魔法的な
空気が、誰かに一気に絞められたように重くなる。
アモンドの表情が硬直し、口元がぴくりと動く。
騎士の一人が思わず咳払いをし、何事もなかったかのように振る舞おうとする。
もう一人の騎士は頭をそむけ、まるで景色が急に重要になったかのようだ。
ロベルトが瞬きをする。
「……いい質問だな」
そう言ったあと、彼自身も一瞬、固まった。
菊江は弦之介を見下ろし、二秒ほど沈黙した。
「消化や排泄は行わない」
彼女は真剣に答える。「血液はすべて駆動エネルギーに変換される」
千里はうなずき、考え込むように口元を引き締めた。
「なるほど、そうか」
馬は周囲を回りながら進む。時間が意図的に引き延ばされたかのように感じられる。緊張は消えないが、奇妙な“間”が生まれていた。
ロベルトは二人を見やる。
「自己紹介をしよう」
彼は言い、少し微笑む。「ロベルトだ。騎士団第三序列団長。牛肉が好きで、気性は穏やか。運は普通だ」
「菊江」
女は名乗る。落ち着いた口調で。「弓手。視力良好、腕力強し。今は少し疲れている」
菊江は二人に軽く頷き、優しい笑みを見せる。尖った耳が風で軽く揺れた。
「生きていること自体が、本当にすごい」
アモンドは背筋を伸ばし、先ほどの怯えた様子はどこへやら、元の自信満々の態度に戻った。
「ふん」
両手を腰に置き、アモンドは言った。「私はアモンド、天才型隊長。先ほどの戦術牽制、進路誘導、最後の爆薬判断、ほぼすべて私の指揮です」
千里は思わず振り向いた。
「待て、あんたさっき全力で顔面蒼白の悲鳴あげてたんじゃないの?」
「心理戦術だ!」
アモンドは即座に反論。「恐怖で冷静さを隠す、高度な技術だ!」
ロベルトは瞬きをし、頷いた。
「なるほど……わかった」
千里は一瞬呆れた。「本気で信じてるのか?」
「信じない理由は?」
ロベルトは堂々と言う。「ここに生きて立っていること自体が、何よりの説得力だ」
アモンドは得意げに鼻で笑った。
千里も背筋を伸ばし、真剣な顔で名乗る。
「海辺千里だ」
ロベルトは一瞬止まり、眉をゆっくり寄せる。
「……待て」
疑いの目で細める。「前に‘海里三千’って言ってなかったか?」
アモンドの顔が目に見えて歪む。
「ぷっ」
思わず吹き出す。
千里は表情を変えず。
「そうだ」
「で、今は?」
「それも俺だ」
ロベルト「?」
千里は一本指を立て、真面目な顔ででたらめを語り始める。
「命名学の問題だ。人は異なる社会関係の中で、自然に別名が生まれる。例えば家族名、戦場名、酒場名」
間を置き、語気を強める。「そして俺は、二重の自己認知を持つ人間だ」
アモンドが口を挟む。「もっとわかりやすく言ってくれ」
「結論として」
千里は真摯な笑みを浮かべる。「名前が二つあっても、別に不思議じゃない」
ロベルトは二秒ほど千里を見つめ、頷いた。
「……理屈としては納得だな」
アモンドは馬の背で、思わず体がずり落ちそうになった。
短い沈黙の後、千里は思い出したように手を上げる。
「ついでに質問です」
誠実な口調。「地域レベルの脅威に遭遇した場合、精神損失費や恐怖手当は出ますか?」
ロベルトは笑い。
「ない」
「医療費?」
「ない」
「命懸け慰労金?」
「口が多いな」
千里は馬上で崩れた。「この世界、容赦ないな」
菊江は隣で思わず笑い声を漏らし、しばらく止まらなかった。
その瞬間、地面に軽く乱れた振動が伝わる。
そして、地面が突然沈んだ。
今度は、さっきのような断片的な揺れではなく、胃が落ちるほど明確な下方向への感覚だ。
「来た」
ロベルトの笑みは瞬時に消えた。「全員、退避準備」
馬の蹄がほぼ同時に加速し、踏み込むリズムは一気に密になる。地表が沈み始め、下で何かが暴れていることを告げていた。
次の瞬間、地竜が土を破って現れる。
前回のような制御された浮上ではなく、完全なる狂暴。
鱗の間から暗色の液体が滲み出し、動きは不安定。咆哮には苦痛と怒りが混ざる。
体を何度も地面に叩きつけるが、半分ずつずれてしまい、まるで制御システムが狂ったかのようだ。
「状態がおかしい!」アモンドが叫ぶ。
「当然だ」ロベルトはすでに兜をかぶり、鉄の面越しに低く落ち着いた声で言う。「騎士団は準備なしの戦いはしない」
馬は彼らを安全な高台まで運び、急停車する。騎士は千里とアモンドを馬から降ろす。
「ここで待て」
一人の騎士が簡潔に告げる。「近づくな」
言い終わる前に、四頭の馬は反転して走り去った。
アモンドはようやく地竜の状態を把握した。
完全に瀕死だ。
死を悟ったうえで、復讐のためにやってきている。
鉄の矢が体内に残り、毒は血流に乗って神経を徐々に侵す。
鱗の下の筋肉は痙攣し続け、もともとの爆発的な力は無秩序な痙攣に変わる。
「啧、よだれを吐き始めたな」
アモンドは目を細め、冷ややかな幸災楽禍の声で言う。「あの鉄矢、ただの代物じゃないな?」
「騎士団仕様だ」
ロベルトは何気なく言う。すぐに参戦せず、「矢頭は中空で毒嚢内蔵、28種の毒。地中にとどまれば、墓場を選ぶようなものだ」
彼は待っていた。
決定打撃の瞬間を。
二人の騎士が左右から、地竜の攻撃範囲ギリギリを突進。
戦鎚と長槍が同時に振り下ろされ、殺傷は目的ではなく、制圧が目的。
三人目は側面から回り、痙攣の隙を狙って突き刺す。
すべての攻撃は、地竜が力を発揮する直前に正確に叩き込まれる。
地竜の動きは無理やり中断され、力を奪われ、巨大な体はリズムを失い、怒りの無秩序な咆哮を上げる。
尾を振り、左側の騎士を押し戻し、前爪を上げ、重心を前にかける。
「今だ!」
ロベルトが低く叫ぶ。
彼自身が投げ出された鉄槌のように、正面から地竜に突進。
全体重をかけた鋲付きハンマーが首筋に叩きつけられ、金属と鱗の衝突音は心臓に響くほど重い。
「見事だ」
千里は思わず口に出す。
その瞬間、自分がこの戦場で「演技の評価」の口調で言ったことに気づく。
地竜は痛みで猛反撃する。
一撃が早すぎた。
ロベルトは完全に避け切れず、巨大な衝撃で吹き飛ばされ、地面に激しく叩きつけられる。
兜が地面にぶつかり、歯が軋む鈍い音がする。
「団長!」
騎士の声が初めて動揺する。
血が、兜の隙間から滲む。
千里の胸が一気に沈む。
次の瞬間、一人の騎士がロベルトに駆け寄り、小瓶を躊躇なく取り出す。
祈りも、迷いもない。
そのまま瓶を兜に叩きつける。
ガラスが砕け、粘りのある微光の液体が鎧の隙間から傷口に浸入。
ロベルトは地面を支えに立ち上がる。
重傷を受けたとは思えぬ、鮮やかな動作。
「……芽神の血か」
アモンドは息を詰めて呟く。
菊江は血袋を破り、弦之介に撒く。
「弦之介、最後の一矢だ」
彼女は弓の名を呼ぶ。
深く息を吸い、足を開き、体をわずかに前傾させる。
両手を弓にかけると、弦之介が急に張り、低く唸る。
弦が極度に張り、危険な熱気を放つ
弓を全力引く彼女。その弦を、弦之介も自分の力で引き込む。
二つの力が重なり、弦は危険な限界まで引かれ、低く連続する震えを発する。
菊江はすぐに放たない。
弦之介がさらに弦を引ききるのを待つ。
千里は目を見開く。
弓が“燃えている”のが見える。
火ではなく、極限まで張られた感覚。
弓身から熱気が立ち上り、弦は微細だが危険な震えを伴う。
「……失敗できない……失敗できない!!」
矢が放たれた瞬間、千里はまばたきする暇もなかった。
飛んだのではなく、撃ち出されたのだ。
空気が裂け、雷鳴のような轟音。
矢が地竜を貫くと同時に、鱗、骨、肉がほぼ同時に爆ぜる。
巨大な体が硬直し、すべての動きが瞬間停止。
そして轟音とともに倒れる。
「……失敗できない……」
ささやきは再び浮かぶが、前より小さく、夢の呟きのよう。
弦は完全に緩み、弓身の震えも止まった。
世界が静まり返る。
千里はその場に立ち尽くし、喉が乾き、心臓が痛む。
彼が初めて、“生命武器”の戦闘を完璧に目撃した瞬間だった。
魔法ではない。
奇跡でもない。
極端な理解と極端な協力の上に成立する、力。




