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ジェネシス・アーカイブ ~遺伝子の記憶と宇宙の再編~  作者: 如月妙美


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第1章:ジャンクの沈黙 ——コドン1の呼び出し

1-1:凍てつく細胞のブート・シークエンス

 季節は、世界を無慈悲な白さで塗りつぶす、暴力的なまでの冬へと加速度的に突入していた。  国立至達大学のキャンパスを包み込む霧は、単なる気象現象としての水蒸気の集まりとは思えないほど濃密で、視界の端々をデジタルノイズのように不透明に遮っている。校舎を縁取る裸の街路樹は、まるで描画リソースを極限まで節約するためにディテールを削ぎ落とされた低ポリゴンのオブジェのように、寒空の下で不自然に凍りついていた。時折、風が吹くたびに霧の奥で「パチパチ」と静電気が弾けるような音がするのは、大気のレンダリング・エンジンが飽和し、空間の解像度が局所的に維持できなくなっている証左だった。

 地下二階。かつては古いボイラー室だった場所を、徳永が強引な予算配分とハッキングに近い事務処理で改装した『生体情報考古学研究室』。  そこには、最新のナノポア型遺伝子シーケンサーが放つ微かな青い光と、それとはおよそ不釣り合いな、サビの浮いた百キロ超のバーベルセットが不気味な同居を果たしていた。室内には、潤滑油の重苦しい匂いと、徳永が愛飲している安物のストロベリー味プロテインの、鼻をつくような甘ったるい香りが換気不足の空気の中に重く沈殿している。

 徳永隆明は、極寒の室内にもかかわらず、泥臭いカーキ色のタンクトップ一枚という姿で、猛烈な勢いでベンチプレスを繰り返していた。五十三歳。その肉体は、情報の海を泳ぎ切った前回の激闘を経て、さらに一段階上の物理的な実存感を纏っている。

「フンッ……!」という短く鋭い呼気とともに、百四十キロの鉄塊が垂直に押し上げられる。盛り上がった大胸筋と、怒れる鋼の束のように波打つ上腕三頭筋。彼の皮膚には、激しい運動によって熱を帯びた血管が浮き出し、それがまるで精緻な回路図、あるいは高負荷の演算を行うプロセッサの配線のように不気味な光沢を放っていた。

 徳永にとって、この過酷な筋力トレーニングは単なる身体の鍛錬ではない。それは、自身の細胞膜に強烈な物理的圧力をかけ、その振動バイオフォトンを利用して細胞核内に眠る遺伝子情報の「読み込み感度」を一時的に引き上げるための、野蛮で直接的なバイオ・チューニングの一種であった。筋肉が悲鳴を上げ、乳酸が閾値を超えるとき、彼の意識は肉体というハードウェアの制限を突破し、細胞内の「読み取り専用領域」へとダイブするのだ。

 バーベルをラックに慎重に戻すと、徳永は荒い呼吸のまま、大型モニターに映し出された、極彩色の螺旋状の波形を睨みつけた。

「……やはり沈黙しているな。ジャンク領域の九十八パーセント。創造主は、ここにどれだけの秘密を『/* コメントアウト */』して隠したんだ? 我々人類を、ただの実行ファイルだと思わせるためのカモフラージュにしては、あまりに重厚すぎるストレージだ」

 徳永は、油ぎった手で首にかけたタオルを乱暴に動かし、自身の血液から抽出されたDNAデータを指でなぞった。現代の分子生物学において、人間のDNAのうちタンパク質を合成する情報を持たない九十八パーセントの領域は、進化の過程で積み重なった無意味な遺伝的ゴミ、すなわち「ジャンク」と蔑称されてきた。だが、情報の考古学者である徳永は、宇宙の物理法則が情報の保存を最優先事項としている点から、全く別の、そして恐るべき結論に達していた。

「創造主様は、クラウド(アーカーシャ)がオーバーフローして消し飛んだ時のために、我々の肉体という名のローカル・ディスクに、宇宙の全ソースコードを分散保存していたってわけか。全人類が、神の全データを収めたポータブルHDDだなんて。贅沢なハードウェアの無駄遣いだよ。それも、管理が杜撰すぎてセクタエラーが出始めているときた」


1-2:解像度の崩落

 地下室の重厚な防音ドアが、凍てついた金属音を立てて開いた。カツン、カツン。石の床に、以前よりも一層冷たく、正確なクロックを刻む刃物のような鋭さを湛えたリズムが響く。中尾玲子だった。

 彼女は生体安全保障局(BSB)の銀色のロゴが刺繍された紺の厚手のロングコートを纏い、十センチのピンヒールで霧の残滓を切り裂きながら歩いてきた。その美貌は冬の冷気によって一層引き締まり、感情を完全に変数から除外したサイボーグのような冷徹さを強調させている。彼女の吐息は白く凍ることもなく、まるで一定の温度に制御されたサーバーラックの排熱のような無機質さを保っていた。

「先生。相変わらず、ここは生臭い肉体労働の臭いと、オーバーヒートしたワークステーションの排熱臭が不快に混ざり合って、生物学的にも精神衛生的にも最悪の環境ですね。あなたの前頭葉のリソースを、ほんの少しでもいいから部屋の換気、あるいはデリカシーという名のプログラムの実行に割り当てるという選択肢はないのですか?」

 徳永は椅子を乱暴に回転させ、汗まみれの顔に不遜な笑みを浮かべた。

「玲子か。相変わらず、君のその高級香水の揮発成分は、私の嗅覚受容体を無駄に占有するな。鼻腔の帯域幅がノイズで埋まってしまう。いいか、この熱量は必要なコストなんだ。遺伝子という名の、数億年も圧縮保存されてきた古いアーカイブを正常に解凍するには、相応のサーマル(熱量)が要るんだよ。冷え切った官僚の脳みそじゃ、アーカイブのヘッダーすら読み込めないだろうが」

「その減らず口を叩く余裕があるうちに、こちらの実行ログを確認していただきたいですね。公文書に記載できないレベルの不具合が頻発しています」

 玲子は徳永の毒舌を完璧に無視し、手にした最高機密レベルの高度暗号化タブレットを無造作にデスクへ置いた。その画面には、一目見ただけで生物としての本能が拒絶反応を起こすような、凄惨で理解不能な変異の映像が映し出されていた。

「先生。冗談を言っている余裕はありません。世界中でレンダリング・エラーが発生しています。それも、今度は単なる物質や空の配置ではなく、生命という名の動的オブジェクトそのものに。……見てください。これ、ただの剥製じゃないんです。昨夜まで生きていた個体です」

 徳永が身を乗り出して画面を覗き込むと、そこにはブラジルの密林で発見された、巨大なジャガーの死体があった。だが、その死体は極めて不気味だった。胴体の中央部から後ろ足にかけてが、まるで不完全な画像データが読み込まれたかのように、不規則なモザイク状の粗いピクセルに置き換わっていた。内臓や骨があるべき場所には、ただの紫色のカラーチャートがオーバーレイされ、不可視のタグである「Object_Not_Found」という微細な文字列が浮遊している。さらに、隣に映るジャングルを構成する樹木も、枝の先端が物理的な体積を失い、不透明なワイヤーフレームの線へと還元され、風に揺れることさえ放棄して空間に固定されていた。

「これは……生物の形状維持関数ジオメトリ・シェーダーが、深刻なランタイム・エラーを起こしているのか? 宇宙というエンジンの整合性チェック機能が、ついに限界を迎えた証拠だ」

 玲子は自身の指先を見つめ、自身の存在が確定しているかを確認するように震えながら、さらにデータをスクロールした。

「それだけではありません。北欧のアイスランドでは、生まれたばかりの赤ん坊の遺伝子配列が、親のものとは生物学的に全く無関係な、ある種の低レベルなバイナリ、0と1の羅列に置き換わっていたという報告もあります。さらに、ニューヨークや上海といった人口密集地では、人々の肌が突如として彩度を失い、セピア色に変色したかと思うと、そのまま解像度が段階的に落ちていき、最後にはブロックノイズとなって霧散する奇病が流行し始めています。世界は、今この瞬間も、内側から『劣化』しているんです」

 徳永は、自分の逞しい前腕を、痛みを覚えるほど強く掴んだ。そこにある筋繊維の確かな質感や、皮膚の熱い手触りが、今この瞬間にも座標を失い、虚空へとアンロードされる幻影であるかのような錯覚に襲われる。

「玲子、そんな厚化粧で来ると、君の肌のレンダリング負荷が上がって、システムがメモリ節約のために君の顔面の解像度を優先的に下げる命令を出すぞ。……いや、笑い事じゃないな。これは個体レベルのアポトーシス(プログラムされた細胞死)じゃない。人類という名のプロジェクトそのものに対する、マスターシステムからのガベージコレクションの明確な予兆だ。我々は、宇宙という名のハードディスクの中で、最も容量を食う『重複ファイル』と見なされたんだよ」


1-3:不正規な割り込み

 徳永は、デスクの引き出しから、古い羊皮紙を模した電子ペーパーを取り出した。そこには、彼が独自に解析したジャンクDNAの断片が、古代エジプトのヒエログリフと現代のプログラミング言語の構文を混ぜ合わせたような、あまりに奇怪で冒涜的なプロトコルで記述されていた。

「見ていろ、玲子。これが我々の肉体の内側に潜む、真の『神の沈黙』の正体だ」

 彼はモニター上の特定の、不自然に点滅する赤黒いコード列を指差した。

「人間のDNAには、過去の全ループの履歴が、多重に暗号化されてスタックされていると言ったな。今、世界各地で起きている悲劇は、その膨大なバックアップ・データからの『不正規な割り込み(Non-canonical Interrupt)』だ。本来なら、我々はこの宇宙のループが正常終了するまで、ジャンク領域のデータに触れることはおろか、観測することさえ許可されていない。だが、何らかの原因でシステムの保護境界サンドボックスが破綻し、このバックアップ領域から古いデータが溢れ出し、現在の実行スレッドに無秩序に上書き保存オーバーライドされ始めているんだ」

「上書き……? つまり、過去の、それも何億年も前のループにおけるデータが、今の私たちの肉体や環境に混ざり始めているということですか? 歴史の混濁現象、とでも呼ぶべき事態なんですか?」

 玲子の問いに、徳永は岩のような重々しさで頷いた。その目には、科学者としての絶望と、ハッカーとしての狂的な歓喜が同居していた。

「そうだ。ジャガーの体がピクセル化したのは、数千万年前のループにおける『未完成の低解像度モデルデータ』が、現在の座標に誤ってロードされたからだ。人々の解像度が落ちているのは、システムの処理能力が、数十億年分にも及ぶバックアップデータの解凍という、設計外の膨大な演算負荷によって枯渇し始めている証拠だ。宇宙というメインフレームの冷却ファンが最高回転数でフル回転しているが、もはや排熱が追いついていない。……お嬢様、この宇宙というマシンは、今まさに熱暴走を起こし、OSごとフリーズしようとしているんだ」

 その言葉が終わるか終わらないかの瞬間、研究室全体が、脳を直接揺さぶるような激しい耳鳴りを伴う高周波の共振に見舞われた。  壁に掛けられた医学用の解剖図ポスターが、一瞬だけ青白いスタティック・ノイズに包まれ、そこにあるはずのない「六本目の指」や「不自然な位置にある肺」が描かれた、異質な進化を遂げたループの図解へと書き換わり、また瞬時に、しかし不完全な形で元に戻った。ポスターのインクが滴り落ち、電子的な火花が散る。

「……今のは、システムによる強制的なパリティチェックか? あるいは、バックアップ側からの強制割り込みか」

 玲子は襲いかかる恐怖をエリート官僚としてのプライドで強引に押し殺し、十センチのヒールを力強く床に打ち鳴らした。その鋭い衝撃音が、崩壊しつつある現実のグリッドの中で、唯一の信頼できる、不変の物理定数であるかのように研究室に響き渡る。

「先生。政府はこの異常事態を『全地球規模の遺伝子汚染による緊急事態』と定義し、事態を力ずくで収束させるための特別措置法……『人類再フォーマット法』の施行を検討しています。ですが、彼らがやろうとしているのは、全人類の全遺伝子情報を一度初期化し、政府が管理するクリーンなバックアップで一括書き換えを行う計画です。そんなことをすれば、人類の多様性も、意志も、そして進化の可能性もすべて消え失せる。人類は今度こそ、創造主に逆らうことのないただの自動実行スクリプトに成り下がってしまう。私は、そんな灰色の未来のために働いているのではありません」

「くく、相変わらず官僚の考えそうな、美しくて最もつまらない解決策だ。デバッグができないならHDDごと焼いちまえ、というわけか。だがな、玲子。初期化された宇宙に、もはや面白いバグ……つまり、我々の意志という名のランダム値が入り込む余地はない。そんな死んだ世界に生きるくらいなら、私はこのバグだらけの世界のコードを、手作業でリファクタリング(再構成)する方を選ぶ。筋肉もコードも、叩いて強くするものだ」

 徳永は二十キロの重いダンベルを、まるでリンゴでも扱うように無造作に鷲掴みにし、ツイードのジャケットを乱暴に羽織った。彼の広背筋が、厚手の生地を内側から引き裂かんばかりに力強く押し広げる。その背中は、崩壊する世界に抗う唯一の物理的な防壁に見えた。

「行くぞ。私の筋肉というハードウェアが、このバイオ・エラーの奔流を物理的に殴り倒せるうちに、宇宙の『コドン1』——つまり、この宇宙という巨大なプログラムの、全生命のブートセクタへとダイブする。神が書いた仕様書が何だ。私は、仕様外の動作で世界を救ってみせる」

「先生……。コドン1へのダイブなんて、理論上の自殺行為です。アクセスした瞬間に、あなたの脳細胞のニューロンすべてが逆流情報で焼き切れる。玲子、君のキャリアどころか、君を構成する全ての細胞の染色体が、不正アクセスによるバグとして宇宙から一瞬でパージ(削除)されるかもしれんのだぞ。……それでも、付いてくるか? それとも、ここで解像度の低いテクスチャとして消えゆくのを待つか?」

 玲子は一瞬だけ、自身の震える指先を隠すように唇を噛んだ。しかし、徳永のその不遜で野蛮な、しかしこの壊れかけた世界で誰よりも真理に近い場所を射抜いている瞳を見つめ、彼女は小さく微笑んだ。その瞳には、恐怖を塗りつぶすほどの、知的な挑戦心と、この風変わりな師への信頼が宿っていた。

「了解しました、先生。私の遺伝子が、政府の古臭いバックアップではなく、あなたのその非常識なパッチコードを選んだことを、後悔させないでくださいね。……地獄へのログインにお供します。もちろん、超過勤務手当はたっぷり請求させてもらいますから」

 二人は、冷たい霧が不気味に立ち込める地下の研究室から、生命の根源を物理的にハックするための、人類未踏の新たな戦場へと走り出した。  外の空は、死の色をした鉛のような灰色に染まり、地平線の彼方では、世界の解像度が巨大なノイズの壁となって、音を立てて崩壊し始めていた。


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