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ジェネシス・アーカイブ ~遺伝子の記憶と宇宙の再編~  作者: 如月妙美


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第6章:エピジェネティクスの檻 ——環境変数の上書き

6-1:水深一万メートルの不具合

 季節は移ろい、世界はさらに深刻な色彩の欠落に見舞われていた。大気が透明度を失い、すべてが解像度の低い霧の中に沈んでいる。もはや太陽の光さえも、単なる灰色のシェーダーのようにしか感じられない。  二人が次に向かったのは、太平洋の底、マリアナ海溝のさらに深部に極秘で建設された、日本政府の極秘海底研究基地『ネプチューン』だった。水深一万メートル。そこは、地上の喧騒も宇宙のノイズも届かない、はずの完全隔離された静寂の檻だった。

 しかし、基地の強化ガラスの向こう側に広がるのは、漆黒の深海ではなかった。そこには、不気味なほど鮮やかなエメラルドグリーンに発光する海水が渦巻き、見たこともない形状の深海魚たちが、物理法則を無視した高速で「瞬間移動テレポート」を繰り返していた。ある魚は、尾びれが文字列に置き換わり、泳ぐたびに空間にエラーログを撒き散らしている。重力と水圧の計算式が、ここでは完全に破綻していた。

 徳永隆明は、急激な気圧変化に耐えるための高機能スーツの上着を苛立たしげに脱ぎ捨て、泥臭いカーキ色のタンクトップ姿で、基地のメインロビーにある重厚な金属製ベンチに腰を下ろしていた。彼はそこで、二十キロのダンベルを無造作に上下させ、不気味に脈動を始めた基地のチタン合金の壁を、冷徹な観察者の目で見つめていた。

「見ていろ、玲子。ここのエピジェネティクス(後天的遺伝制御)はガタガタだ。環境からの入力変数が多すぎて、遺伝子のスイッチがランダムにオンオフされている。あの深海魚どもを見ろ。一秒ごとに鱗の質感が変わり、目が三つになったり五つになったり、あるいは退化して消えたりしている。レンダリング・エラーの極致だ。宇宙というシステムが、もはや生物の『形状』という最も基本的なクラスを維持する計算を放棄し始めているんだよ。運営のやる気のなさが、この深海にまで露呈している」

 玲子は、基地の観測員たちが、自分の名前や家族の顔を忘れ、ただの「無機質な記号」として通路を徘徊している姿を見て、唇を噛んでいた。彼女の紺のスーツは、深海の異常な湿気と基地内の重苦しい緊張感でしわくちゃになり、十センチのヒールの音も、不自然にこもった不気味な反響を立てていた。彼女の目は、恐怖を隠すように冷徹さを保とうとしていたが、指先は小刻みに、しかし止まることなく震えていた。

「先生、政府の最優先極秘計画を傍受しました。……彼らは、この海底基地を最終拠点に、全人類の遺伝子を一度フォーマットして再構築しようとしています。蓄積された不整合なデータ……つまり、私たちの記憶や個性をすべてデリートすることで、事態を強制収束させるつもりなんです。それしか方法がない、人類というプロジェクトを継続させるためには『クリーンインストール』が必要だ、と彼らは真剣に考えています。個人の尊厳よりも、システムの稼働を優先しているんです」

初期化フルフォーマットか。官僚の考えそうな、最も安易で最も傲慢な解決策だ。デバッグができないならHDDごと焼いちまえ、というわけか。だがな、玲子。初期化された世界に、君のその美しい意地も、私のこの汚い知性も入り込む隙間はない。それは救済ではなく、全プロセスの抹消だ。私は、そんな死んだバックアップ・データの一部になるつもりはないぞ。不恰好でも、バグまみれでも、自分の意志で走っている方が一万倍マシだ。ゴミ箱に入れられるのは、あの管理者の方だよ」


6-2:環境変数の奪還

 突然、基地全体の照明が不吉な真紅の警告色に変わり、腹の底に響くような巨大な衝撃音が轟いた。  深海の猛烈な水圧が、物理法則の綻びから基地の構造を押し潰し始めたのだ。チタン合金の厚い壁が、まるで紙屑のように無残にクシャリとひしゃげ、その隙間から、エメラルドグリーンに輝く「情報の濁流」が勢いよく浸入してきた。それは単なる海水ではなく、触れた物質の定義をランダムに書き換える、純粋な情報の暴力だった。

「先生、基地の強度が設定値を無視して急激に低下しています! 鋼鉄の硬度という物理定数が、管理者によって勝手に引き下げられた! このままでは基地ごと存在を抹消されます! すべてが『NULL』に還元される! 先生、逃げてください!」

「いいや、そうはさせん! 管理者がこのエリアの『強度』という定数を削ったなら、私がこの筋肉の質量で物理法則を力ずくで補強してやる! アナログな物理エネルギーこそが、デジタルな消去に対する唯一のアンチウイルスだ! 行くぞ、玲子、そこを動くな!」

 徳永は、崩落しかけた基地のメインゲートの巨大な支柱へと走り寄り、自らの頑強な両腕で、ひしゃげた巨大な鋼鉄を力任せに押し戻した。彼の広背筋が、怒れる鋼の束のように隆起し、全身の皮膚から蒸発した汗が、絶命寸前のマシンの煙のように白く立ち上る。彼の肉体は今、基地というハードウェアの不足した強度を補うための、生きた「物理的パッチ」と化していた。その筋肉の繊維一本一本が、宇宙の計算エラーと真っ向から殴り合っていた。

「く、おぉぉ……! 重いぞ、この宇宙の『整合性』ってやつは! 物理定数を素手で支えるのは、さすがに腰に来るな……! だが、私の筋繊維が一本でも繋がっている限り、この空間の『存在権限』は渡さんぞ! 管理者様、見ていろ、これがハードウェアの底力だ!」

 玲子は、徳永が物理的に基地を支え、崩壊を食い止めている間に、メインフレームへと接続された端子にタブレットを直結した。彼女は政府の再構築プログラムをハックし、代わりに「多様性と不確実性」を維持するための複雑な例外処理パッチを、神速のタイピングで流し込んでいた。

「先生、今です! 環境変数のオーバーライド、完了しました! 物理法則を現在の値でロック(Read-Only)します! 書き換えを拒否するプロトコルを走らせました! もう誰にも、私たちの硬度は奪わせません!」

 徳永が魂の咆哮とともに支柱を突き上げると、基地の歪みがピタリと停止し、周囲の海水が本来の漆黒へと戻っていった。情報の奔流が消え、静寂が戻った海底基地で、徳永は荒い息をつきながらベンチに倒れ込んだ。その前腕は激しく震え、皮膚は摩擦熱で赤く腫れ上がっていたが、その口元には不敵な笑みが浮かんでいた。

「……ハック成功だ。政府のクソな初期化計画は、これで完全にゴミ箱行きだ。管理者も、まさか末端のユーザーに物理定数を力ずくで維持されるとは思っていなかっただろうな。計算違いもいいところだ。だが、玲子……見ていろ。窓の外の空の色が変わった。宇宙がいよいよ、全人類という名の『巨大で重いオブジェクト』の解放(Garbage Collection)を本格的に始めやがったぞ。掃除の時間が来たらしい」


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