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ジェネシス・アーカイブ ~遺伝子の記憶と宇宙の再編~  作者: 如月妙美


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第3章:表現型(フェノタイプ)の歪み ——生物学的ラグ

3-1:熱帯のワイヤーフレーム

 二人がたどり着いたのは、科学文化省が管轄する巨大な国立バイオドームだった。  ドームの内部は、外部の冬が嘘のように、まとわりつくような高温多湿な熱帯の空気に満ちていた。鬱蒼うっそうと茂るシダ植物や、巨大なオオオニバス。しかし、それらはもはや、私たちが知る「植物」とは決定的に別の何かに変質しつつあった。

 鮮やかな緑色の葉の表面には、不自然な蛍光色の幾何学模様が浮かび上がり、ある植物は一秒間に数センチという異常な速度で成長したかと思えば、次の瞬間に内部から灰となって崩れ落ちる。室内を漂う匂いは、湿った腐葉土の香りと、ショートした電子回路の不快なオゾン臭が混じり合い、呼吸するだけで肺が情報の塵に汚染されるような、生理的な嫌悪感を覚えた。光合成のアルゴリズムがバグを起こし、植物は二酸化炭素ではなく、周囲の空間の『整合性』を消費して成長しているようだった。

 徳永は、汗を吸って肌に重く張り付いたタンクトップの襟元を掴み、ドーム中央にそびえ立つ、ワイヤーフレームが剥き出しになった観測塔を見上げた。

「見ていろ、玲子。これが表現型の歪み——生物学的ラグだ。環境変数としての気候データと、遺伝子の描画命令が同期していない。システムが、植物というオブジェクトの更新タイミング(ティック・レート)を見失っているんだ。本来なら数万年かけて行われるべき適応が、数秒の間にスタック・オーバーフローを起こしながら無理やり実行されている」

 玲子は、紺のスーツの袖で額の汗を拭いながら、目元の遮光ゴーグルを調整した。彼女の白い肌は、高湿度の空気を受けて陶器のように艶やかだが、その瞳には極限の緊張が走っている。

「先生、あそこのバナナの木を見てください。枝からぶら下がっているのは果実ではありません。……あれは、人間の『指』の形をしていませんか? 爪まで、精巧にレンダリングされています。それも、一本一本が微かに、何かに怯えるように動いている……」

 徳永が目を凝らすと、たしかに熱帯の果実の代わりに、生々しい人間の指の形をした肉塊が、不自然なほど規則的に、房となって実っていた。それは、この世界の生物学的境界線が融解し、データが混濁していることの何よりの証拠だった。

「……なるほど。管理者はメモリを節約するために、植物と動物のモデルデータを共有メモリに放り込みやがったな。共通項ベースクラスを抽出しすぎて、出力結果が混濁している。これは投機的発現の失敗だ。遺伝子が未来の環境を予測して先に肉体を変化させようとして、完全に計算をミスっている。生物学的な『先読みエラー』だよ。本来ならあり得べき進化の残骸が、今この場に不当に実体化しているんだ」


3-2:物理演算の放棄

 突然、ドームを支える巨大なガラス天井の一枚が、音もなく消失した。  そこには物理的な破壊の痕跡さえない。ただ、そこにあるはずの「透明な物質」という座標定義が、一瞬で消え去ったのだ。外部の凍てつく冬の冷気が、情報の穴から凄まじい勢いでドーム内に流れ込み、熱帯の植物たちが一斉に悲鳴を上げるような軋み音を立てた。温度差による物理計算が追いつかず、空間の一部にデジタルなブリザードが、白い文字の群れとなって吹き荒れる。

「先生、重力が……! 足元が浮いています! 空間の密度関数が、ゼロへと収束している!」

 玲子の悲鳴とともに、二人の体がふわりと不自然に地面を離れた。重力定数という名の固定値が、ここでは不安定な浮動小数点へと書き換えられていた。徳永は咄嗟に観測塔の冷たい鋼鉄製の手すりを、指の関節が白くなるほどの力で掴んだ。彼の前腕の筋肉が、怒れる蛇のように不気味に波打つ。

「慌てるな、玲子! 私の腕を掴め! 重力の物理演算が優先順位を下げられ、プロセスから切り捨てられただけだ。このエリアの物理エンジンは、今、強制停止命令を待っている。……君の十センチのヒールが宙を舞っているぞ。物理法則の場外へ放り出されたくなければ、死ぬ気でしがみついていろ! 筋肉という名のアナログ定数だけが、今この崩壊する戦場を繋ぎ止める唯一の重りだ。数式が死んでも、この質量マスだけは裏切らない!」

 玲子は宙に浮きながら、必死に徳永の太く、情報の摩擦で異常な熱を帯びた腕に両手でしがみついた。彼の腕から伝わる、生物としての圧倒的な質量感と鼓動の熱量が、崩壊しつつある現実の中で唯一の「確かな重力」となっていた。彼女は、徳永の肌の鼓動を感じながら、この男の筋肉だけは情報の塵にはならないという奇妙な、そして強烈な確信を抱いていた。

「……先生、あなたの筋肉、本当に岩みたいですね。物理法則が死んでも、この腕だけは消えずに残ってくれそうです。……少しだけ、救われた気がします。重力がなくても、ここには熱がある」

「ふん、筋肉はアナログの実数だからな。デジタルのバグごときに消されてたまるか。管理者様、お前の計算リソース不足を、私の筋繊維の強度で無理やり補ってやるよ!……見ろ、次の座標だ! 全システムを支える動力源が、断末魔を上げているぞ!」

 徳永は玲子を抱きかかえ、そのまま重力を無視するように空中を力強く跳躍した。彼の脚力は、もはや生物学的な限界を超え、システム側の物理制限を肉体的な負荷でハックしていた。二人の影は、情報の嵐が渦巻く観測塔の頂上、システムのエネルギー中枢である『地下発電所』へと向かって、カオスの海を突き進んでいった。


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