吾輩の心の地図
吾輩は竹である。
すらりと立ち、青々と葉を鳴らし、風にそよぐ姿ばかりを見て、つつましく潔いものと思われているらしい。
なるほど、見た目だけならそうかもしれぬ。
だが、それは地上だけの話である。
吾輩の本領は、むしろ地下にある。
人はどうも、目に見えるものばかりを真に受ける。
まっすぐ立っていれば実直だと思い、しなる様子を見れば風流だと喜ぶ。
昔話にもなれば、何やら神秘めいたものとして扱われ、めでたい席では縁起のよいもののように飾り立てられる。
それはまあ、決して間違いではない。
吾輩にはたしかに、ただの草木では済まぬ気配がある。
なにしろ吾輩は、地下で着々と話を進めているのである。
地上の一本を見て、これが吾輩のすべてと思うのは早計だ。
吾輩は一本ではない。
少なくとも、吾輩自身はそう思っておらぬ。
見えるところに立っている一本は、いわば先触れにすぎぬ。
その下では根が伸び、いや正確には地下茎が伸び、なおも先へ、さらに先へと進んでいる。
地上では沈黙。
地下では拡張。
この二枚腰こそ、吾輩の真骨頂である。
思えば、人は地図というものを好む。
ここからここまでが国であり、ここから先が他所であると線を引きたがる。
道を記し、境を定め、見えるところで領分を主張する。
いかにも人らしい、せわしない営みである。
だが吾輩は違う。
吾輩の地図は土の中にある。
誰にも見えぬところで少しずつ広がり、静かに、確かに、昨日より今日、今日より明日へと版図を伸ばしてゆく。
しかもその進路は、吾輩にしか分からぬ。
いや、吾輩にもすべては分からぬ。
分からぬが、進んでいる。
その曖昧さこそが、かえって大望にふさわしい。
ときおり吾輩は考える。
このまま行けば、どこまで届くのだろうとな。
庭の端か。
林の奥か。
山の裾か。
いや、もっと先かもしれぬ。
地の深みへ、土の奥へ、なおも伸びてゆけば、いつかとんでもないところへ行き着くのではあるまいか。
人は、空を目指すものばかりを大志あるものと思いたがる。
高く、高くと手を伸ばすものに拍手を送る。
だが、下へ向かう志とてあってよい。
見えぬところを押し広げるというものも、世には確かに存在するはずである。
吾輩は竹である。
ゆえに騒がぬ。
高らかに野望を叫ぶような品のない真似はせぬ。
ただ地下で、そっと進めるだけだ。
もっとも、そっと進めているからといって、志まで小さいわけではない。
むしろ逆である。
静かなものほど、内に抱える地図は大きいのかもしれぬ。
人が昔話に吾輩を選んだのも、慣用の中に吾輩を住まわせたのも、考えてみれば当然であろう。
目に見える一本の奥に、何かもっと別のものが潜んでいると、うすうす気づいていたのだ。
つつましく見えて、腹の底ではどこまでも伸びてゆくもの。
風に鳴るだけのようで、地の下では別の話を始めているもの。
そういう気配を、人は案外見逃さぬ。
ならば、その見立てもまた間違いではない。
吾輩は、もしかすると地下を支配できるのかもしれぬのだから。
無論、いますぐではない。
地上の者は、すぐ結果を欲しがる。
花が咲いた、実がなった、背が伸びたと、見える変化ばかりを数えたがる。
しかし吾輩の話は、もう少し長い。
今日の一歩が明日の十歩になることもあれば、何年も黙して土を押すばかりの日もある。
それでも進む。
見えぬところで進む。
その積み重ねの先にこそ、地図は育つのである。
ゆえに吾輩は焦らぬ。
一本の姿で測られることにも腹は立てぬ。
いずれ、見えているものだけが吾輩ではないと知る日も来よう。
まだ遠き我が野望も、いつか届いてみせる。




