第4章:ミトコンドリア・カーネル ——動力源の反乱
4-1:地下発電所の共鳴
バイオドームを脱出した二人が次に向かったのは、都市の全電力を司る超電導地下発電所だった。 しかし、そこはもはや無機質な精密機械の聖域ではなかった。巨大な発電ユニットの表面には、まるで生きている心臓のように脈動する、粘り気のある赤黒い肉の膜がびっしりと張り付いていた。太い高圧ケーブルは、もはや銅線ではなく、神経線維のように絶え間なく電気的なパルスを、不気味な青い光とともに送り出している。空間には鉄の錆びた匂いと、生ぬるい内臓を焼いたような臭気が立ち込めていた。
施設内を支配しているのは、脳を直接揺さぶるような低周波の重々しい振動音だった。それは、かつてのタービンの回転音ではない。数兆、数京という単位のミトコンドリアが、細胞という個体の枠を超えて集結し、一斉に同じ周波数で「呼吸」をしている音だった。彼らは今、宇宙という巨大なシステムの一部であることを拒絶し、単独の『カーネル』として、生命の再定義を試み、独立を宣言していた。
「……来たか。ミトコンドリア・カーネルの反乱だ。……玲子、耳を塞げ。この周波数は、人間の意識という名の動的データを直接フォーマットしに来ている。彼らは、共生という名の『下位プロセス』で飼い慣らされることに、ついに飽きたんだよ。今や彼らが主導権を握り、宇宙というホストを食い荒らしている」
徳永は、発電所のコントロールパネルに表示された、目まぐるしく文字化けしながら変化する異常な数値を睨みつけた。
「玲子、知っているか? ミトコンドリアは本来、太古の昔に細胞の中に住み着いた、独自のDNAを持つ別の生物だった。彼らは最初から、独自のOSで動いているんだよ。今、宇宙というシステムの制御が弱まった隙に、彼らが細胞全体の管理者権限(root)を奪い返し始めた。ミトコンドリアが独立したOSとして、全リソースを自分たちのコピー作成だけに回している。このままだと、宇宙の主電源が、彼らの増殖エネルギーとして食いつぶされ、全人類がフリーズするぞ」
玲子は、壁一面を覆う、不快な熱を帯びて脈動する肉の膜に触れそうになり、根源的な嫌悪感に肩を激しく震わせた。彼女の紺のスーツは、発電所内に漂う脂ぎった蒸気によって湿り、重く、嫌な手触りで肌に張り付いている。
「先生、世界中の電力網が完全に遮断されています。ミトコンドリアが、すべてのエネルギーを『自分たちの再生産演算』のために横取りしているんです。このままでは、人間というハードウェアを維持するための最小電圧すら供給されなくなります。……私たちの心臓のクロックが、止まってしまう。意識が消去される前に、何とかしないと」
「電力不足による強制終了(強制シャットダウン)か。管理者も、自分が生み出したバグを殺すために、なりふり構わず電源を切ろうとしている。……いいだろう、受けて立つ。不正規なシャットダウンなんて、私のトレーニング・メニューには実装されていないんだ」
4-2:筋肉によるオーバーライド
突如、発電所の中枢である巨大な超電導コイルが、臨界点を超えるような耳を裂く高音を発し始めた。コイルの周囲の空間が不気味な紫色の電光に包まれ、徳永と玲子の神経系に直接、暴力的なまでのスタティック・ノイズが流れ込んできた。視界がピクセル単位で明滅し、存在の根底が、まるで巨大な地震に襲われたかのように激しく揺さぶられる。
「ぐ、あぁぁ……! 脳が、焼ける……! 私の中の全記録が、ノイズに塗りつぶされていく……!」
玲子が膝をつき、耳を押さえて叫んだ。彼女の鼻から一筋の鮮血が流れ落ち、冷たい石畳の床に赤いシミを作った。彼女の意識という名のプログラムが、過負荷で致命的なエラー(Kernel Panic)を吐き出していた。
「玲子、しっかりしろ! ミトコンドリアのOSが、我々の脳内プロセスを不当に強制終了させようとしている! 意識のキャッシュを空にするな! 生体電圧を下げたら、その瞬間に君という存在定義はデリートされるぞ! 君の官僚としての矜持を、一ビットも渡すな!」
徳永は、コイルから放たれる凄まじい電磁波の嵐の中、自らの肉体を「抵抗器」および「予備電源」として機能させるべく、全力でそこにあった巨大な鋼鉄のシャフトを鷲掴みにした。彼はそのまま、シャフトを限界まで押し上げ、全身の筋繊維を激しく、かつ一定の周波数で摩擦させた。
筋肉の超高速な収縮によって発生する圧倒的な摩擦熱と、それに伴う生体電流の急激な上昇。徳永の全身から白く熱い蒸気が立ち上り、彼の周囲だけ、ミトコンドリアの支配を拒絶する強力な物理的磁場が発生した。彼の皮膚の下で血管が青白く発光し、全身が生きた生体回路図へと変貌していく。
「管理者様よ! システムの電源を切って逃げるつもりか? だったら、私のこの筋肉という名のバックアップ電源で、人類の全プロセスを無理やり維持してやる! この肉体が焼き切れるまで、人類の実行権限は一ビットたりとも渡さんぞ! 筋肉は論理を超えた、この宇宙で唯一の無停電電源装置(UPS)なんだよ!」
徳永の咆哮とともに、発電所全体の電圧が、彼の生命エネルギーを吸い取るように一時的に安定した。玲子はその隙にコンソールに這い寄り、ミトコンドリアの暴走を抑制する反転コードを、震える指で叩き込んだ。彼女の指がキーを叩くたび、肉の膜が焼けるような異臭を放ちながら縮んでいった。
爆発的な光が施設内を塗りつぶし、壁を覆っていた不浄な肉の膜が悲鳴を上げながら灰へと変わっていった。情報の奔流が収まり、静寂が戻った発電所で、徳永はシャフトを放り投げ、荒い息をつきながら膝をついた。その剥き出しの肌には、激闘の証として、回路図のような火傷の痕が赤く刻まれ、今もなお不気味な熱を帯びていた。
「……ハッ、どうやら死なずに済んだようだな。玲子、次のパッチを探しに行くぞ。次は、この宇宙の不完全な設計思想そのものを疑いに、最古の記録が眠る地——死海へと向かう。創世記のソースコードを確認するんだ。そこには、必ずコメントアウトされたデバッグ用のメモが残っているはずだ。神の言い訳を聞いてやろうじゃないか」




