全力尽くす
「理不尽にもほどがあるだろ、これ……!」
千里はよろめきながら起き上がり、脚に力が入らず、膝をつきそうになる。
アモンドは歯を食いしばり、地竜を一瞥した。指先はすでに腰の爆薬にかかり、眉は深く寄っている。
「理不尽?」
彼女は吐き捨てるように言った。
「だったら教えてやるわ。何が“本当の理不尽”かってね!」
アモンドは爆薬を地面すれすれに投げ放った。転がったそれは地竜の正面で炸裂し、轟音とともに火柱が立ち上がる。黒煙と熱波が鱗を包み、厚い外皮に焦げ跡が走った。
煙が晴れる。
地竜の動きは、確かに止まった。
ほんの数秒。
傷ついたというより、突然頭を叩かれて一瞬ぼうっとした、そんな停滞だった。
千里は顔を上げ、焦げた鱗を見て、胸が沈む。
「……急所じゃないな」
「当たり前でしょ!」
アモンドは歯ぎしりするように吐き捨てる。「あたしの懐に攻城用の爆薬が入ってるとでも? せいぜい“機嫌を悪くする”程度よ!」
次の瞬間、地竜は理解不能なほど荒々しく動き出した。
尾が薙ぎ払われ、前脚が叩きつけられ、巨体が無様に転がる。もはや狙いを定めていない。周囲そのものを敵とみなし、地表を破壊する。樹木がへし折れ、岩が砕け、土が何度も掘り返されては押し固められる。
衝撃波が地竜の足元から広がった。
見えない巨手に持ち上げられるように、千里の身体が浮く。
撃ち飛ばされたわけじゃない。
ただ、立っていられなかった。
荒波を受けた船の甲板みたいに。
アモンドも同様によろめき、足を滑らせ、二人はほぼ同時に地面へ叩きつけられた。
砕石が頬をかすめ、すぐ脇の木の幹に当たって鈍い音を立てる。
「走れ!」
アモンドは地面を這うように起き上がる。「今すぐ!!」
地竜は、再び方向を“校正”した。
喉の奥から、低周波の振動が発せられる。
それは音というより、周波数だ。地面を伝い、足裏から骨へと這い上がり、頭皮が粟立つ。
「……何してる」
千里は息を切らしながら言う。
「再定位よ」
アモンドは早口で答える。「さっきの爆薬で感知がズレた。今――世界を“聴き直してる”」
言い終わる前に、地面が揺れた。
今度は、無差別じゃない。
追撃だ。
二人は地形の入り組んだエリアに飛び込む。
折れた石柱が乱立し、古い建築物の残骸のようだ。崩れた壁が狭い通路を作り、起伏で視界が細かく切り裂かれる。
アモンドは迷わず千里の腕を引き、その中へ滑り込む。
理論上、大型生物には最悪の地形。
「障害物を使え!」
彼女は叫ぶ。「足止めする!」
次の瞬間、地竜が突っ込んできた。
鈍い衝撃音。
尾が岩をなぎ払い、半人分はあろう石柱を粉砕する。砕片が弾丸のように飛び散り、一つが千里の肩をかすめ、焼けるような痛みを残す。
「……効いてねぇじゃねぇか!」
千里は走りながら悪態をつく。
「分かってる!」
アモンドの声はもう泣きそうだが、必死に保っている。「でも直線はもっと死ぬ!」
狭道に入れば、地竜が叩き壊す。
距離を取ろうとすれば、突進。
柱を回れば、柱ごと粉砕。
「ねえ」
アモンドが低く言った。
千里を見ず、地竜だけを見据えて。
「気づいた?」
「どうやら、あの世行き確定らしい」
千里は苦し紛れに返す。
「違う!」
彼女は即座に否定する。「あいつ、方向転換に時間がかかる。それに、尻尾を振るたび、間抜けな調整動作が入る」
千里は一瞬、言葉を失う。
地竜が尾を振り、障害物を叩き潰す。
石と土が雨のように降り注ぐ。
そして、またあの“間”。
巨体がその場で揺れ、前半身と後半身が噛み合わないまま、数秒硬直し、ようやく追撃方向を定める。
「……五、六秒か?」
千里はほとんど笑いながら叫ぶ。「こいつ、曲がるの遅い!」
見えていなかったわけじゃない。
信じられなかっただけだ。
地竜は大きすぎる。
大きすぎる存在は、人に「弱点がない」と錯覚させる。
だが事実は違った。
直線は本能。
方向転換は致命的に鈍い。
彼らはすぐに動きを変えた。
逃げるのではなく、回る。
残骸を使い、窪地を使い、攻撃後の硬直に合わせて角度を切る。無理やり方向転換を強いる。
一度目、成功。
二度目も、成功。
攻撃は空を切り、地竜の低い唸りは苛立ちを帯びる。
尾は虚しく地面を打ち、爪はもう誰もいない場所を砕くだけ。
「いける!」
千里は思わず笑う。「こいつ、頭悪いぞ!」
「効いてる……本当に!」
アモンドの声に、初めて高揚に近い色が混じった。
彼らは、巨大な獣を“引き回して”いた。
出させて、外し、硬直を突く。
即席のリズムが生まれた。
だが、数分後。
先に限界が来たのは、人間だった。
千里の呼吸は完全に崩れ、肩は方向転換のたびに刺すように痛む。脚は痙攣し、視界の縁が黒く滲む。
アモンドも同じだ。呼吸は乱れ、足取りが重くなり、爆薬は残り一つ。
地竜の“硬直時間”も、徐々に短くなっていた。
彼らの動きを、先読みし始めている。
巨体が、横方向へ強引に突進する。
残骸を押しのけて。
轟——
地面が激しく揺れる。
二人は同時に足を止めた。
目の前に広がるのは、即席で完成した絶望の構図。
前方には、地竜の巨体。
後方には、さきほど回り込んだ、すぐには越えられない崩落。
挟み撃ち。
「……チッ」
アモンドは急停止し、反射的に爆薬へ手を伸ばす。
指が、わずかに震えている。
「……最後の一個」
それは千里に向けた言葉というより、自分への確認だった。
地竜の頭部が、わずかに傾く。
眼はない。それでも、正確に“彼ら”を捉えている。
喉の奥で、再びあの低周波が鳴る。地面が共鳴する。
彼女は深く息を吸い、最後の爆薬を取り出した。
指先を弾き、導火線に火を入れる。
「よく聞いて」
早口だが、異様に明瞭だった。「これを投げて感知を乱す。あいつは必ず一度、無差別に暴れる。その数秒――」
「走る」
千里が頷く。「分かってる」
「違う」
アモンドは鋭く彼を見る。そこにはもう、軽口も、挑発もない。あるのは獣のような真剣さだけ。
「どっちかが生き残ったら。もし転生があるなら……あたし、あんたに一回、借りを作る」
千里は一瞬、呆けた。
それから、笑った。
「お前、最期の台詞にしては、ずいぶん詩的だな」
アモンドは答えない。
爆薬を投げた。
地面を転がり、地竜の側前方で止まる。
次の瞬間、爆発が空気を引き裂く。火光と黒煙が噴き上がる。
地竜は怒りの低吼を発し、巨体を無秩序に暴れさせる。
震動が感知を乱し、攻撃は的を失う。尾も爪も、意味なく地面を叩き、破壊的な騒音だけを撒き散らす。
今だ。
千里は、無理やり脚を動かした。
筋肉が悲鳴を上げる。視界が揺れ、世界が暗む。
「動け……!」
心の中で叫ぶ。
一歩。
二歩。
この数秒が、すべてだ。
騒音が止んだ。
あの低周波が、再び響く。
――聴いている。
千里の心が、沈んだ。
終わった。
爆薬の撹乱が切れた。
世界は、再び“校正”された。
地竜の頭部がわずかに動き、身体が角度を調整する。
――もう、聴かれている。
アモンドは少し離れた場所に立ち尽くしていた。顔色は真っ白。道具は何も残っていない。両手は空で、弩がいつ落ちたのかも分からない。
彼女は口を開こうとしたが、声にならなかった。
その瞬間、周囲は不思議なほど静かになった。
風が止み、
砕石の音も消える。
千里は苦笑し、顔を拭った。指先は汗と泥でべたついている。
「……俺なりに、かなり頑張ったと思う」
声は小さく、ほとんど独り言だった。
愚痴でも、遺言でもない。
淡々とした、結論。
「条件を考えれば……十分すぎる結果だ」




