
「ふははは、わたしを止めたくばデコヒーレンスしてみるがいい」
芝居がかった台詞回しだなあオイ、と呆れてしまうが、まあこんな奇怪な連中が普通の言葉遣いをしている方がおかしいか、と自分の中で勝手に合理化するのは容易だった。
突如として、シューマイからランダムに危険極まりない高速弾が放たれる。地面に向かってマシンガンを連射したかのように、公園の土に次々と孔が穿たれた。エステラは上空に宙返りして避ける。彼女が一瞬前まで居た場所に残っていた長い髪先が、高速弾に襲われ消失した。
「ふん、仕方ない」
エステラは両手バックハンドで武器を振りかぶる。つい今しがたまで彼女は手ぶらだったはずなのに、武器はそこに現われていたのだ。
その武器には完全に見覚えがあった。
「あれはエターナル・サイスだ」
OWOにおいて、彼女がデフォルトで所有している武器だった。
その長大な湾曲した刀身は、命を刈り取る死神の大鎌と表現すべきだろう。それは某ベルセルクの大剣よりはずっと軽量そうだが、見た目通り金属製ならば、どう考えても普通の人間が振り回せるような質量ではないはずだ。それをエステラは軽々と扱っている。
OWOの設定上、サイスは“すべてを切り刻む虚無の威力を宿せし死神の鎌”で、“その材質は金属なのか粘土なのか、それすら現代の科学力ではわからない”らしい。それ、普通にファインセラミックじゃね? とツッコミたくなるが、それは無粋というものだろう。
流れ弾だろうか。ガィン、と滑り台の金属を震わす衝撃に驚いて、とっさに顔をかばった。その拍子に滑り台の斜面をスルスルと滑り落ち、体育座りの格好で最下部にゆっくりと到着。細い足首が視界に入った。ふと視線を上げると、そこにはあった。
桃源郷が。
丈の短いボトムスとニーソックスが形成する“何人にも侵されざる聖なる領域”が、手の届くところに存在していた。そして白いふとももはスカートの奥に伸び、その先には――あれ、見えねえな。もうちょっと。
首よ折れよ、とばかりに聖域を拝もうとした直後、背後の邪な気配でも察したのか、エステラが素早く振り向いた。
「!」
大きく目を見開いて、俺を見つめる美少女がそこにはいた。
何か言った方がいいかな。いいよね? 嘘はつきませーん、と宣誓するかのように右てのひらを彼女にかざす。
「あ、どうも。別に怪しい者ではありません」
エステラはどぎまぎする俺を発見して一瞬身構え、そして怪訝な表情を浮かべた。ついでにシューマイまでも動きを止め、値踏みするように俺の頭のてっぺんから生えた風にそよぐアホ毛(実際そんなものはないが)からつま先まで、じろじろ眺める。
気詰まりな沈黙が流れた。シューマイのグリーンピース部分の顔までもが驚きと戸惑いの表情だ。お前がそんな表情するな。
そのとき、エステラが呆れた、といったニュアンスを含んだ驚きの声をあげた。
「あんた誰……あ、え!? ちょっとあんた、いないじゃない!」
いないって、何が!? トモダチが!?
見た目だけで友人がいないことを見破られたことに、半ば呆然とする。顔に出ているのか?
「お前は――もしかして、お前は――」とシューマイが俺を指さしてなにか言いかけた、そのとき。
エステラはハッと正気を取り戻し、再び現われたエターナル・サイスを素早く振り抜いた――というより、はじめから猛烈な運動エネルギーを与えられた上で出現したサイスを、あさっての方向に飛んでいかないように握っていた、と表現すべきか。
神速で走るサイスの刃に両断されたシューマイは、末期の台詞「あっやべっ」を遺言として、光の粒となって飛び散った。役割を終えたサイスも、与えられた角運動量そのままに地面と激突するかと思われたが、忽然と消えうせる。
シューマイのいた場所には、ソフトジーンズに縦縞シャツをインするという完全無欠オタクファッションの男が倒れていた。
死んでないよな? お世辞にもナイスではないミドルだが、それは死に値する事柄ではない。
そのとき、さっと体の中を何かの気配が吹き過ぎてゆくのを感じた。それはアホ毛一本揺らしはしなかったが、確かに本物の風のように力を持って流れていた。するとおもむろに、公園を世界から隔絶していた霧のようなものが薄れ、遠くから車のクラクションの音がもの悲しく公園に届いた。
「粗視化空間が解除されただけ」と、俺に背中を向けたまま、エステラがつぶやいた。
「そ、そしかくうかんって?」
「連中が生み出す特殊な複素数空間のこと。高次空間を虚数空間に投影して実数空間と重ね合わせている。まあ、わからないだろうけど」
エステラはわざと嫌われようと努力しているかのように高飛車な態度を示した。それはまさしくOWOのエステラが示すべき態度だった。
俺はこのときうかれていたのかもしれない。場を和まそうと、寒いギャグを口走るという失態を犯してしまった。
「ホストというとイケメンがなるという……」
「ホストとは虚の族にとりつかれた者のこと」
振り向いたエステラがはじめて俺の目を見た。エステラの目はこれっぽっちも笑っていない。しかし、そこにある種の感情が写りこんでるように思えた。運命に刃向かうような強い光と――気のせいかもしれないが、精神的な脆さの両方が。
一万円札の透かしを確認するかのように目を細め、エステラはゆっくりと音もなく俺の周りを一周した。
「やはりいないのね」
「いない?」
「虚の族。あんたはホストじゃない。なぜ虚の族がとりついてない? どうやって粗視化空間に割り込んだ?」
不意に首筋のあたりに寒気を感じた。
「答えて」
青みを帯びた光沢を放つサイスが、首に当てられていた。エステラの口元には、ひきつったような笑みが浮かんでいる。ゲームの戦闘時にエステラがみせる、ちょっとアブない喜びに陶然としている様に似ていた。
「ちょ、ここまでしてくれなくても結構なんですけど……これでは俺の命を奪おうとしているみたいじゃないですか。さすがエステラ、ゲームのまんま、マジ不謹慎。でも、そこがいい!」
こんな台詞が口をついて出てしまったのだ。ナチュラルハイ恐るべし。
笑みが消えた。武力的な意味で圧倒的に有利な立場にいるはずのエステラが、たじろいで一歩あとじさる。
言葉を失ったエステラの視線が俺の顔の上をさまよった。そして、彼女は毒気を抜かれたような面持ちでサイスを引きかけた。
「うっ」
そのとき、エステラが小さくうめいた。エステラのわき腹のあたりに黒い染みが点々と現われて、みるみるうちに点はつながって一つになった。